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暮らしの保健室がある町で生きるってこと

 僕が川崎に暮らしの保健室を作った理由は、それが市民の皆さんに求められていたから、というのもあるが「町のなかで緩和ケアを行う」ためには、この場所が、この機能が、必要不可欠だったからだ。

 では、どのように「必要不可欠」なのか。
 ある方の物語を聞いてもらいながら、暮らしの保健室を含めた、川崎における緩和ケアのシステムをお伝えしていきたい。

※当然ですが、この物語はフィクションです。モデルになった方々はいますが、暮らしの保健室では関わった方々の個人情報や相談内容を無断で公開することはございません。

うまく緩和ケアにつながれなかったキクチさんの物語

 ある日、夫とともに暮らしの保健室を訪れたキクチさんは、神妙な面持ちで、
「主治医とうまくいっていないんです」
という話をし始めた。

 キクチさんは60代の女性で、川崎に住んではいるが東京都内の病院に大腸がんの治療のために通院している。がんは肺に転移し、抗がん剤治療で進行を抑え込んできた。しかし最近、治療の効果があまり無くなってきて、抗がん剤の内容を変更したものの、倦怠感などの副作用も強く、東京まで通院するのもしんどくなってきているのだという。
 主治医にそのことを訴えるも、
「そうは言っても、治療はこれしかないんだから頑張らないと」
と言われてしまうのだそう。
 さらに、この2か月ほど左の肩がずっと痛むのだが、主治医には
「この前整形外科に診てもらって何ともないと言われたでしょう。痛み止めも処方しているんだし、様子を見てください」
と、興味無さそうに返されるだけ。

「とにかく、話をあまり聞いてくれないんです。もっと、痛みの専門家にも診てもらいたい、って頼んでいるんですけど・・・」
 うっすらと涙を浮かべながら語り続けるキクチさん。夫も表情を固くして隣に座っている。

 暮らしの保健室は、夫の勧めで足を運んだのだという。
 インターネットで、「話を聞いてくれるところがあるらしい」と調べてくれて、本日訪れたということだった。
 スタッフが、1時間ほどかけてよくよく話を聞いたところで、
「もしキクチさんがよければ、うちの代表にも相談してみましょうか。痛みのことも何とかなるかもしれません」
 と伝えると、キクチさん夫妻はようやく笑顔になり、その後は家族のことや趣味、これまでの仕事のことなどを話されて帰っていった。

 その後、キクチさんに僕がお会いして提案したのは「早期からの緩和ケア外来」。東京都内で抗がん剤治療を受けている最中でも、地元の川崎で緩和ケアを並行して受けることができる外来だ。

 その勧めに従い、僕の「早期からの緩和ケア外来」に通い始めたキクチさん。痛みの原因が肺への転移であると分かったことで鎮痛薬も調整し、ほとんど痛みが無く過ごせるようになっていた。
 しかし、抗がん剤の効果はさらに乏しくなり、ついには主治医から「もうこの病院でやれる治療はありません」と告げられ、緩和ケアに専念する方針となったキクチさん。その頃には胸に水もたまり、息苦しさから緩和ケア病棟に入院することになってしまった。

 入院したショックから、次第に元気を失っていくキクチさん。
 心配した夫は、再度「暮らしの保健室」を訪れ、妻の体調のことや、今後自分が一人残されてしまうことの不安などを話されていた。
 そして「自分にとっての拠り所が無い病室で過ごすのは寂しい」という話を夫婦でされた、という話題になったとき、スタッフが、
「以前に、奥様が仕事で描かれていた作品がいくつかありましたよね。それを病室に持って行ってみては」
 と提案した。実は、キクチさんはとある有名アーティストのCDジャケットに、自らの作品を提供したことがあるほどのイラストレーターで、その作品以外にも様々な原画を、自宅に飾っていたのだという。

 それは良いアイデアかもしれない、と考えた夫がさっそく作品のひとつを病室に持ち込んだところ、それを眺めながら過ごしていたキクチさんの表情は徐々に変わっていき、
「あなた、あの作品とその作品も持ってきてちょうだい」
と頼んだことで、病室はいくつもの作品に彩られることになった。病室を訪れる看護師たちとも、その作品のことで話に花が咲き、いつしかキクチさんの顔には笑顔が戻るようになっていった。

 そして、
「先生、あまり長くないなら、私はやっぱり自宅に戻りたい」
とキクチさんは希望したため、状態があまり良くない中ではあったが緩和ケア病棟を退院となった。
 その後は当院から訪問診療に伺い、1週間後、たくさんの作品たちに囲まれながらキクチさんは永眠された。

 それから1か月後、キクチさんの夫は再度暮らしの保健室に訪れ、連れ合いを失い一人ぼっちになってしまった孤独を訴えていた。
 そこで、「あのねの部屋」という、大切な人を亡くした方々が集うお話会にキクチさん夫を紹介した。そこで数か月前、さらには数年前に親や配偶者などとお別れした経験をもつ先輩方とお会いしたこと、そして自分の喪失体験も他の方々に聞いてもらえたことで、キクチさん夫もまた、生きる力を取り戻しているようだった。
 それから2年が経つ今も、「もうそろそろ、ここも卒業できそうな気がします」と言いながら、キクチさん夫は「あのねの部屋」に通い続けている。

暮らしの保健室が組み込まれた緩和ケアシステムのある町で生きること

 病気を抱えながら町の中で生きていくとき、医療の助けはもちろん必要ではあるが、それだけでは人は生きていけない。
 川崎には、暮らしの保健室があることで、患者さんだけではなくそのご家族も含めて一緒に悩み、考え、そして最終的には患者さんたちが自らの進む道を選んでいくことを一緒に過ごしてくれる体制がある。
「あなたは独りではないんだよ。あなたの決めたことを、進んでいく道を、見ている私たちがいるからね」
というメッセージを送り続けられる場になっている。

 さらに、この暮らしの保健室が組み込まれた緩和ケアシステムは、患者さんが抗がん剤治療中でも受けられるし、緩和ケア病棟を24時間365日いつでも利用できるし、さらには訪問診療まで、担当医が変更されることなく診療を継続することができる。また、キクチさんは希望されなかったが、患者さんが望めば抗がん剤治療自体も川崎で行うことも可能だった。つまり、抗がん剤治療から、緩和ケア病棟での入院、そして在宅診療に加えて暮らしの保健室における日常の中でのケアまで一貫したサポートが提供できるシステムになっているのだ。このような体制を整えている地域は、全国探しても川崎以外には(僕の知る限り)存在しない。

 世界の緩和ケアは、20年前のスタンダードだった「終末期の緩和ケア」から、10年ほど前に「早期からの緩和ケア」がトレンドになり、そしてこの数年は「地域全体における緩和ケア」を標準にしていこう、という動きになっている。
 つまり、川崎は世界でも最先端の緩和ケアシステムを構築しているといえるだろう。

 この実践を続けていく要は、やはり「暮らしの保健室」。日常の延長線上に存在する場を中心としたシステムである。しかし、川崎における暮らしの保健室もまだまだ完璧な体制とは言い難いのも事実。スタッフをもっと充実させたり、実践の場を増やしていくことが必要である。

 その研究および実践のため、ぜひ多くの方に暮らしの保健室・川崎を応援する仲間になってもらいたい。

 自分たちが年を取ったとき、自分の大切な人が病を得たとき、あなたのまちにも「暮らしの保健室」が広まっているよう、未来への投資を、何卒よろしくお願い申し上げます。

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