春うらはら

春が来た。
春という言葉は不思議なもので、単純に季節の一つを示すこともあれば、生命の芽吹きを意味することもある。
後者の意味で言えば、これは冬とでも言うべきだろうか。

「金魚すくいにしては長生きした方よ」
母がかけた言葉は恐らく慰めのつもりだったろうが、僕には残酷にしか響かなかった。
彼は僕にとっての友人であり、誇りだった。それを失ったことに早いも遅いも関係無かった。

手のひらが熱い。腰を目一杯後ろに引く。呼吸を整え、足を前に踏み出した。身体が垂直になったところで地面を強く蹴飛ばす。景色がぐるっとひっくり返った。しかしすぐに腕が伸び、景色は逆回転した。
「やーい、下手くそ」
また兄が僕のことを馬鹿にした。
兄はなんでも僕より上手にこなす。当然逆上がりもだ。
「お手本見せてやるよ」
そう言って兄は僕より高い鉄棒で綺麗にくるりと回った。
「ほらな、教えてやるからもう一回やってみろよ」
また始まった。彼の「教える」とは、僕が失敗すれば怒り喚き、成功すれば自分のおかげだと威張るといった具合で、まともな指導だった試しは一度も無い。
「今日はいいよ、暑いし」
我ながら苦しい言い訳だが、とにかく兄の指導は避けたかった。
「いいからやるんだよ。出来るまでやれば絶対に出来るんだから」
彼らしい乱暴な理論だ。
どうやって逃げたものかと後退りしていると、木陰で休んでいた母がこちらの方へ歩いて来た。
「そろそろ帰るよ。夏祭り、行くでしょ。支度しなきゃ」
良かった。助かった。僕は兄に気付かれないようにそっと胸を撫で下ろした。

「お母さん、俺あれやりたい」
兄が指差した先には金魚すくいの屋台があった。
「うーん、一回だけね。あなたは?」
母は僕に向かって尋ねた。
「僕は見てる」
あんなに素早い魚を捕まえるなんて、きっと僕には出来ないに違いない。そして上手くやり遂げた兄にまた馬鹿にされるのが落ちだ。
ところが兄は僕が見ぬ間に早速一つ目のポイに穴を開けていた。
「そんな乱暴にやっちゃあすくえやしないよ」
気の良い金魚屋の親父が言ったが、兄は人の忠告を聞くような人間じゃない。あっという間に三つ渡されたポイを全て使い果たしてしまった。
「こんなの面白くない!」
兄はポイを投げ捨ててどこかへ行ってしまった。兄にも出来ないなら……。僕はその場から動けなくなった。

今にして思えば、兄は運動は出来ても繊細さの欠片も無い。あんなに薄い紙で活きの良い魚をすくい上げるなんて出来るはずもなかった。一方で僕はその逆だ。瞬発力は無いが手先は兄よりずっと器用な自信がある。その証拠に、ここで眠っている金魚はあの日僕がすくい上げたものだ。
兄に出来なかったことが僕には出来た。その証を失ってしまうのは惜しかったが、彼が水を跳ね上げることはもう二度と無い。僕は母に慰められながら、小さな朱い身体をそっと庭に埋めた。

リビングに戻ると、空になった水槽の中に赤い折り紙の塊が転がっていた。歪な四角と三角がくっ付いたような形だ。テーブルの周りはカラフルな紙やら文具やらで信じられないくらい散らかっている。
「ねえ、見て。これ」
母が床に落ちた本を拾い上げて僕に見せた。
「きっとお兄ちゃんはこれを作ってたのよ」
開かれたページには、幼稚園で習うような「かぶと」の折り紙を少しアレンジした、簡単な金魚の折り方が載っていた。
言われてみればこの赤い塊にもそのような面影はあるが、紙はしわくちゃ、必要無いはずのセロテープがベタベタと貼ってあり、ひどいものだ。
ただそこには、絶対完成させてやる、というような執念があった。
「やーい、下手くそ」
僕は小さな声でつぶやき、こっそり笑った。
後で金魚の折り方を教えてやろう。

***

春が来た。
春という言葉は不思議なもので、単純に季節の一つを示すこともあれば、恋の始まりを意味することもある。
後者の意味で言えば、俺の春は終わりを告げた。

「あちらのお客様からです」
目の前に揚げ出し豆腐が差し出された。
「あちら」と言われた方向に目をやると、明らかに面白がっている様子の女性がこちらを見ていた。
「ごめんなさい、一回やってみたかったの」
知り合いの悪戯かと思ったが、赤の他人だった。しかし、顔が好みなので悪い気はしない。たった今彼女に振られたばかりだと言うのに我ながら呆れたものだ。
「あの、どうして俺に」
「一部始終見させてもらっちゃったから、そのお詫びというか、お礼かな」
「ああ、俺が振られたところ、見てたんですね」
「バンドマンみたいだったね」
彼女が突きつけてきた別れの理由は「音楽性の違い」なるものだった。
「あれってきっと振るのも面倒臭くなって煙に巻こうとしただけだよ」
「傷を抉るのはやめてくれないか」
言われなくても分かっていた。あれはそういう女だ。
「でもあの子のこと本気じゃなかったんでしょ。四番目だったし」
「何を言ってるんだ」
「だから最初から見てたって言ったでしょ。君たちの恋の一部始終。私、この店の常連なの」

「で、狙ってた子は落とせたのかよ」
その日は友人と飲みに来ていた。この辺りで飲むときはいつも決まってこの店だ。
「いや。本命と二番目は彼氏持ち、三番目は堅すぎる」
「で、四番目か。まあまあだな」
彼とは以前にもこの場所で、同じゼミに入った女子の誰が可愛いかなどという下世話な話をしていた。
「そっちはどうなんだ」
「そりゃ一番さ」
「さすがだな」
俺たちはお互いに大学最後の年を共に過ごす恋人を手に入れたということだ。
「でも、今付き合い始めた女なんてどうせ就職してすぐに別れるだろ」
悔しいがこの男は昔からモテる。彼の言う通り、会社に入ったらすぐに新しい女が出来るのは間違いないだろう。
「お前はそうかもな。でも俺はいつだって最後の恋のつもりで付き合ってるぜ」
俺はわざとらしく臭い台詞を言って見せた。
しかしこの数ヶ月後、就職してすぐに別れたのは俺の方だった。

思い返してみるとこの店にも恋人になる前から何度も彼女を連れて来ているし、友人と飲む時もよく彼女の話をした。
「全部聞いてたんですか。良い趣味だな」
「なかなか楽しませてもらったよ」
女はいつの間にか隣の席に座っている。
「君たちのやりとりをSNSで実況したり」
「おい、それは流石に」
「してないよ、アカウント持ってないから」
完全に向こうのペースに飲まれている。女は面白くてしょうがないといった様子だ。
「ところでさ」
また女はそうやって勝手に話題を変えた。
「今度からここに座ってもいいかな。ここ、私の特等席なんだよね。君がいるときは遠慮してたけど、隣に座る人も居なくなったみたいだしさ」
ここはカウンター席の一角だ。入口から入る外気が当たらず快適な位置にあり、なおかつ奥の厨房がよく見えて退屈しないので、俺も好んでここに座ることが多い。
「引き続き遠慮してくれと言ったら?」
「遠慮がちに座ろうかな」
だろうな。全くこの女には敵う気がしない。

これから一体どれだけこの女に振り回されるのだろうか。不穏だが、どこか浮き足立つような、春の嵐の気配がした。

***

春が来た。
春という言葉は不思議なもので、単純に季節の一つを示すこともあれば、花粉の飛散の始まりのことを言う人もいる。
私が意味するのは、無論後者の方だ。

「なんでこんな時だけは春が来るんだ」
私がぼやいていると、隣席の若い社員が不思議そうな顔をした。
「そりゃ春は来ますけど、さすがにまだ早いですよ」
「それより、さっきから鼻ずるずる言わせてるし、落ち着き無いし、体調悪いんじゃないですか。だったらそれ、やっぱり俺がやりますから、無理しなくていいですよ」
彼は私のモニターに目をやりながらそう続けた。
モニターに映していたのはこの男が作った企画書だ。今日の会議ではプロジェクトリーダーである私がプレゼンを行う予定だったが、企画の発案者であるこの男なら任せても問題無いだろうか。
「悪いがそうしてもらえると助かる」
体調については実のところ目鼻以外は万全だが、落ち着きが無くプレゼンに集中出来そうにないことは確かなのでお言葉に甘えることにした。

落ち着きが無いというのも、これは完全に妻のせいである。
彼女は昨年末に実家に帰ってしまったためここ最近は顔を合わせていなかったが、今朝方突然メールを送ってきた。
「そんな大事な話をメールで済ませないでくれ」
送信時刻が早朝だったところを見るとこちらに配慮したとも取れるが、内容が内容なだけにそう漏らさずにはいられなかった。
それから何度も電話をかけているが、一向につながる気配は無い。

プレゼンは一通り終わり、質疑応答の局面に入っていた。
あまり聞いていなかったが、恐らく良い発表だったのだろう。会議室には厳粛ながらも前向きな空気が流れている。
「他に何か質問はありますでしょうか」
その問いに答えたのは、電子音が奏でる小気味良いメロディだった。
上席の太った男が不機嫌そうな顔をする。
「誰の携帯だね」
私だ。妻からだ。
問いにも答えず会議室を飛び出した。
「くそ、これだからタッチパネルは」
汗と焦りで思うように携帯が操作出来ず、悪態をついた。
やっとのことで電話に出ると、聞き慣れた声がくすくす笑っている。
「元気そうだね」
「ああ、最高だよ。心臓もいつもより速めに動いてるくらいだ」
冗談でも言って余裕を見せようとしたが、口から出たのは首を絞められた鶏のような声だった。
「びっくりしたでしょ、予定より一週間も早まって」
彼女は私の渾身の冗談を無視した。
「それで、無事だったのか」
「さすがに無事じゃなかったらもっと落ち込んでると思わない?」
「そう思いたいが、君のことだから分からない」
私は正直に答えた。それもそうかと彼女はおどける。
「無事に生まれたよ。予定通り女の子」
良かった。無事か。
私はやっと生きた心地がした。
「ところで名前、決めてくれた?」
たった今娘の誕生を知ったというのに、気の早い女だ。
だが、我が子の名前はずっと前から決まっていた。妻に無視されぬよう、今度はしっかりとした声で伝える。
「『春』だ」

私にも、春が来た。

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