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#もう眠副音⑨:緩和ケアとは何か~精神的余命を延ばすという視点

 今回初めて、「マンガの監修」というものをやらせてもらった。

 作者の水谷緑さんは、自らもがん経験者。
 そしてお父様をがんで亡くされたときに、「もっとできることがあったんじゃ・・・」と、後悔と罪悪感を抱いたのだという。
 そして、その思いを緩和ケア専門看護師・木下さんに相談に行く・・・というところから、様々な患者さんの「死までを生きる」姿が描かれていく。
「父に『死んでいくのは大変だなあ』っていわれたとき、何て答えればよかったんだろう」
「死の後に、残ったものが『続き』をやるんだ」
「そこ(死にゆく人の傍ら)にいて、触れることは、言葉よりもダイレクトに伝わるものがある」
など、大切な言葉や問いが散りばめられていて、胸が詰まる。

 そして僕がこの本に寄せた文章が端的に、緩和ケアとは、について表現できたかなと思ったので、出版社の竹書房さんの了解を得て、全文を転記したい。

「緩和ケア」とは何なのだろうか。

 終末期にあらわれる痛みの治療?安らかに逝けるような支援?確かにそういった面もあるけど、それは緩和ケアの一面にしか過ぎない。
 緩和ケアとは、その人が病を抱えながらも自分らしく生きられることを支えるケアだ。終末期に限らず、がんなどの大きな病気と診断されたその時から、僕たち医療者と「生きるためのチーム」を組んでいくことなんだと思う。緩和ケア病棟だって、決して「最期の場所」ではない。この漫画では、水谷さんはお父様をがんでなくされたことから、がん患者さんの話を中心に描かれているが、緩和ケア病棟にはがんの痛みによって一時的に生活が難しくなったものの、治療を受けてまた元気になって退院するために入ってくる人もいれば、家族の負担を減らすための休養として利用する人もいる。緩和ケアは、「あなたがよりよく生きるためのケアをする」仕組みなんだ。

 一方で、緩和ケア病棟で最期を迎える方ももちろん、いる。「最期は、苦しみますか?」と多くの方が尋ねるが、今では緩和ケアを受けることでほとんどの苦痛は和らげることができる。モルヒネなどの薬で痛みを抑え、臨床心理士などの言葉で精神的に安らぎ、ソーシャルワーカーはお金や制度などを使うことを助けてくれる。それでも、死に向かっていく怖さ、自分ができていたことがひとつひとつ喪われていく怖さにさいなまれる夜もあるかもしれない。でもその時に「どうされました?」と声をかけてくれる看護師がいる。隣でずっと不安な気持ちを聞いてくれる看護師は、ただあなたの背中に手を当てるだけかもしれないけど、それは時に薬よりも痛みを和らげてくれる温かい手だ。

 そして、緩和ケアは家族も含めてみていくケアだ。「支える側にこそ、支える人が必要」とはよく言われる言葉。家族だってつらい思いをしているのに、「本人のために、あなたがしっかりしないと」と周囲から期待され、誰にも頼れない・・・ということは多々ある。「医療者とチームを組もう」、と僕は最初に述べた。それにはもちろん家族だって含まれる。家族というチームメイトが倒れそうになっているとき、助けるのは当然のことなんだ。僕たちが家族から教えてもらうこともたくさんある。お互い支えあって、「どうすれば本人がよりよく生きられるのか」を目指してけたらいい。
 それでも、病の経過の中で「完璧」なんてことはあり得ない。「あの時、ああしておけば」「もっとこの話をしておけば」と、家族が後悔を抱えるのは当たり前のこと。後悔することは悪いことじゃない。だって、それだけ本人のことを大切に思っていたという証だから。その気持ちがつらくなったとき、また僕たちを頼ってくれたらいい。だって僕たちはいつまでもチームなのだから。

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緩和ケアの役割のひとつは精神的余命を延ばすこと

 以前に「安楽死×演劇」のワークショップで、僕は「死には3種類ある」という話をした。
 3種類の死とは、
・社会的な死
・精神的な死
・肉体的な死

だ。
 一般的に、「死」というとみんなが思い浮かべるのは「肉体的な死」だと思う。でもその肉体が終わりを迎える前に、社会的な役割が喪われ、そして心が折れて「もう早く終わりにしてほしい」というとき(精神的な死)が訪れる。
 これまで自分が培ってきた社会的地位や仕事、役割など(それは親としての役割とかも含む)が病気によって果たせなくなり、「自分は何のために生きているのか」という部分を見失い、そして生きている価値が見いだせなくなってしまうということだ。
 これは多かれ少なかれ、ほとんどの人が経験する自然な経過だと思う。悲しいことだが、自然な経過なのだ。肉体的な死に人が抗うことができないように、社会的な死や精神的な死も抗ってゼロにすることは難しい。
 ただ、抗がん剤治療などがその肉体的な死を先延ばしにできること同様に、社会的な死や精神的な死を先延ばしにすることはできる。そこを担うのが緩和ケアの役割のひとつなのだと僕は思っている。
 そしてその緩和ケアは、僕ら医療者だけで行えるものではなく、社会に暮らす一人一人と一緒にやらないとならないこと。だから医療者以外の人にも知っていてほしい。皆さんの行動が、社会に暮らす患者さんを生かすこともあれば、殺すこともあるということを。

 これまで多くの人は、その肉体的な死にばかりフォーカスをあててきた。精神的な死は「本人の気の持ちよう」として放置されたり、無遠慮に励ましを受けたりして、その傷を深くしていた。社会的な死なんて、考えもしなかった人が大半だろうし、その死を早めることに加担していた人や企業もたくさんあった。肉体的な余命は延びても、精神的に死に至る人が山のようにいた。
 緩和ケアが、これからやっていくべきことは「精神・社会的余命を延ばし、肉体的な死との時間的ギャップをできる限り短くすること」だと考えている。僕が、『だから、もう眠らせてほしい』7章でYくんの右腕を守るために放射線治療を提案したのも、その肉体的な死と精神的な死のギャップを短くする戦略だった。精神的な死や社会的な死を無くすことはできない。無くすことはできないけれども、緩和ケアによってその死を先延ばしにすることはできる。少しでも「延命」することに注力して、肉体的な死が訪れるギリギリまで「生きていてもいいかな」と思える環境を整えていくことが求められる。「生きていてよかった」とまではいかなくても。
 大事なことだからもう一度言うけれども、精神的な死、そしてそれをもたらす社会的な死を延ばすことは、僕ら医療者だけではできない。僕が「社会的処方」に取り組んでいるのも、これが理由だ。いま、緩和ケアはその範囲を広げ、医療者だけのものではなく社会全体が関わるものに成熟してきている。
 僕は、仲間を求めている。僕たちとチームを組んでくれる仲間を。

 ▼2019/10/6に行われたMED Japanのプレゼンにて「社会的処方が拓く未来」と題して、社会的処方と安楽死、3種類の死について語らせてもらった。僕がなぜ社会的処方に取り組むのか、「だから、もう眠らせてほしい」の中でYくんが登場する理由なんかがわかるのではないかと思う。


 4/2公開予定の『だから、もう眠らせてほしい』8章「もし未来がわかったなら」は、7章の続き。
 キャンプに行ったYくんのその後。「Yくんに、今後の見通しを話したい」という僕に奥さんがかけた言葉とは。そして、Yくんが望む「最後の計画」とは。ご期待ください。

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