2018年12月29日 ブラザーファップルーによる教育者のためのリトリートオリエンテーション

2018年12月29日 フランスのプラムビレッジにおける教育者のためのリトリート ブラザーファップルーによる法話 「オリエンテーション」

私たちはティック・ナット・ハン師のことを「タイ」と呼んでいますが、それはベトナム語で「先生」という意味です。

タイはマインドフルの実践を先生たちとシェアした時に大変感銘を受けていました。先生というのは深い願いから成り立っている仕事です。次の世代のケアをして、次の世代を育てていきたいという願いです。先生たちはお金や有名になることが目的で仕事を選ぶわけではありませんね。先生たちが毎日している大変な仕事のことを思うと、私たちも謙虚な気持ちになります。

先生たちの願いというのはタイの願いと共通しています。それは苦しみを変容させて幸せを次の世代へと伝えるということです。タイはいつも次の世代に様々なことを伝えようとしてきました。タイは「私がやっていることを知りたかったら私ではなく私の弟子たちが何をしているか見てほしい」と言っていました。タイが元気な間は私はとてもタイの代わりはできないと思っていましたが、タイが倒れてからはタイの役割を私たちが果たせるように、このようにみなさんにお話をしています。

私たちの教えを中心とした教育者のグループをWake Up Schoolsと言っていますが、その団体には3つの柱があります。

1つは「身につける」(embodiment)ということです。変容を実際に経験する、ということがとても大切です。呼吸に気づいて立ち止まる練習をします。そして止まらない思考を一度休ませます。

止まることの練習が多くの先生に必要です。先生というのはやることが沢山あって引退するまで毎日走っている、ということがよく起こります。

プラムビレッジでは立ち止まることを助けてくれる仕組みが色々あります。そのうちの一つが鐘の音です。プラムビレッジでは15分に一回鐘を鳴らします。そして鐘の音を聞くと全てをストップします。話すこと、食べること、歩くこと全てを一時止めます。どんな大切なことを話していても、そして話の一番いいところで鐘が鳴るということがよく起こるのですが、それを手放します。みんながそれを実践しているので、ここではそれに取り組みやすくなります。自分の呼吸と自分の身体をケアすることが他の何よりも大切だというプラクティスなのです。

呼吸に意識を向けようとした時に、もしかしたら呼吸に意識を向け続けることが難しいこともあるかもしれません。大切なことは、何度も何度でも呼吸に帰るということを繰り返すことです。自分の意識が離れていると思ったらまた優しく迎えてあげてください。良い習慣を身につけることが大切です。

ここは教育者のためのリトリートですが、私たちは何かに参加する時にテクニックを学びに来がちです。リストを作り「これをやった、これもやった」と自分がやったことを数えて満足することがよくあります。でも、ここではそうではありません。ここでやってほしいのは「なにもしない」ということです。学校に帰って「あなたは何をしたの?」と聞かれたら「何もしなかった」と答えてください。

私たちの歌の中に「幸せは今ここにある。何もする必要はない。どこにも行く必要はない。」という歌詞の歌があります。日常の中ではそういうことはあまりないことです。この中で校長先生などがいたら是非「今週は何もしない週です。」などと設定するのはどうでしょうか?

私たちはいつも何かをしなくてはいけないと思っています。私たちのリトリートの中では1日「lazy day(怠ける日)」というのがあります。何もしない日です。ご飯は食べていいですよ(笑)「これをしなきゃいけない」ということが何もない日です。

タイはこれを「lazy day(怠ける日)」という名前にすることにとてもこやだわっていました。中には「休みの日」とか「気楽な日」という名前にした方がいいのではないかと言う人もいました。でもタイはそれを「lazy day」という名前にしました。タイがベトナム戦争で平和活動を行なっていた時、休む暇もなく毎日活動をしていた時期がありました。しかしそれでは忙しくて、継続していくことが難しく、仏教徒としてlazy dayが絶対に必要だと思ったのです。

私たちの中には休暇も休むことが出来ない人もいます。それはどうやって休むかということを知らないからです。どうやって休むかを学ぶということは大切なことです。多くの人がその名前に反対しましたがタイは「lazy dayであることが絶対に大切だ」と言って譲りませんでした。

マインドフルネスのプラクティスは実践が伴わなければ何も意味がありません。ここは哲学を学ぶ場ではありません。頭で学ぶのではなく、プラクティスを通して学ぶ場です。

現代は多くのことをやる必要がある世界です。一昔前の人々が次の世代のことを考えた時には「きっと次の世代の人々は多くの時間があるだろう」と想像していました。食べ物も出てくるようになり、色んな仕事を機械がやってくれるようになり、時間がたくさんあって本をゆっくりと読んだりしながら日々を過ごしているだろうと思っていました。

しかし実際に起こったことはそうではありませんでした。毎日の生活はどんどん加速して、やらなければいけないことはどんどん増えています。

みなさんは次の世代の人たちにもこのような生活をしてほしいですか?さらなる加速をしてほしいですか?どんどん仕事をして、お金や名声を手に入れてほしいですか?

私は次の世代には平和や慈悲を感じてほしいです。平和や慈悲を感じるためには立ち止まることが必要です。私たちが地球や木々に向かって何を語りかけるのか、ということが大切になります。このプラクティスを身につけて自分のものにする、ということが次の世代を育てるためにはとても大切だと思います。

そして「応用倫理」(applied ethics)(実践する倫理)が大切になります。タイは倫理を実践する方法を考えました。フランスの学校で倫理について教えなくてはいけなくなった時、多くの先生たちは「倫理(ethics)」が何なのかが分かりませんでした。

どのように生活に倫理を応用させることができるのでしょうか?そのために具体的に役に立つのが「5つのマインドフルネス・トレーニング」です。そこに示されていることが具体的な実践の方法になります。

そしてその一番基本となるのは呼吸です。呼吸に気づくことができれば心と身体に気づくことができます。良いことというのは頭で考えて行うことではなく、まず気づきがあり、それを体現することです。

どのように呼吸に気づいたら良いでしょうか。まず、呼吸に注意を向けます。そして、吸う息、吐く息に気づきます。自分の意識が呼吸から離れても怒りません。にっこり微笑んで、転んだ子どもを起こしてあげるように自分の意識を連れ戻します。バイオリンの弦も強く張り過ぎれば切れてしまいますね。ちょうど良い張り具合にする必要があります。望みをもつことは大切です。でも高すぎる望みを持っているとうまくいきません。プラクティスに厳格になり過ぎない、ということも大切になります。

プラクティスというのはアートです。何かをやってみて、離れてみることも大切です。絵を描いて遠くから眺めるように。若い世代の人々がはこれからどう人生が展開していくか分からない部分が多くあります。彼らは何になりたいかを握りしめて遠くを見つめます。素晴らしい先生に会えば「こういう先生になりたい」ということを握りしめます。

みなさんもそうかもしれませんね、その先生たちを想像してみて下さい。あなたを励ましてくれる心の中の先生たちを。私たちにしてくれたことを私たちも次の世代のためにしたいと願いますね。

でも、無我の教えもあります。私たちを励ましてくれる先生もイメージの中の先生です。人生が実際に展開していくときには、自分が想像していたことと本当に起こっていることが違うことがあります。

恋をしているときには相手に夢中になります。でも自分に問いかけて下さい。自分は本当に相手に恋をしているのだろうか、それとも自分の頭の中にある相手のイメージに恋をしているのだろうか、と。相手も自分も常に変わり続けています。掴んでそのままでいる、ということはできません。

呼吸に気づいている時、自分が誰でどんな人なのか、仕事は何をしているのかということは全て忘れています。ただ命の奇跡に触れているのです。それで十分です。自分が何者で、何になりたいかに囚われる必要はありません。ただ今の自分自身であるというだけで十分幸せなのですあ。幸せは今この瞬間にすでにあります。自分がなりたいと思っている何かはすでに自分の中にあります。

ここは何か超常的なものを体験する場ではありません。ただ自分の意図や計画を捨てて、今ここに気づくということがここでやってほしいことです。命の不思議にふれてください。幸せになる条件はもうすでにあるです。

呼吸に気づいたら次にやることは呼吸についていく、ということです。マインドフルネスというのはいつも何かに対してマインドフルであるというこのです。

タイがある弟子に「何をやっているのか?」と聞きました。その弟子は「マインドフルネスをやっています」と答えました。するとタイは「何に対するマインドフルネスなのか?」とさらに問いました。マインドフルネスは常に「何か」に対するマインドフルネスです。

私たちの感覚は自分を騙そうとすることがよくあります。怒っているのに「怒っていない」と思っていたりします。自分の心と身体に気づくことが大切です。

Spiritの語源は呼吸です。私たちの魂は私たちの呼吸によって養われます。最初から最後までついていくとこが大切です。それが集中力です。集中するということは、力を入れるということではありません。怒りの感情が起こっていたらそれがおさまるまでただついていきます。最初から最後までついていく力が集中力です。

タイは前「法話をする時にその道の途中で自分の歩みに気づいていなかったらどうやって良い実践をすることができるだろうか?」という話をしていたことがあります。自分もここへ向かうまでの道のりはそのことを意識してくることができました。そしてタイは一歩一歩気づいて階段を登る、という実践もしていました。寝室への向かう道のりでもし気づきのない状態で階段を登ることがあったらもう一度最初からやり直すということを実践していました。一歩一歩を集中して歩いていれば良い習慣が身につきます。それは自分の息についていくことで身につきます。

私たちは食べる瞑想も行います。もっとも難しい実践の一つでもあります。色んな刺激があり、匂いや味で過去の記憶がよみがえってくることもあります。一回の食事の中でいくつものこと記憶がやってくることもあります。私たちを今から過去へと連れ去ってしまいます。

どのように食べる瞑想を実践したらいいか?一口一口に気づいてマインドフルに噛んで食べます。おかげでプラムビレッジで喉を詰まらせて亡くなった人は今のところまだいません(笑)

食べ物を取るときに「食べたい」という視覚から取ってしまうので、実際に必要な量よりも多く取ってしまうことが多くあります。なので、自分が「これくらい欲しい」という量よりも、少し少ないくらいが丁度いいと思います。マインドフルに食べれば、量が少なくても大丈夫です。それが本当の意味で身体を大切にすることになります。

ブルークリフのプラムビレッジでの食べる瞑想がニューヨークタイムスで紹介されたことがありました。そこにいた人はマインドフルに食べたらそれがとても美味しかったので「すごい!どうやって作っているの?」と聞きました。私たちは特別なことは何もしていません。ただ、マインドフルに食べているだけです。「いくらなの?」と聞かれて「ドネーションだよ」と答えたら驚いていました。

食べる瞑想の時には、その食べ物を作った太陽や土、パンを作ったお坊さんや釜のことなどを考えます。一切れのパンの中に宇宙が見えます。雨の要素や土の要素があります。

私たちの身体は多くの部分が水からできています。そして水は太陽よりも古くから存在しているのです。私たちの中にインタービーイング(相互存在)があります。私たちは全てのものが存在しているから存在しているのです。目の前のパンと私たちの間にはつながりがあります。食事をとることはインタービーイングの深い実践となります。

そして呼吸についていくと、身体に気づくことも可能になります。私たちの身体に気づくことができればこれほどおもしろいものはないのです。退屈することなどありません。心地よい感覚や心地よくない感覚が次々と起こります。パソコンを長時間使っている時には自分に身体があることを忘れてしまいます。

でも呼吸に気づき、呼吸についていけば、自分の身体に気づくことができます。自分の姿勢や自分の感覚に気づきます。ただ気づくだけです。変えようとする必要はありません。

今の世の中では様々な産業が「何とかして変わらなくては」と私たちを思わせようとしています。鏡を見て、自分を変えようと多くの人がしています。あなたはありのままで美しいのです。そのことに気がつきます。生まれて歳をとって死んでいく。そのどれもが美しいのです。コンプレックスを持つ必要はありません。咲き始めた花は美しいですが、枯れた花もまた美しいのです。若々しい時だけが素晴らしいのではありません。変わりゆくものの全てが素晴らしいのです。

そして、身体に気づくことができれば、自分自身の身体を静めることができます。歩く瞑想をする時には足に注意を向けますね。そうすると身体に気づき、気持ちが休まります。歩く瞑想をすると、呼吸・歩みに立ち返ることができます。プラムビレッジを歩く時はいつでも歩く瞑想ができます。どこへ向かっている時でも、どこに向かっていない時もできます。

ここでは計画を立てたりプロジェクトを進める場ではありません。ただその瞬間にたち返ればいきのです。ボードにはいつもスケジュールがあるから、先のことを覚えていなくて大丈夫です。座る瞑想を楽しむためには、そこへ向かう、一歩一歩の道のりも楽しんでください。

実際の社会を生きていく上ではたくさんのストレスがあり、それを解放するのに一生懸命になって自分の身体のうちにある苦しみに気づかないようにしていることが多くあります。ここにいると、普段は見ないようにしている苦しみが出てくることがあります。「幸せを感じるために来たのにどうしてこんなに苦しいんだ」と思うかもしれません。でも悲しみや怒りを経験するならそれは贈り物なのです。それをケアする機会がここにはあるからです。その苦しみを見るためにここにいるのです。そして周りの人たちはみなさんを助けるためにいます。

タイは「弟子たちには苦しみのない世界には住んで欲しくない。」と言いました。私たちはプラムビレッジは苦しみのない世界だと想像します。浄土をイメージしたりします。だから「なぜプラムビレッジに来たのに苦しむんだ」と思ってしまいます。「ちゃんと実践しているのに!?」って。

自分の中の苦しみに気がついたら、微笑んでください。苦しみに対して芸術的に関わることが大切です。そうすれば、苦しみを変容させることが可能なのですが。苦しみと幸せはコインの裏表です。ここは苦しみのない世界ではありません。

苦しみを作り出しているのは外にあるものではないからです。苦しみは私たちの中にあります。そして、私たちの祖先から引き継がれたものでもあります。私たちの苦しみは私たちだけのものではありません。しかしそれがまた、あなたにとって何よりの贈り物となる可能性も持っています。苦しみを変容させることが出来ればあなたは自由になれます。そして自由になることが出来れば幸せになれます。

幸せとは苦しみから逃げることではなく、苦しみを変容させることによって自分自身を自由にすることの中にあるのです。

画像1

(翻訳・書き起こし:Kumiko Jin)
ーーーーーーーーーーーーー
ティク・ナット・ハン「マインドフルネスの教え」
HP: https://www.tnhjapan.org/
Facebook: https://www.facebook.com/tnhjapan/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?