私の中の全てと一部

とある本の中に、「考え方や思想や言葉に衝撃を受け、その人物の本を読み漁ったり、何か辛くなったら頼ったり、助けられたり。自分の中の全てがそのもので埋めつくされているものでも、いろいろな経験や、たくさんの出会いを経験していくうちに、それだけが全てで無いことに気付き、今までは自分の中の全てだったものが、自分の一部として構成されていく。」というような的なことが書かれてあった。(私の解釈)

私は、中学生のときからBUMP OF CHICKENが大好きだった。高校生のときには、BUMPファンの友人と歌詞カードをコピーし、のりで貼り付け、アルバムの中に入っているものと同じものをもう一冊作った。授業中こそこそと読んだ。休み時間を使って、友人とあーでもないこーでもないと、一行ずつ、自分たちの解釈を語り合った。その時間は「歌詞解読」と呼ばれた。毎日毎日語り尽くした。楽しかった。飽きなかった。

大学生になった。大学で出会った友人に、「BUMPが好きならこんなアーティストも好じゃないかな」と勧めてもらい、たくさんの曲に出会った。衝撃だった。自分の中のBUMP OF CHICKENで埋め尽くされ、積み上げてきたものに、新しい要素が加わった。新鮮だった。
だんだん、BUMP OF CHICKENは私の全てではなくなった。私の一部になった。

高校のときに「歌詞解読」をしていた友人からは、「あんなに一緒に応援してたのに悲しい」と言われた。私はBUMPが嫌いになったわけでも、聴かなくなったわけでも無いのに、と、心がモヤッとした。イラッともした。変化を認められないことは、成長を認めないことと一緒だ、正論ぶったことを言いたくもなったけれど、言わなかった。本当は変化を一番嫌う私が、自分が変わっていくことを正当化する言葉を並べようとしているだけだということが分かっていたから。本当は、変化を説明できる言葉を持ち合わせていなかった。

BUMP OF CHICKENは私の全てではなくなった。私の一部になった。それだけのことだった。今なら説明できる。10年経った今、そんなこと求めていないだろうけど。

私は今日も、BUMP OF CHICKENを聴いて眠りにつく。

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