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黒田清輝vs.アンリ・マティス【アートのさんぽ】#21


 
はじまりとしての黒田清輝
 
 日本の20世紀絵画を考える時、その最初に挙げるべき画家はやはり黒田清輝であろう。
黒田清輝は、すでに多くの形容が付けられて語られている。いわく、明治洋画の確立者、日本近代洋画の方向を決定づけた画家、あるいは日本近代洋画の父といったものである。
実際、黒田清輝が日本近代美術に果たした役割は、高橋油一やアーネスト・フェノロサ、岡倉天心とともに、非常に重要なものであった。
特に美術をとりまく制度的な課題、つまり東京美術学校の西洋画科におけるに日本的な美術教育の確立、外光派を標榜する美術団体、白馬会の設立、官設のサロンである文部省美術展の創立などにも力を注ぎ、しかも今日に至るまで影響を及ぼしているのは驚くべきことである。
黒田清輝において、その芸術的な評価とともに、政治的な役割も強調されなければならないのは、明治という時代的な要請が強かったからである。
 中村義一は、「画家が新しい時代の画家としての役割を確保するためにも政治と関わらなければならなかったのが、明治という時代である」と述べる。明治という時代に、しかも美術という概念が市民権を持ちえなかった時代に、画家としてのアイデンティティーを確立しようとした黒田清輝は、教育者としてはもちろんのこと、政治家としても活躍せざるを得なかった。
土方定一は、そこに日本の近代美術の基本的な問題、つまり白馬会という日本的なるアカデミズムが「長く近代日本の美術界を支配し、その後の近代日本の美術の発展を歪め停滞させ」る原因があったと指摘した。
匠秀夫は、「日本における主体的な近代絵画確立のためのひとつのチャンスを逃した」問題がそこに潜んでいたと指摘した。
 
 ここでは、黒田清輝の芸術に焦点を絞り、その近代美術における問題点を浮き彫りにしてみたい。
そのために、アンリ・マティスの芸術と比較しながら、日本における20世紀絵画の特色を考え、近代美術の発展にとって重要な問題点を見ていきたい。
 
黒田清輝とアンリ・マティス
 
 黒田清輝は1866年生まれで、マティスは1869年生まれであり、二人はほぼ同年代の画家であると当時に、日本とフランスにおける20世紀絵画の先駆者であるという共通点がる。しかも、その経歴の最初において同じパリで法律を学び、途中から画家に転じた人物という共通点もある。黒田はアカデミー・コラッシで、マティスはアカデミー・ジュリアンで絵を学んでいる。このようにその出発において多くの共通点を有しながら、その後の展開に大きな違い示してきた点こそ、日本とフランスの20世紀美術の本質的な相違であった。
 まず、二人がそれぞれ初めて公的な展覧会で認められたそれぞれの作品を見てみたい。
これも偶然の一致ながら、ともに女性が椅子に座り読書をしている図であった。
それが、1891年のソシエテ・デ・ザルティスト・フランセのサロンで入選した黒田清輝の《読書》(1891)と1896年のサロン・デュ・シヤン・ド・マルスで国家買上げとなったマティスの《読書する女》(1895)である。
 
黒田清輝の《読書》とマティスの《読書する女》
 

黒田清輝の《読書》1891年



アンリ・マティス《読書する女》1895年


 黒田清輝の《読書》は、法律学校を退学して、アカデミー・コラッシ内のラファエル・コラン研究所で本格的に絵画を学びはじめ3年目の25歳頃に描かれた作品であった。
陰里鉄郎は、「鎧戸を通して差し込んでくる光を背にして読書する少女の像であるが、緑と赤の色彩対比を柔らかい光の雰囲気描写で調和のとれた色調に整えている、いわゆる外光派的作品である」と評した。
 一方、マティスの《読書する女》は、法律学校を卒業して就いた法律事務所での職を捨て、アカデミー・ジュリアンを経て、国立美術学校のギュスターヴ・モローのアトリエで学んでいた頃の作品で、やはり本格的に絵を始めて3年目の26歳頃に描かれたものであった。
ある室内で、椅子に座って読書をしている黒い衣裳を着た女性の後ろ姿描いた図であり、ナビ派の画家たち、特にエドゥアール・ヴュイヤールの作品からの影響がみられる作品である。
 
まず構図上の比較をしてみよう。
黒田の作品では読書する女性の半身が正面から描かれていて背景は鎧戸だけでとくに目をひくものはない。
マティスの作品では読書する女性の後ろ姿とともに壁面の額絵やランプ、棚の花瓶といった小物も大きな割合で描かれている。
つまり黒田の作品では、あくまで女性の姿が主役であるのに対し、マティスの作品では、女性が室内を構成するひとつの要素にすぎないのである。
ある意味で、黒田は人物の描写法の習作であり、マティスは画面構成の習作として描いたともいえる。
 
 つぎに色彩や筆致の点から見てみよう。
黒田は女性の上着を赤に、スカートを青に設定して鎧戸からの差し込む明るい光線をやわらかい筆致で手堅く描いている。
一方、マティスは女性に黒いドレスを着せることにより、地味で薄暗い室内に溶け込ませ、重厚な筆致で描いている。
黒田の作品には、油彩画を描く行為に対する新鮮な感覚とともに形式的な堅さがみられ、マティスには、カンヴァス上における形態の構成とそれを定着させる筆致、あるいはマチエールの問題に対する配慮がみられる。
 これらの作品における表現上の相違、あるいは造形的志向性の相違は、もちろん黒田とマティスの資質によるものである。
一方では、彼らの生涯において大きな影響力をもったそれぞれの師、黒田のラファエル・コランとマティスのギュスターヴ・モローの指導方法や造形思想、時代認識の反映でもあると考えられる。
 
黒田に師匠、コラン
 
 ここで、黒田とマティスにそれぞれの師がどのように映り、どのような影響を与えていたのか見てみよう。
 黒田は、1886年からフランスを離れる1893年までラファエル・コランに指導を仰いでいて、コランについて次のように述べる。
 「コラン先生は印象派のなかに入られずに、その外にあって、バスチヤン・ルパアジュから来た外光の研究を、まず完成させられたものといわなければならぬ。(中略)印象派の画の印象は、印象派としての印象であって、自然の真の印象を現わし得ないものである。自分は自然の印象を画くのであって、自然の印象に近いものを、描き現わしているのだと信じて居られた。(中略)色から云うと柔らかい、穏やかな、そして明るい、そして柔らかい中にも強みのある色を用ゐられて、形の方はクラシックに偏せずして、優美な、線の簡単な、正しい形を描かれた」と。
 このなかで「自然の印象に近いものを、描き現わしている」とか「柔らかい、穏やかな、そして明るい」といった記述は、もちろんコランの画風に関して述べているのである。
しかし、これはコランの教えを比較的忠実に吸収した黒田の画風についての記述として解しても違和感がない。黒田は、それだけコランの芸術的志向性を継承していたと考えてさしつかえがないであろう。
 
マティスの師匠、モロー
 
 マティスは、1892年から国立美術学校のギュスターヴ・モロー教室に学び、その芸術性についてより、モローの指導方法について多くを語っている。
「ギュスターヴ・モローの偉大な特質は若い生徒の心というものを生涯の間たえず発展してゆくべきものと考えたこと、そして生徒を学校のさまざまな試験に合格するように追い立てなかったことです」。
「私はたびたびルーヴルを訪れました。しかしモローは私たちに言いました、”美術館へ行くだけで満足してはいけない。街のなかへ出てゆきたまえ”」。
「そのころ私は『食卓』を描きました。すでにもうルーヴルの透明な色調に移すやり方はやめていました。(中略)モローは私に対してマルケやルオーに対するのと同じように寛大さを示してくれました。こうした試みのなかにすでに革命的なものがあることを見出した教授たちに向かって彼は答えました-”放っておきなさい、彼の栓付ガラス壜はちゃんとテーブルにまっ直ぐ立っています。あの栓に私の帽子を懸けることができます。本質的なのはそこです”」。
 モローのマティスに対する指導は、表現方法や芸術的指向性を伝授するというよりも、一個の芸術家として自立するために重要な感性や個性を育成することに主眼を置いていたのであろう。
したがってモローのもとからは、彼の象徴主義的な画風を継承した画家ではなく、マティスをはじめとして、ルオー、マルケ、マンギャンなど20世紀初頭を切り開いた表現主義的な画家たち輩出させた。
 
コランとモローの違い
 
 このコランと黒田、モローとマティスにおける師弟関係の相違は、日本とヨーロッパの近代美術の展開をある意味で象徴していると考えることができる。
つまり、黒田はコランからアカデミズムを印象派風に味付けした外光派というもの継承し、それを基本に日本洋画の基準というものを示した。
マティスはモローによってアカデミズムの呪縛から逃れ、個性や感性によって得ることのできた色彩を素直に表現して、ヨーロッパの20世紀絵画における造形的展開の先鞭をつけることになった。
言い換えれば、黒田は制度を整えることにより日本の20世紀絵画を切り開き、マティスは制度から逸脱することによりフランスの20世紀絵画を切り開いたと言える。
 
黒田の裸婦像
 

黒田清輝《智・感・情》1899年


 黒田とマティスの表現における相違は、それぞれの初期作品である読書図においても多少みられたが、それから約8年後に描かれた作品ではさらに明確になった。
それが黒田清輝の《智・感・情》(1899年)とマティス《豪奢、静寂、悦楽》(1904年)である。いずれも複数の裸婦を描いたものであるが、その表現と造形性は全く違う。
 黒田清輝の《智・感・情》はほぼ等身大の3人の裸婦を描いた三幅対である。隈元謙一郎は、次のように述べる。
「『智』は両手をまげてなかば挙げ、正面を向いて立ち、『感』は右手を額にかざし左手を腹部にあてて右向きに立つ。『情』は右手で肩から胸にたれた髪をにぎり左向きに立っている。いずれも輪郭を赭線で囲み、背景に金泥をおいて壁画風の装飾画としての効果をもとめている」と。
この作品は、当時において2つの点で非常に意義深い作品である。
まず、裸体画が新聞などで非難されているさなかに日本人をモデルにして制作された初めての裸婦図である点。
もう1つ、黒田が日本に根付かせようとしていた寓意的な構想画である点。
とくに後者に関しては、黒田が西欧に学び、目標としたものであった。
高階秀爾は次のように述べる。
「黒田がコランに学び、コランを通じて日本に移植しようと思ったのは、印象派の影響を受けた折衷的な外光描写などではなくてもっと基本的な西欧絵画の理念、もう少し具体的に言えば、はっきりした骨格と明確な思想に支えられたコンポジション(構想画)としての絵画という理念」だったと。
それを実現したのがこの作品だったのである。
 
マティスの裸婦像
 

アンリ・マティス《豪奢、静寂、悦楽》1904年


 一方、マティスの《豪奢、静寂、悦楽》は、南フランスの海岸にけるさまざまにポーズの裸婦たちを、セザンヌの水浴図の構図を用いて点描で描いた作品である。
マティスは次のように述べる。
「サン・トロペで私は分割主義の理論家[ポール・]シニャックや[アンリ・エドモン・]クロスと知り合いになりました。彼らといっしょに制作して、(中略)『豪奢、静寂、悦楽』という題の大作を描きました。これはずっとシニャック所蔵になっていますが、純粋な虹の色で描かれた絵です。この派[分割主義]の絵はすべて同じような効果を生み出していました(中略)。コントラストによって支えられ、効果を上げていると思われた私の主調色はそれと同じくらい重きを置いたこれらのコントラストによって実際は食われていたのです。このことから私は平塗りで描くようになりました。これがフォーヴィスムだったのです」と。
この作品はフォーヴィスムのはじまりを予感させる重要な作品となったのである。つまり、19世紀末から20世紀への懸け橋となった作品とも言える。
 
黒田とマティスの裸婦図の違い
 
 この黒田とマティスの裸婦図を比較すると、まさに一目瞭然であろう。
黒田はアカデミズムを志向し、マティスは反アカデミズムを志向していたということが明確に確認でできる。
日本においてアカデミズムというものが存在しなかった以上、マティス的な芸術家が同時代的に存在するわけがなかった。黒田清輝のような美術教育の指導者が必要に迫られていた。
ヨーロッパにおいては、強力なアカデミズムがあったからこそ、強烈な個性を表現する作家があらわれ、いわゆるモダンアートが生み出されたのである。
 日本の20世紀絵画が良くも悪くも黒田清輝からはじまらざるを得なかったのは、歴史の示す通りである。黒田清輝の後世に残した影響は余りにも大きかったゆえに、その後の美術の展開に黒田の指導した白馬会的な画風を大きく残してしまった。
 
黒田清輝の功罪
 
黒田清輝の影響に関して、多くの識者が肯定的、あるいは否定的な意見をさまざまに述べている。
まず肯定的な評価をみたい。
 石井柏亭は次のように述べる。
「黒田・久米・岩村等によって、今迄の留学者の誰からももたらされなかった明るい、自由な美術家気質が導き入れられたことは特筆すべきである。絵画の上にも明快な自由な自然主義が輸入された訳であって、これが日本の洋風画に大いに革命を惹き起こすことになった」と。
黒田の自由な自然主義に肯定的な評価を下しているが、これは黒田帰国以前の明治美術会系の暗褐色の絵画との比較による意見である。
 柳亮は次のように述べる。
「黒田が、フランスからもたらしたものは、単に作風の新味ばかりでなく、その背後に流れている十九世紀後半の自然主義の思想や、彼のフランス的教養の中に深く根をおろしたリベラルなものの考え方」であると。
柳は、黒田が単に絵画における技術的な問題だけでなく、その背景にあるものの見方や考え方までも日本にもたらした点を評価した。
 次に否定的な評価をみたい。
中村義一の見解。
「これ(外光派)が日本の近代美術に与えた影響の大きさを指摘しようとしても、実は指摘される影響の様式的な内容は、かならずしも明瞭でないのである。あるいはここに、近代リアリズムを通過しない主体性の曖昧さや、新しい創造力の発動にとっては軽率すぎる自由気分が」あるとした。
中村が指摘した「主体性の曖昧さ」や「軽率すぎる自由気分」は、20世紀の日本美術全般にも通底する批判であった。
 土方定一の見解。
黒田は、「東京美術学校の西洋画科の最高指導者として新人作家を養成し、それらの弟子=生徒たちはまたラファエル・コランの教室に入り、文展設立とともに黒田清輝=コランの画風が、団体でいえば白馬会系の画風が文展という唯一の官設展の支配的な画風となっている。(中略)白馬会系の日本的アカデミズムは長く日本の美術界を支配し、その後の近代日本の美術の発展を歪め停滞させることになっている」と。
近代日本の美術の発展を歪めて停滞させた元凶が黒田にあると非常に厳しく批判した。
 菊畑茂久馬も厳しい。
黒田にはじまる「日本の洋画が、独占資本の発展で育った新興ブルジョアジーの現実に対する享楽的で肯定的な風潮と結びついた結果は多くの人が指摘するように、日本の洋画をますます軟弱なものにし、日本的題材にただ西欧の化粧法を情趣的ほどこすという、今日のなんとも知れぬ日本特有の洋画を生むにいったのである」と。
日本的な題材に西欧風の化粧法を情趣的にほどこした作品が、日本の20世紀絵画に多くみられのは確かな事実である。
私たちは、識者の言葉をかみしめながら、黒田の絵画とマティスの絵画の違いをもういちど見なければならないだろう。
 
参考文献:『20世紀・日本の絵画』ふくやま美術館

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