どん底にいたときの話

私は新卒で公立中学校の教師になった。
教員採用試験に一発で合格したのが嬉しかった。
子どもの頃からなりたかった職業に就けて、喜びで、胸いっぱいだった。

でも思い描いていた教師生活とは全然違った。
いきなりの担任から始まって、右も左もわからないまま多忙な日々。

自分がずっとやっていた剣道部の顧問になれて嬉しかったはずなのに、指導できるほどうまくもないし、それを帳消しにできるほど好きでもなかった。

毎晩遅くに帰宅してご飯食べながら泣いて、風呂でも布団の中でも泣いて、日中も職員用トイレで泣いて、それでも生徒の前では笑顔でいた、と思う。

2年目の7月に自分のクラスでいじめが発覚した。
生徒指導担当の先生と私で1人ずつ呼んで話をした。

話し合いが終わって、悲しくて苦しくて、自分が情けなくて消えたくて、翌朝出勤しようとしたけれど涙が止まらなかった。

休んで心療内科に行った。休んで何日か後に行っても良いし、長期で休んでも良いと言われた。
長期で休むのは怖くて翌々日に出勤した。

2学期になったある日、同僚の先生を怒らせてしまって、何でそんなに怒るのかわからなくて、話し合わないといけなかったのに怖くてできなかった。

会うのも怖くなって、また行けなくなった。
もうダメだと思って、同じ心療内科へ行って、消えたい気持ちを話した。適応障害の診断をもらって休職した。

毎日地獄だった。
当時私は母親と二人暮らし。
母は、昔からずっと独り言でしょっちゅう叫んでいた。性に関することへの呪詛めいた言葉と母が受けた(と思っている)悪意への怨嗟の言葉を。

私がよく言われたのは、いつか父が私を悪戯するということと、父方の祖父母は女の子なんかいらないと母に向かって言った、ということ。

そのどちらもあり得ないことで、母の妄言だと今ならわかる。

母にとって何がスイッチでそうなるのかはわからなくて、別人のようになるのがずっと怖かった。その状態になったら、ただずっと黙って嵐が過ぎ去るのを待っていた。

父は離婚で、兄は進学で家を出ていたから、私がそばにいてあげないと、とずっと思っていた。

学校や仕事があるころはまだ気が紛れたけれど、休職して家にいる時間が増えるとたちまち息苦しくなった。

母の全てが嫌だった。
私の通院についてこられること。
更年期で甲状腺に腫瘍ができたから病院についてきてほしいと頼まれること。
食事を作らないといけないこと。
いつも私の部屋へ勝手に入ってくること。
母の中ではなぜか私が教師になったのは父と話し合って決めたことになっていて、違う自分で決めたと言ったら自分で決めたくせにこんなことになったのかと言われたこと。
精神病になったらもう結婚できないと言われたこと。

母の全部が嫌だと言えないこと。

苦しくて、カウンセリングに通って初めて私と母の関係の異様さに気づいた。

私の中には人と関係を構築するのに話し合ったり違いを尊重したりという考え方も経験もなくて、黙って相手に添うか自分に添わせるかしかなかった。

それが、私が母と積み重ねた人間関係だった。

一人暮らしを決めて、父に援助してもらってやっと家を出ることができた。

それでもなかなか母を捨てられなくて、よく会いに行ってはまた叫ぶ母に会って悲しくなったり怒ったりしていた。

一年半休職して復職したけれど、人の目が怖くて、些細な言葉に傷ついて、毎晩どうやったら朝起きなくて済むのか考えた。

ある晩、消えようと思って持っていた睡眠薬を全部飲んだ。
でも全然足りなくて、翌日ずっと寝て、その次の日からまた休職した。

今度は数ヶ月で退職した。

退職後もしばらく心療内科に通っていたけれど、別の仕事に就いてほどほどに平和になった。

母とはもう連絡も取らなくなったのに、それでも毎日思い出す。

どん底にいたときのこと。
消えたくて消えたくて苦しくて寂しかったこと。

その気持ちは教師になってからではなく子どもの頃から抱えていた。
いつもいつも母の気分に振り回されて、悲しくて怖くて怒っていた私。

虐待されたことがあるひとは当時の自分を抱きしめて慰めて前に進めるらしい。
私は今どこにいるのだろう。
どん底にいたときの話。

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