2020年6月7日 ブラザーファップフーによる法話「私たちの根にあるもの」

2020年6月7日にアッパーハムレットで行われたブラザーファップフーによる法話「私たちの根っこにあるもの(our roots)」です。英語の法話を日本語にして文章にしました。(日本語字幕は動画にはついていません。)

おはようございます、敬愛するタイ(先生)、コミュニティのみなさん。今日は2020年6月7日です。今プラムビレッジで春のリトリートを開催しています。すでに一年は半分を過ぎようとしています、これが雨安吾だったら本当は全てのハムレットが世界中の友人たちと一緒になってダルマトークを楽しんでいるはずでした。一緒になってプラクティスをおこない、自分自身そして社会の気づきの種のエネルギーを育て育んでいるはずでした。

今週は世界中にとって重い週でした。社会が落ち着かない状態でした。プラムビレッジにずっといる人たちの中には外で何が起こっているのか知らない人もいるかもしれません。なので、簡単に今の状況をシェアしたいと思います。コミュニティとしての気づきを持つことができるように。

アメリカで何週間か前に、黒人の男性が警察官によって殺されました。それは録画されていて、多くの人がそれを目にしました。多くの人がそれを目にした時、不正義を感じました。人種差別が今も社会の中に間違いなくあることを感じました。

私たちは一つの庭の花として共に生きることができます。人類の庭です。私たちはお互いを尊重することを学びます。それでも、差別の種は人類の庭の奥深くに存在しています。この出来事を通して、人類の一人一人が目覚めることができます。そして「これは正しいことではない」と言います。私たちは苦しみに光を当てる必要があります。人種差別に光を当てる必要があります。

私たちは声をあげなくてはいけません。これを起こさないためのシステムが必要です。私たちはこの運動へ目を閉じることを止めます。ここ何週間かは抗議活動が各地で起こっています。最初はアメリカのいくつもの州で起こり、その後世界中に広がりました。そして差別の意識、行動としての差別、差別による暴力に光を当てました。

平和的な抗議もありました。パリやロンドンなど多くのヨーロッパの国での抗議は多くが平和的なものでした。誰かが苦しむ時、誰かが亡くなる時、私たちもまた亡くなります。そして苦しみが私たちの内側にあります。誰かが苦しんで暴力がそこにある時、それは私達みんなに影響します。それは、怖れにつながります。安全ではなくなることへの怖れです。

そして私自身もコミュニティの一員として、そして僧侶として自分自身の感情のケアをしています。自分自身の中の差別の種にふれないようにしています。そして今起こっていることを抱きしめるようにしています。起こったことは間違った行為だと思います。でも、そこにある知恵にも光を当てることができます。ブッダが教えてくれた知恵です。それは無差別の知恵です。

私達はとても国際的なコミュニティです。色々な国籍の人がいます。自分の周りの命に目を開けば様々な美しさ、文化、伝統にふれることができます。私たちはそれに対して差別をしません。なぜならどの伝統にも、どの文化にも、その中に美しさがあるからです。愛の美しさ、慈悲の美しさ、音楽、物語、それらは全て私たちの先生です。

でも私たちの心が狭くなった時、そして分離した自己を超えて物事を見るために自分を助けてくれる環境がなかった時、ある考えに囚われてしまいます。その代わりに「自分たちの人種がすぐれている」という優越感のコンプレックスを育ててしまいます。そして自分達の方がより才能があって、自分達の方が権利があると考えます。

そしてそのコンプレックスによって苦しみが作り出されます。なぜなら他の人たちは自分達より劣っていると考えるからです。あるいは他の人たちが自分達と同等になろうとしていると考え、相手を罰したい、自分達の権利を自分達だけのものとして守ろうとします。

なので差別の根にあるものを見てみると、3つのコンプレックスにふれることができます。私たちは瞑想をして日々の中のそのコンプレックスを見つめる必要があります。私達のコミュニティの中でもそうです。それを認識し、本当の名前で呼ばなければなりません。そしてそれに向かって微笑みかけます。そして私たちの考え、言葉、行動を通して変容させます。物事をどのように見るかということもまた行動です。

オープンさと包み込む気持ちで見た時、私たちの瞳は愛で輝き、慈悲や包み込み気持ちで輝きます。でも、私たちが差別や無知で覆われている時、私たちの瞳は憎しみと分離を表わします。

だからプラクティショナーとしては、どのように物事を見るかということ、ブラザーシスターや友人たちをどのように見るかということが、すでに行動なのです。私は見るときに平静さを育んでいるだろうか?あなたを見る時そこに思いやりはあるだろうか?

私たちはプラクティショナーとしてそれらが自分が育むことができる種だと知っています。それは瞑想でだけでなく、行動として現実の世界に応用される必要があるものです。私たちの生き方の中で育んでいくものです。

我々の根となる先生、ブッダもまた差別の種を変容させる必要がありました。ブッダはインドに生まれて、カーストによって分けられる差別的なシステムの中に生きていました。5つのカーストがあって、ブラフマンという聖職者の階級があって、戦士・王族・政治家の階級、商人と地主の階級、そして庶民や貧しい農民たちの階級がありました。そして一番下には「不可触民」と言われる階級の人々がいました。

差別と分断のシステムの中に生まれて、時として動物の方が不可触民の人間よりも権利を持っていることがありました。ブッダは若い王族だった時、世界の中にたくさんの苦しみがあることに気がつきました。それは王宮の中にもありましたし、通りにも溢れていました。

ブッダがスピリチュアルな旅路に足を踏み出した時、彼は自分自身を解放する方法を探したいと思っていました。でももっと大事なことですが、ブッダはもし自分自身を解放することができたら、他の人々を自由にすることができると知っていました。だからそれは自分勝手な旅ではありませんでした。

彼は自分が成功すれば多くの人がその利益を得ることができると知っていました。僧侶として、彼が目覚めた時、彼は無差別の智慧に触れることができました。私たちは自分達だけでは存在することができません。個人として存在することはできません。自分達自身を見た時に、自分の内側に自分のお父さんとお母さんがいることを認識することができます。その2つは私たちが現れてくるために欠かすことができない条件です。そしてそれが出現した後も私たちは生きて存在するために他の資源に頼る必要があります。

私たちには食べ物が必要で、環境が必要で、教育が必要です。愛があると私たちは成長することができます。そして理解できるようになります。だから、自分自身を深く見つめて瞑想すると、無差別の種にふれることができます。それらの条件を一つでも取り除いたら、私たちは私たちではなくなってしまうことは明らかです。私たちは存在することができません。

根源的な真実としては、私たちは自分の存在を認めてもらうためにパスポートに頼る必要はありません。ならなら私たちはある国を超えた存在だからです。一つの人種以上の存在だからです。一人の個人を超えた存在です。

自分自身を見てみると、ファップフーについて瞑想してみると、私の中に沢山の命の流れがあることが分かります。私はベトナムで生まれたので、ベトナムの遺産があります。でも、その後私の家族はカナダに移民として移っていったので、2つ目の流れもあります。西洋の教育と、西洋の文化の流れです。だから、カナダの西洋の遺産も私の中にあります。学校で教育を受けて、また同時に苦しみも経験しました。

私の両親は戦争を経験して、貧困に苦しまなければなりませんでした。西洋に来た時には、新しい生き方に耐えなければなりませんでしたし、時として差別されることもありました。だから私はその種が自分の中にあることを知っています。その傷も私の中にあります。

そして、成長した時、特にアジアの文化を受け継ぐものとして、自分がどこに属しているのか分からなくなりました。私はベトナム人なんだろうか、それともカナダ人なのだろうか?そして、コンプレックスを抱えていました。どこにも属していない、他の人と対等な存在ではないというコンプレックスです。

そのような考えのために時として自分自身を自分のルーツから切り離していました。今でもよく覚えているのは、学校にベトナム料理を持っていくのが恥ずかしいと思っていました。私は西洋人のようになりたいと思っていました。それが何を意味していたのかはよくわかりません。多分ピーナツバターとジェリーのサンドイッチを持っていくということだったのかもしれません。

今振り返ってみると微笑ましいですし、笑えます。今ではベトナムのサンドイッチの方を好んでいますし、たくさんの味がして素材も多いし豊かだと思っています。でも、それが現実なのです。自分自身の島に帰る方法を教わることがなかったために、自分達の美しい文化を認識することができず、違っていることの美しさにも気づくことができませんでした。

ブッダは自分のサンガを作った時に、この鎖を壊しました。とても強い革命でした。最初には男性だけがコミュニティに入れました。どんなカーストの人でも、どんな背景を持った人でも関係なくコミュニティに入れました。もし苦しみにふれて、自分自身の愛と理解を育て、マインドフルネスと慈悲を日々の中で培っていきたいと思うなら、誰でも参加することができました。

どのような背景を持った人であるかの検査は設けていませんでした。王家に生まれても、給仕だったとしても、先生だったとしても、関係なく受け入れられました。それはとても力強い声明でした。誰もが愛の種を持っていて、誰もが憎しみの種を持っている。誰もが暴力の種も持っている。でも、自分自身の島、土地に帰って、自分の意識の土壌をケアすることができたら、私たちの内側にある目覚めの種に触れることができます。それはあなたが王子様でも不可触民でも関係ありません。ステータスというのは単なる幻想なのです。ブッダがサンガを作った時にはその鎖を壊しました。

後には、ブッダはまた新しい革命をしました。コミュニティの中に女性を入れたのです。それはその時代一般的ではありませんでした。ブッダはまた、私たちが命の真の価値を見ることを助け、私たちを自由にしてくれます。無差別の智慧の種に触れることができた時、私たちは自由になるからです。

一日一日さらに自由になり、もっと受け入れることができるようになります。私たちの望みや理想はその種に触れて、実現することです。最初は小さいかもしれません。でも、思いやりや慈悲、喜びや寛容さは心の中で育ちます。私たちはもっと受け入れられるようになります。まず、自分自身が祖先から受け継いだものを受け入れられるようになり、その豊かさにふれます。今この瞬間を見る目る頃ができた時に、自分達のコミュニティの豊かさにも気がつきます。

違いにふれれればふれるほど、私たちは豊かになります。今では世界はとても国際的になっています。特に食べ物はそうです。どこにパスタだけに自分達を限定する必要があるでしょうか。そうしたら飽きてしまいます。私たちはアッパーハムレットで、パスタを楽しんでいますが同時に苦しむこともあります。時には何週間も毎日スパゲッティばかりということがあるので、急にブラザーかシスターが別のもっと味のある食べ物を用意してくれると、時にはそれが何なのか分からないこともありますが、それをオープンな心で試してみて「わお」と感じることもあります。それもまた世界の一部です。素晴らしい食べ物があって、それによって私たちはさらに豊かになります。自分の境界を超えて物事を楽しむことができます。

人間というものを見た時に思うことは、私はタイが子どもたちに小石の瞑想を教えているのが好きなのですが、最初の小石はお花の爽やかさで、タイがいつも言っていたのは「あなたがお花の爽やかさをプラクティスする時、あなたは自分自身が花だと分るでしょう。そして他のブラザーやシスターや他の人もまたお花だと分るでしょう」と言って人間を「人類の庭に咲く花」と表現しました。私はその言葉が好きです。

それは実際にそうだろうと思います。私たちのコミュニティが何年もかけて作り上げた自然の庭を見てみると、プラムビレッジは初期にはあまり整備されていませんでした。年上の初期からいるブラザーシスターに聞くと、誰もが庭師になれたと言います。誰でも自分の好きな木を植えることができました。だから、アッパーハムレットの庭を見てみると、そこには構造というものがありません。一つの庭に一つの種類の木があるというようにはなっていません。そこには松の木があって、柳の木があって、サボテンがあって、ヤシの木があり、薔薇があり、紅葉があります。

最初見た時になんて混沌としているんだろうと思います。構造的なマインドはどこにあるんだろう、これを考えた人は誰なんだろう、と思いました。私自身はすごく計画やきちんと進めることが好きなのです。カレンダーはどこにあるか、構造はどうなっているのか、これはここにあるべきもの、あれはあっちにあるべきもの、という風に。

でも今、38年たってアッパーハムレットを見てみると、全ての木が成長して木陰や様々な色を提供してくれています。その美しさを見ることができます。1種類だけでなく様々な木があるということがどれだけ素晴らしいことかを見ることができます。それがどれだけ豊かなことかを。

私たち人類は木から学ぶ必要があります。木々は土地を共有して、根を育んでいきます。そして、根っこ同士がお互いを助けています。栄養をめぐって争うことはしません。彼らは分かち合いの智慧を持っています。栄養を分け合います。

私たちは春に庭の整備をしていました。特に今年はプラムビレッジでは大きなリトリートがなかったのでその時間がありました。他のブラザーシスターたちとアッパーハムレットとミドルハムレットの竹林に行って刈り込むのを手伝ったことがありました。竹の根を見たことがあるとしたら、根っこが絡み合っていることが分かると思います。その竹について迷走した時に見えてきたのは、竹ですら無差別の智慧を持っているということです。竹はお互いを助け合って、結びついています。だから竹はあんなにフキシブルでかつ強いのです。

たとえ強い風が来て、嵐にあったとしても竹が根こそぎ倒れることはありません。でも松の木や楓のようなそれぞれ分かれている木が倒れることはあります。もし何も保護するものがなくて、大きなあらしが来ると、そのような木は根こそぎ倒れてしまいます。でも、竹林ではそのような光景は見たことがありません。竹はどのように動いたらいいのか知っているのです。もし風が左側に押したら竹は一緒になって左側にダンスします。もし右側に風が吹いたら竹は一緒になって左に流れます。なぜかといえば土の中で竹の基礎にある根っこはお互いを結びつけていて、そのため竹は安定しているからです。自分一人のことを考えたりしません。

人間として、ここから学べることは、自然は毎日命がどのようなものか教えてくれているということです。人類の庭で、私たちがこの智慧にふれることができた時、私たちはもっと自由になります。そしてお互いにオープンになることを学びます。そして違うということの美しさを知ります。

今は多くの国で、他の人種の人、他の国の文化を取り除こうとしたら空っぽになってしまうでしょう。それはまるでその国が存在しないようなものです。それぞれの中にある違い、肌の色の違いというのは境界を作るためのものではありません。無差別の智慧に触れることができれば、私たちを豊かにしてくれます。

だから今世界中で人々が抗議して、声を上げているのだと思います。それは差別、人種差別です。それが私たちが呼ぶべき本当の名前です。そして警察官による残虐行為です。

平和的な抗議も多くありました。ディアパークにいる私たちのブラザーやシスターたちもエスコンディドでの抗議に数日前に加わりました。それは黒人コミュニティの人々への連帯を示すためです。鐘の音を1つ聞きましょう。そして、あなたの中にある、あなたではない要素に触れましょう。酸素のことだけ考えても、それはあなたではないものです。そしてそれがなくてはあなたは生きることができません。

(鐘の音)

私たちの身体の中にもまた、無差別・非二元性の教えがあります。自分の身体の一部が傷ついた時に、身体の他の部分はそのことにすぐに気がついて、何をしていてもすぐにやってきて痛みを減らそうとします。

何年も前に楽しくブラザーたちとサッカーをやっている中で足首を怪我したことがありました。今でもその時のことをよく覚えています。その痛みの感覚は私の中に刻み込まれています。それについて思い出すたびに、自分の身体がどのような反応をしたか、そして私の身体がケアしてくれたかを思い出します。

左の膝を怪我した瞬間、身体全体がショックを受けました。膝を抱えてしゃがみこんだ時に、自分は怪我をして苦しんでいて何をしていても止める必要があるのだと分かりました。そして、そこへ来てやさしく抱きしめてケアをする必要があるのだと。その時には私の身体の中には「自我」というものはありませんでした。左脚が怪我をしている時、身体全体がケアします。右脚が自分をより誇って、自分の方が健康で優れていると考えたりすることはありません。右脚は適切に癒されるようにどのようにしたら左脚をサポートできるのかその方法を探していました。

このように私たちの身体ですらこの無差別の智慧を持っています。相手を包み込む智慧です。だからある人種の人たちが差別されていたとしたら、痛みや苦しみがそこにはあって、
それは私たちの身体の一部だということは明らかです。私たちはそれを保護し、抱きしめ、ケアするためにできる全てのことをする必要があります。これ以上傷つかないように、これ以上の暴力が起こらないようにします。

左脚だけではそれを刷るための十分な強さがない時には、左脚は傷ついてそれだけで立つことができないとしたら、集合的な目覚めが必要なのです。だから今、各地で人々が集まり抗議が起こっているのです。

人類の庭の一部が傷ついていることが分かった時、破壊されているのを見た時、どうやって幸せになれるでしょうか?それらに気づかないということがどうやってできるでしょうか?全ての注意を向けて、無差別の智慧の光を当てます。

私たちはブッダの継続で、ブッダの生徒たちです。その智慧を継続して生かしていく必要があります。私たちの先生は戦争の最中にそのプラクティスをしていました。アメリカとのベトナム戦争の際に、彼はどちら側にもつくことをしませんでした。右にも左にも、北にも南にも。

彼は苦しみがあるところに光を当てました。そして罪のない人が日々殺されていることに。だからタイの弟子として、そしてブッダの弟子として、私たちのDNAの中にはその智慧があります。それを個人としてそして集団として目覚めさせて、続けていく必要があります。私たちの中にある愛や理解、慈悲の種に水をやるのです。

そして排除しないことに関しては、私達は自分達の生き方を見直す必要があります。最初は大きな規模でなく小さな規模からです。このサンガのコミュニティでは一人で生きることができません。一人で成功することはできないのです。それは「愛しのコミュニティ」のあり方です。それがこのコミュニティの基礎にあり、タイの友人で会った、キング牧師と共通していた願いでもありました。
個人としての影響力はとても制限されたものかもしれません。でも、それが集合的なものとなれば、その波は大きくなり、強くなります。私たちはこのコミュニティに来た時にはお互いを受け入れることを学びます。自分の内側にある違いであり、自分の周りにある違いです。私たちは気がつくことができます。右にいるブラザー、左にいるシスター、目の前にいる友人、後ろにいる同僚が苦しみを抱えていること、そして彼らにそれぞれ違いがあること。私たちは闘う必要はありません。彼らをただそのまま見つめるのです。

そして彼らの内側をよく見てみると、良い種もそこにあることが分かります。変容されることが必要な種がそこにあることも分かります。でも、一人では変容できません。集合的に変容させるのです。

私はプラムヴィレッジのおかげで自分のコンプレックスから自由になることができました。自分がベトナム人なのか西洋人なのかというコンプレックスです。私が最初にプラムヴィレッジに来た1996年、お祭りがありました。ご存じのようにここにはたくさんのお祭りがあります。ローズフェスティバルがあって、それはお父さんお母さん、そして祖先に感謝するお祭りです。私たちは自分のルーツにもう一度つながります。そして夏にはムーンフェスティバルもあります。一番喜びに満ちたお祭りかもしれません。

それらのお祭りの中では私たちは自分の出身の伝統的な服を来ます。今も覚えているのはプラムヴィレッジでは、伝統的なベトナムの服が少年と少女のために保管されていて、私に一つ渡されました。私の名前はその時はニィムと言いました。「責任」という意味です。

そして彼らは「小さなニィムよ。今日はこれを着なさい。自分のルーツとつながるために。あなたの国の多くの人はこれを着ているんですよ。それはあなたの源になっているものの一つでしょ。祖先から受け継がれたものです。」それを着た時に、自分はそのシンプルな美しさとつながることができました。周りを見ていると他の子たちは別の服を来ていて、違った見た目をしていて、歴史の豊かさを感じることができました。それを通して私が祖先から引き継いだものの中にどれぐらいの美しさがあるかを知りました。それは私の内側に刻まれていて、触れることができるものです。

でもそれと同時に、西洋から学んだ知恵にも触れることができます。それを差別することはしません。その知恵や美しさは私を毎日成長させ理解することを助けてくれているからです。だから私は自分のコミュニティや家族の架け橋となることができます。両親に私が学んだ美しさについてシェアすることができます。彼らにはそのチャンスや容量がなかったかもしれません。

スピリチュアルなことについて話すと、このアッパーハムレットの瞑想ホールにいる人の7割は仏教的な背景で生まれた人ではないと思います。様々な先祖のスピリチュアルな伝統から私たちはやってきました。でも、みなさんのオープンさとすべての教えを抱きしめることができるキャパシティのおかげで、みなさんは新しいものを受け入れることができました。遥か遠く、インドからそしてベトナムからやってきた教えです。

だから私たちは差別をしません。私たちは「これはベトナムのものだろうか、これは西洋のものだろうか」と分ける必要はありません。「これはスピリチュアルだろうか、それとも違うだろうか」と分ける必要もありません。なぜなら私たちのところにやってきた全ての教えと豊かさがあるから今私たちはここにいることができるからです。

それを取り除くことはできません。それを取り除こうとすれば自分自身を理解できなくなってしまいます。自分の中から愛を取り除く行為です。包み込み、排除しないという自分の力を取り除いてしまいます。

コミュニティとして4週間サマーリトリートをやっていますが、3種類の異なるお祝いをしています。ローズフェスティバルがあり、ピースフェスティバルがあります。平和はとても大事です。平和がやってくるのに戦争を待つ必要はありません。戦争がなくても気がつくことができます。戦争が始まらないように平和のプラクティスを続ける必要があるのです。だから平和をお祝いする必要があります。平和に光を当てるのです。そして子どもに彼ら自身の内側と周りに平和を育むことの大切さを教えます。友人たちとの輪や、家族の中、コミュニティなどで行う必要があります。

そして3つ目がムーンフェスティバルです。以前は祖先のお祭りもあったのですが、あまりにも異国的で、あまりにも異なっていたためつながりを感じることが難しかったので、今もうやらなくなりました。なので何か夏にできる他のお祝いを探しているところです。

文化の違いを祝うのが良いのではないでしょうか。自分の文化の美しさを持ち寄るのです。タイランドでは1年に一回私たちのブラザーシスター達がこれをやっています。新年リトリートの中で色んな国から参加者が来て、様々な国のブースを出しています。在家の参加者たちが参加して、伝統的な服を着ます。そのブースでは自分の伝統の美しさをシェアします。でも、私たちを一番結び付けてくれるものはなんだと思いますか?私たちが文化を楽しむことを助けてくれるのは?

食べ物ですね!そのビデオを見ました。日本のサンガの人たちは日本の着物を着ていて、韓国の人たちは伝統的な服を着て、ベトナムの人たちも…などなど。それを見てとても嬉しい気持ちになりましたし、お祭り気分になりました。次にサマーリトリートを開く時には、それがお祝いの一つになるでしょう。人類の中にある違いをお祝いするお祭りです。

イタリア人のブラザーは美しいイタリア料理を作ってくれるでしょう。フランス人のブラザーはクレープとクロワッサン、バケット…きっと楽しいでしょうね!私たちはもう経験しているのは、フランス人ブラザーのおかげなのですがディキーンは料理を作るために8時間もそこに座ってかき混ぜてくれていました。それを見た時本当に嬉しくなりました。彼は深く彼の文化にある何かをシェアしてくれようとしてくれていたからです。

そしてブラザーバオダンというインドネシア人のブラザーが麺を使った料理作ると、彼だけでなくみんながそれを楽しむことができます。今この瞑想ホールにいるだけでも10か国以上の国籍の人がいます。それはなんと素晴らしい事でしょうか。違いを持った人たちと一緒にいるということはなんて素晴らしいことなんでしょうか。そしてその違いを楽しめるということが。

私たちはこのプラクティスを生きています。でもプラクティスをし続ける必要があります。なぜなら自分自身を見つめた時に、自分の中にも差別の種があることを見て取ることができるからです。自分の思想の中に、言葉の中にさえあります。ここ最近の世界で鳴らされている気づきの鐘は自分自身へと帰り見ることを助けてくれています。そして時として自分が選ぶ言葉が人を分断させるような言葉だと気がつきます。

あるいは思考の中で。たとえば「それはシスターがやることだよ。ブラザーじゃない」など。それは差別です。それを認識しなければなりません。時として「それは西洋的なものだ」と言うこともありますし、何かに賛成できない時には「それはアジア的なものだから」と言います。自分の中にそのような種があるのを知っています。そしてその私の中の差別の種を変容させる必要があります。

日々の行動をケアする必要があります。自分の考え、言葉、どのようにあるかその振る舞いです。もちろん私たちにはそれぞれ好みがあります。でも、何かを他のものより好むということは、「受け入れない」ということではありません。ある人たちはそれが好きだけれど自分はそうでもないというものがあります。それが自分を豊かにしてくれないと思うものです。でも、それを差別する必要はありません。

例えば大根です。大根が身体に良いことは知っています。ハッピーファームに素晴らしい大根が育っています。でも私は大根が好きじゃないんです。味を楽しむことができません。あの食感も好きじゃないんです。あなたが食べているのを楽しむことはできます。

そこから分かるように、可能なんです。今は食べ物のことを見ましたが、次のレベルに行くと、自分自身、そしてコミュニティについて見えてきます。そして自分が大根が好きじゃないからといって、劣等感を感じる必要はありません。

ある時、タイのアテンドをしていて、タイは食べ物を楽しんでいました。タイの好きな野菜の内の一つにゴーヤがありました。それは身体に良いんです。東洋医学では苦いものは身体に良いものです。特に肝臓に良いんです。タイにアテンドしている時には、タイは私たちに排除しない事のプラクティスの機会をくれます。

伝統的なお寺では、師匠のアテンドをしていたらその先生と一緒に食べることはできません。後ろに立ってただ観察します。何か足りないものがあったら足したり、あるいは片づけをしたりします。でも、タイはコミュニティを発展させていく中で、ご自身を生徒に近いところに持ってきました。食事を弟子たちと共にしたのです。それが見習いでも尊敬される立場の人でも関係ありません。もしあなたがそこにいれば、タイはあなたを招いて一緒に食事をしてくれます。そして食べ物を分けてくれます。

ある時タイは私にゴーヤをくれました。タイに「私はゴーヤが好きじゃないんです」と言いました。でもタイは「身体に良いから、食べることを学びなさい。だんだんと味が分かるよ」と言いました。私は食べました。でも楽しめませんでした。新しいことを挑戦すること、そして自分がそれを楽しめるかどうかを試すことができることを学びました。

私たちはいつも変化していますから、味の好みも、何が食べられるかも変化していきます。だからあなたがオープンであれば、いつかそれを受け入れることができるようになるかもしれません。タイと一緒にいると、いつも食べ物を分かち合ってくれます。そして自分勝手にならない姿が私の心を動かしてくれました。

タイのような禅の先生が、愛と理解のキャパシティを持っていて、まだ未熟な若者に対しても差別をしないのです。それは彼が若者の中にも成長して目覚めるかもしれないという可能性を見ているからです。もっと愛することができる人間になるかもしれないと。そして差別をしないでコミュニティを作る人間になるかもしれないと。タイはダルマティーチャーになるまで待ちなさい、ダルマトークができるようになったら私と一緒にご飯を食べて良い、とは言いませんでした。

この時に、私は自分自身について振り返ると、いろんなことをよく分かっておらず「私は無差別の教えを知っている。だから差別をしない。私は僧侶だ。僧侶は差別をしない。」と思っていました。でも、もっと深く見てみると、その根はまだ変容する必要があることが分かります。私達みんなが、差別の遺産を受け継いでいます。望むと望まないとに関わらず、私たちに手渡されています。

私たちは、僧侶として、プラクティショナーとして、尼僧として、その種を変容させる必要があります。もし、私たちがそれを変容させなければ、次の世代に受け渡してしまいます。それは終わることのない輪です。差別の層の中には、怒りと憎しみ、暴力が入っているからです。

そして暴力はさらなる暴力と差別をもたらします。だから立ち止まることを学ぶ必要があるのです。認識して止まることを学ぶ必要があります。まずは自分の内側のそのサイクルを止める必要があります。もし自分の内側を止めることができれば、未来の世代がそこから学ぶことができるからです。そしてそれを受け渡さずにすみます。私たちは理解と慈悲と、知恵が受け渡されるようにする必要があります。教育が必要です。

だからプラムヴィレッジのリトリートがとても大事なのです。そうなっている理由も分かるんですが、この時にリトリートをできなくてとても残念です。何人かの若い見習い僧が時々シェアしてくれるのですが、彼らは自分がなぜ僧侶なのか分からないと言います。そして何をしなければならないのか分からないと。

それはとても明らかです。種を変容させることです。自らを育み、教育する必要があります。愛と慈悲と理解の種と共に。まずはそれを身につける必要があります。そうしてから人に教えたり受け渡したりすることができます。

ベトナム語では比丘のことを「タイ」と呼びます。比丘になった時にあなたは「先生」と呼ばれるようになるのです。私たちの仕事、役割は、教えること、シェアすることです。でも、まずは自分自身に対して働きかける必要があります。庭に出て、どんな雑草が育っているのか、どの花に水をやる必要があるのかを見ます。そして、ゆっくりとフェンスを取り払います。我々を分け隔てるフェンスです。

だから私たちは毎年何百人もの子どもたちを迎え入れています。プラムヴィレッジがどういう場所か知らないでサマーリトリートに来たら、最初苦しむかもしれません。静かなリトリートに来たつもりだったのに、子どもたちが走っていて、叫んでて、夜9時半までサッカーをしていて、マインドフル検査官がやってきて鐘を20回鳴らして「沈黙のプラクティスをしましょう」と言わなければならないような状況だからです。

でも、そのリトリートで、彼らはここでの愛と平和のエネルギーを教わって、身につけて、抱きしめられます。彼らはそれを私たちと一緒にいるだけで教わっているのです。だから、私たちはホストをして、種を蒔くのです。あとで成長して人類の庭の花となるように。

私はプラムヴィレッジの子どもでした。私が最初に参加したのはサマーリトリートでした。ダルマについてはほとんど知らないでリトリートを去りました。でも、あの場所がどれぐらい平和だったかという感覚とともに去りました。私の周りの人たちがどれぐらい思いやりに満ちていたか。怖れなくても良い場所にいられるということは、素晴らしい条件です。

周りにいる人たちが愛と思いやりについて学んでいる人たちだと知っている時、そのエネルギーは9歳の少年に染みわたっていきました。2つ目に感じたのはスピリチュアリティというのがどれぐらい興味深いかということです。プラクティスのコミュニティがどれぐらい素晴らしいか。

だから子どもが来ると、ブラザーやシスターたちが彼らの面倒を見ます。マインドフルネスについて教えるのは、種に水やりする上で、小さな一角にすぎません。全体の集合的な環境が彼らに影響します。彼らと遊ぶ時が彼らに教えを伝える時なのです。プラムヴィレッジに入って初期のころ、私たちはいくつもの小さなプロジェクトがありました。私たちはいつもファンドレイジングを必要としていました。リトリートから入ってくる収入ではある程度しか賄えなかったので、ファンドレイジングで僧と尼僧と在家のコミュニティを支えていました。だからホールを拡張するためなどでファンドレイジングを行う必要がありました。

一つの方法は、食べ物を作って提供することでした。春巻きやバナナケーキを作って、とてもお祭り的な雰囲気がありました。特にタイの法話の後には彼らはダルマレインを浴びて、ダルマに満たされていましたが、お腹は空いていたので、フードマーケットは大盛況でした。2年か3年やった後でタイが言ったのは、「タイはフードマーケットが多くの喜びをもたらしてくれているのは知っているけれど、誰も歩く瞑想に行ってくれない。なぜならみんなが食べ物を食べているから。」ということでした。だから、私たちは別の方法を探さなくてはいけませんでした。

その時、食べ物を売っていた時には多くの子どもたちが助けてくれました。多くの子どもたちが僧や尼僧と一緒になって料理を売ったり、手渡したりすることを助けてくれました。ある子どもがいて、その子が2ユーロか3ユーロを盗むのを見ました。彼は自分のポケットにお金を入れたのです。私は彼に向って叫びそうになりました。でも、自分に「ちょっと待って」と言って、それがどうなるのかもうちょっと見守ることにしました。

彼が数ユーロを盗んだ時、その子の中でその時に何かが起こっていたのだと思います。彼はどこかに行って、戻って来て「あ!誰かが2ユーロを落として行ったみたいだ。見つけたよ。これはコミュニティにあげるね。」と言いました。

彼は自分が間違ったことをしていると知っていたのです。自分の行為が間違っているとどこかで分かっていました。この環境、この自分に属さないものを盗んではいけないということを教えているコミュニティにいる中で、その子は僧侶からそのことを教わったかどうかは分かりませんが、その環境にいただけで、コミュニティのマインドフルネスのエネルギーの中で、それは間違ったことなのだと分かりました。彼は理解して、戻ってきたのです。そして上手くやらなくてはいけませんでした。おそらく「自分がこれを盗んだ」と言うのは恥ずかしかったのでしょう。だから、自分で物語を作らねばなりませんでした。そのストーリーは「2ユーロ見つけたよ!誰かが落としていったに違いない。これをサンガにあげるよ」というものでした。

だから、私たちがエネルギーを作り出す環境というのはとても大切です。それが他の人を自由にしてくれて、正しさや彼らの中にある倫理にふれることができます。鐘の音を一つ聞きましょう。

(鐘の音)

もう一つのブッダの目覚めの花は、インタービーイング(相互存在)の智慧です。誰かを傷つけた時、自分自身を傷つけています。誰かが苦しんでいる時、私たちも苦しみます。誰かが大事にされていて愛されている時、私たちも大事にされていて愛されています。

これは宗教的な背景をもたない教えです。それははっきりと分かります。だからここ何年か私たちの先生とこのコミュニティはウェイクアップスクールの運動を始めました。それはまず、先生たちに自分をケアしてもらうためです。そして子どもたちを教える際の願いを再び思い描いてもらうためです。知っているように、彼らは未来です。私たちはだから彼らにこの知恵を受け渡す必要があります。インタービーイングの知恵です。

他の人が自分の中で苦しんでいることが分かった時、私たちはもっと理解することができますし、バリアを取り除くことができます。地球はこの智慧を持っています。地球にどんなものを注いでも、地球はそれを受け取り、抱きしめて、変容させてくれます。

私たちが地球とつながり、深く見つめた時に、私たちにも責任があるのだと分かります。私たちが地球をサポートしなければなりません。私たちは地球に無差別を教わるべきです。香りの良いものでも、毒でも、地球はすべて受け入れて抱きしめてくれます。これは二酸化炭素を減らし、地球を変容しサポートするために私たちが必要としている集合的な智慧です。

このことをシェアできて、気持ちが軽くなりました。何週間か今起こっているこの苦しみ、痛み、傷に関してプラクティスしてきて、これについて声を上げなければ、これは起こり続けると思うからです。だからプラクティショナーには洞察があって、その無差別の智慧と教えを他の人にも伝える必要があるんです。無差別の教えの中に、愛の教えがあります。

愛の教えの中には4つの教えがあって、それは慈愛、慈悲、喜び、平静さ・排除しない事です。私たちの愛にはこの4つの要素があります。私たちは差別の差別の種を変容させようとします。私たちの分断されたものの見方や概念を変容させます。この智慧に明かりを灯すことを続けましょう。個人としてとして集団として、私たちはこの智慧の種に水をやり、種を植えることができます。自分や自分のコミュニティ、今の世代の人々のためだけでなく、未来の世代のために。

それはとても重要です。その智慧がなければ苦しみ続け、差別を続け、暴力を続け、不正義が続き、はびこります。それが僧侶としてやらなくてはいけないこと、プラクティショナーとしてやらなくてはいけないことです。それが私たちが運ばなくてはいけない、智慧のともし火です。

法灯を授かりダルマティーチャーとなったら自分自身の内側の智慧の明かりをつける必要があります。そしてその明かりを受け渡す責任があります。その明かりを受け渡す方法はいくつもあります。それは何もここに座ってダルマトークをするというだけではありません。それはあなたのあり方です。そして食べ物を分けるということです。誰かが苦しんでいる時に、そこにいるということです。それが無差別なんです。その人の苦しみは、あなたの苦しみ。だからあなたはそこにいるんです。

そして、ダルマティーチャーになるまでその智慧を受け渡すことを待つ必要がありません。ブラザー、シスター、友人のみなさん。その明かりや火はあなたの中にあります。それはあなたにすでに受け渡されています。それを守り、その火を生かし続けるためにプラクティスを続ける必要があります。

このようにして、あなたの火は続き、火のないところ、あるいは火が弱くてまだ明るくなっていないところに火を灯すことができます。コミュニティとして、一緒にやる必要があります。一人でやるには、この荷物を運ぶのは重すぎます。一人では圧倒されてしまうし、耐えられなくなってしまいます。

だからタイの智慧としてあったのは「コミュニティが必要だ」ということでした。愛のあるコミュニティが必要です。私たちは愛しのコミュニティを育み続ける必要があります。私たちの考え、言葉、行動を通して。

ブラザー、シスター、友人のみなさん、聴いてくれて、そしてプラクティスをしてくれてありがとうございます。そのことが私に強さをくれました。そのことが、私が真実の自分であることを許してくれました。サンガのおかげで、本当の我が家に帰ってくることができました。多くの異なる遺産が私の中にあること、そして様々な教えが私に受け渡されていることを見つめることができました。そして、変容が必要な多くの種があることを見ることができました。暴力の種はまた、私の中にもあります。

サンガでは、「私ではない要素」に触れることができます。そのことが私にスペースと自由を与えてくれます。もっと愛することができます。もっと受け入れることができます。そして自分自身、自分の苦しみ、自分の疑いを受け入れることができます。「私は十分に良い人間だろうか?」「私は十分な価値のある人間だろうか?」そのような考えがあることを受け入れ、かつ流されないことを助けてくれます。

そしてそれもまた「私ではない」要素なのです。だからそれを怖れる必要はありません。それを明かりと共にみつめて、変容させることができます。なぜなら、他の種に水やりをすることができますし、異なる知恵が自分の中にあることを見ることができるからです。

今、私は全てです。みなさんと共にいて、私の中にあるその知恵を育んでいきたいと思っています。この智慧があれば、もっと自由になることを学んでいけると知っています。もっと自分を自由にするために解放することができます。そうすれば、私の考えや、言葉、行動はその無差別の知恵を運んでくれるでしょう。

それが私達みんながここでスピリチュアルファミリーとしてしているプラクティスです。そして在家のサンガのメンバーはここの外でプラクティスをしています。抗議に参加し、愛のあるコミュニティを作り上げようとしています。愛しのサンガ、愛しの家族です。

私たちにとって教育して受け渡すということはとても大事なことです。愛と共に理解できるように受け渡します。それはジャッジをしたり、批判をしたりするためではありません。ありがとうございます。
(鐘の音)

(翻訳・書き起こし:Kumiko Jin)

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ティク・ナット・ハン「マインドフルネスの教え」
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