見出し画像

KODOKUが世界をかえてゆく

私たちがみんなで、
小さな礼儀作法に気をつけたなら、
人生はもっと暮らしやすくなる。

チャールズ=スペンサー・チャップリン

皆さんは、これから先の未来にワクワクしますか?

それとも、たとえば古代人の生活を追体験するといったような、過去の世界にワクワクしますか?

先日、坂本龍馬と五代友厚の活躍を描写した映画「天外者」をアマプラで見た。

日本の開国前夜、夕陽を眺めながら、日本を変えてやろうと胸を高鳴らせる2人が印象的だった。

2人とも未来しか見てなかった。

激動の時代の描写を、アマプラで呑気に映画鑑賞できる現代とは大違い。

「便利」とか「快適」って、複雑です。

さて今回は、現代社会が抱える問題と、「ひとりや少数単位の行動」との関係にスポットを当てて記事を書いた。

想起させる本やネットの話題を盛り込んだ内容です。


『寂しい生活』

最近、稲垣えみ子さんの『寂しい生活』という本を読んだ。

この本は、アナロジーを使って色んな物事に応用が効くように思う。

たとえばダイエットなんかにも。

著者は元朝日新聞記者の方で、原発事故を機に、冷蔵庫なし、その他家電もなし、風呂なしといったミニマルな都会暮らしを始めて以来、すっかりその生活スタイルにハマってしまったという。

家に帰っても電気はつけず、料理器具はカセットコンロのみ。だからご飯は鍋で炊く。
これがウマい!

とか、

冷蔵庫がないから、食物の保存は天日干しやぬか漬け→色んな食材をぬか漬けに入れて る→油揚げを入れてみたら、これがウマい!

とか、

真夏も真冬もエアコンなし→梅雨明けを体が自然と察知する妙技?を習得する→仙人の領域に達す

とか、

家から外にでても、「自分の周りには電気がないもの」と見立て、エスカレーターやエレベーターは使わず階段を使う。

といった具合に。

そんな暮らしを日々送る中で、様々な知恵を生み出し、その発見を楽しむ。

そして、「幸せとか満たされた生活って、こんな単純なことだったのか、すでに足元にあったんだ、今までの人生は、何だったのだろう」と、悟りの境地に達したようなコメントを残す。

さらには、これらの質素なひとり暮らしを通じて、話題は我々が生きる消費社会や環境、まちづくりといったテーマへと展開されてゆく。

こういうテーマを聞くと、メディアで散々報じられる聞き飽きたキーワードばかり思い浮かぶかもしれない。

SDGsとか、省エネ再エネ、経済格差、食糧危機、地方創生、イノベーション、少子高齢化等々。

どれもなんだか行政や企業といった組織レベルで取り組むことで、私やあなたといった個人レベルの問題とは距離を感じてしまう。

それは、行政や企業の取り組みばかりメディアで報じられていることも要因のひとつだろう。

この本を読んでると、こうした社会課題に対しては、集団の取組だけでなく、個人の生き方や考え方を起点としたアプローチがもっと必要なんじゃないかと感じる。

そっちの方がとってもシンプルに社会課題を改善できる力を秘めているんじゃないかと。

そして、メディアにもっと必要な役割は、こうした「個」に焦点を当てた社会課題解決のヒントを積極的に報じること。

悟空の必殺技である元気玉のように、個々から発信されるメッセージを拾い集め、それを集約し、大きな風を吹かせるイメージ。

この本を読んでそんなことを感じた。

「個人の影響力」を軽視する日本

たとえば、『世界96カ国で学んだ元外交官が教えるビジネスエリートの必須教養「世界の 民族」超入門』という、なんとも長ーいタイトルの本の著者である山中俊之氏は、「ダイヤモンドオンライン」のインタビュー記事『【元外交官が語る】「日本のニュース」が「世界標準の報道」からズレる理由』でこう答えている。

日本は「個人の影響力」を軽視している

地球環境を考えれば、再生可能エネルギーの問題を考えることの大切さは日本人も理解していると思うのですが、そこへの関心が低かったり、活発な議論にならないのはどうしてなんでしょうか。

山中:アメリカやヨーロッパでも関心のある人とそうでない人の差はあるので、そこは日本も同じだと思います。

ただし、報道のされ方というか、討論番組のつくりにはちょっと違いを感じます。

「番組のつくり」が違うとはどういうことですか?

山中:日本のテレビでも討論番組はそれなりにあるんですが、あそこに出てきている人たちは、立派な肩書がある人ばかりのように感じるんですよ。

政治家や弁護士はもちろん、さまざまな活動をしている人が出演する場合でも、NPO法人の代表、一般社団法人の代表みたいな人が多いですよね。

____確かにそうですね。

山中:一方、アメリカやヨーロッパでは、こうした社会課題に対して個人で精力的に活動している人がどんどん番組に出て、活発に議論しているんです。

個人的な印象ですが、日本はそうした個人の活動家の影響力をやや軽視しているように感じます。

https://diamond.jp/articles/amp/306523


『寂しい生活」の本の話題に戻り、印象に残った部分とその雑感をいくつか書きます。

ひとり単位のまちづくり

まちづくりと聞くと、ぼくの場合は一部の意識高い系の人たちがコミュニティなんかをつ くって活動するイメージを持っていた。

でもこの本を読んだら、ぼくも個人レベルでのまちづくり的行動をすでにとっているのではないかと感じるように。

例えばぼくの住む町は、都心へのアクセスが悪くないものの、近所にまだ畑も多く見られ、地元野菜を扱うお店も多い。

ぼくは、野菜に関しては自分の住む土地になるべく近い場所でとれたものを食べたい志向なため、基本、野菜は直売所やスーパーの地産地消コーナーに置いてあるものを優先的に買っている。

そうすると、その野菜を育てている地元の農業従事者やお店にお金がまわり、また新鮮な野菜を提供してもらえるという循環ができる。

個人が買う量だから僅かではあるけれど、それは「まちづくり」ではないか。

当たり前の消費行動と言ってしまえばそれまでだけど、こうした視点に立てば、それは「まちづくり」とも「投資」とも言えるのではないか。

そういう視点で「まちづくり」を表現している著者に共感した。

本からの引用

自分にとって大切なものを提供してくれる人には、むしろ多めに払うくらいの気持ちでちょうどいいんじゃないか?

つまりお金を「応援券」として使うのだ。

自分じゃなくて、相手にトクをしてもらう。そう考えれば「払う」のはお金じゃなくたっていいことに気づく。

笑顔だったり、 お礼の言葉だったり、ちょっとしたおすそ分けだったり。

そうすると結局のところ、自分の暮らしを豊かにしてくれる人たちがどんどん元気になって強化されて、友達も増えて、自分も豊かになる。

それが本当のおトクってことじゃなかったのか?

でね、これってもしかして「まちづくり」じゃないですかね?

少しずつ、自分で自分の好きな街を作っていく。何もドナルド・トランプみたいな不動産王じゃなくたってそんなことができちゃうんですよ!」

寂しい生活

奪い合えば足りない、分け合えば余る

これは沖縄の人がよく使う言葉らしい。

著者は生まれてこのかた半世紀ほど、そのことに気づかず、奪い合いの世界、つまり所得を増やしてモノを獲得してくことが豊かな人生であるという錯覚に陥ってきたという。

けど、便利と言われるモノや、様々な食材やら調味料やらを手放してみることで、逆にもう充分に豊かな生活があったことに気づく。

この本を読んで、ぼくは同時期に併読していた「食物誌」という本の中の話題を連想した。

それは、にわとりー「工業」養鶏ーについての話題。

皆さんは卵を年間どれくらい食べてるでしょうか。

この本によると、もともと鶏の先祖といわれる「ヤケイ」が1年間に卵を産む数は、わずか10~12 個ほどであるらしい。

スーパーに売られている1パックの数ほどだ。

それが、人間の手によって「工業養鶏」とされて以来、いまや一羽が1年間に産む卵の数は300個ほどにもなるといわれている。

一方で日本人1人が年間消費する卵は、キューピー(株)の「たまご白書 2023」によると339個で、メキシコに次ぐ世界第2位とのこと。ほぼ毎日1人1個、卵を食べている計算。

日本人は卵の大量消費民族らしい。

ぼくも卵は毎日のように食べている。

でもその背景には、人間による生き物の改変という現実がある。

奪い合いという行為を、人間間だけでなく、人間と他の生物との間にも当てはめてみると、なんだかこの「奪い合えば足りない、分け合えば余る」という言葉に通ずるものを感じる。

普段スーパーで無造作に買い物かごに放り込んでいる卵。

これを機に、改めて食への恩恵を忘れず、感謝を込めて毎日の食事と向き合おうと思った。

老子「小国寡民」

最後に、この記事を書いてて老子の「小国寡民(しょうこくかみん)」という話に思いを致したので、紹介して終わります。

昔の理想国家を説いたものなので、いささか極端な主張に感じてしまうかもしれません。

けど上述してきた社会課題に向き合ってゆく際、この老子の思想も必要なのではないでしょうか。

現代に当てはめてみると、地産地消、大量生産・大量消費社会の見直し等々にマッチしてると思います。

小国寡民

小さな国に少ない住民。

さまざまな文明の利器があっても用いさせないようにし、人民に生命を大切にして遠くに移住させないようにする。

かくて舟や車があってもそれに乗ること はなく、武器はあってもそれを取り出し列べて使用するようなことはない。

人民に今ひとたび太古の時代のように縄を結んで約束のしるしとさせ、己れの食物を美味いとし、その衣服を立派だとし、その住居におちつかせ、その習俗を楽しませるようにする。

かくて隣の国は向うに眺められ、鶏や犬の鳴き声は聞こえてくるほどに近くても、人民は年老いて死ぬまで他国に往き来することがない。

福永光司著『老子』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?