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言語化による縮約

思考は、言語化されることではじめて、認識可能な対象となる。
自分の思考を他者に説明するときは勿論のこと、
自分の思考を自分自身で把握するときでさえ、
まずは脳内の思考を手持ちの言語に落としこむ作業から始まる。
しかし、思考を言語化をしようとするプロセスの途中で、
いつも霧のように消え失せてしまう何か、
無意識のうちに捨象されゆく何かがあることも確かである。
それは、元々そこに存在していたにも関わらず、
言語に意識のベクトルを向けた途端、自分の視界の外に消え、
後からもう一度振り向いて見た時には、既にその場からは姿を消している、
そんな捕まえようの無い存在である。

思考(ここでは、頭の中に湧いてきたアイデアや、
何かを見て連想されるフィーリング等のことをそう呼んでいる)は、
はじめ混沌とした抽象概念として脳内をふらっと横切るが、
それらは自らの思惟作用により言語化された結果、
ひとつ輪郭の定まった、認識可能な対象に縮約される。
ここで、「対象に縮約される」というのは、
「対象に置換される」というのとは意味合いが異なる。
言語化されたことで可視化される対象は、
はじめに脳内をよぎったカオスの全体像を捉えきれず、
一部しか表現できないという意味で置換ではない。
さらに言うと、言語とはそもそも、
様々な人の様々な状況を一般に表現する便利な既成パッケージであり、
個々の内側で生じたオリジナルの概念を言語化する際には、
それらを一旦外部の言語空間に投影する必要がある。
その際、投影先の言語空間と個々の思考の空間が一致することはほぼ無く、
思考を形成していた多くの要素は、言語に置換不可能な成分として、
無意識のうちに捨象されるのだ。
もちろんこれは、私の中の語彙のバリエーションが少ないからだとか、
膨大な思考イメージを手際良く言語化するための脳のキャパシティが足りないだとか、
そういった類の問題ではなく、
言語化というプロセスそのものが有する構造的な問題であり、
語彙力豊富で言語化能力の高い知識人・作家の人々でさえ、
おそらく皆が経験する、普遍的な現象なのではないかと思う。
言語化というプロセスを経ている以上、
どれほど言葉を尽くそうと、それぞれ個人が抱く思考イメージを、
完全な状態で認識可能な表現形式に落とし込むことは、
原理的に不可能なのだ。

それはまるで、量子力学における波動と粒子の二重性のようだ。
光は波動であり、空間内の至る場所に存在しているにも関わらず、
それを観測しようとすると途端に、光は粒子と化し、
空間内のある一点における実在として姿を現す。
似たようなことが思考の言語化プロセスにおいても生じているのでは無いかと考える。
脳内において広く、認識不可能なカオスとして存在する思考は、
言語化というプロセスを経ることで、只の一点に縮約されてしまい、
元の思考の大部分は、どこかへ別のところへ流され、気付かぬうちに霧消する。
言語化により得られた一点は、輪郭がはっきりしており、
我々が手にとり眺められる、確固たる実在であるには違いないが、
しかしそれは、思考という混沌の雲の中から観測のために抽出された一点であるに過ぎず、
その背後には、観測されることの無かった無数の思考の波動たちが、
見えない無意識の世界で華麗な干渉縞を描いているのだ。

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