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寄り添うことは本音を発掘すること

新しくオープンしたらしい餃子屋さんに行った。

もっともらしくアドバイスする常連らしき男性。愛想良く答える店長さん。なんだかなあと思う。

餃子は美味しかったので大満足。お酒のアテが少ないからリピートはしないかもだけど、今日の果てしない餃子欲を収めることは出来たからそれはそれでこのお店が存在していて私が今日ここに来た価値があるのだ。


最近、うちの相方に対して「古い固定概念に凝り固まっている」「ジェンダーや多様性への理解がない」と感じてモヤモヤすることがあって、このまま一緒になっていいのかな?とずっとそのことを考えていた。

2人だけなら良いけれど、子供が生まれたとき。彼は「ピンクのランドセルが欲しい」と言った息子を受け入れることが出来るんだろうか。ありもしない将来のことを勝手に想像して、勝手に不安になっていたのだ。

結局、発想の神様が降りてきたのは餃子の2皿目を追加オーダーしたところで。
ふと、その人が話す言葉は「木」のようなもので、もしかしたらその木が生えている土には言葉にならない想いやその考えに至った背景があるのではないだろうか、なんて思った。

例えば「排他的な田舎で育てられ、マイノリティを受け入れることは村意識に反すること」「無意識下でのホモソーシャル」みたいな。潜在的な意識や育ってきた環境、どうにも変えられないもの。そして、変えるべきではないもの。

それらが土壌となっていて、彼の言葉を作っているのではないだろうか。


いつも言葉のキャッチボールの中で、辛いとか苦しいとか、どうして分かってくれないんだろう、と思う。

隠れているものを向こうに共有したりわざわざ伝える必要はないので注意したい。表面的に伝えられること以上を気にしてしまう私が、モヤモヤを解消したいだけの独りよがりな考察でしかないから。受け手からするとありがた迷惑でしかないのだ。

あなたの言葉を真っ直ぐに受け取ることができない自分でゴメンなさい、とも思った。
でもこれが今の私の全力の誠意。

誰かと一緒に生きていく上での精一杯の思いやりなのだ。

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