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3.14 息苦しさを、越えてあるもの

浪人したときに知り合ってそこから3年、めったに会えないけど腐れ縁のように仲良くしてくれている友だちから聞いた。
「実はちょっと前、あいつと揉めちゃったんだよね」

予備校時代に仲良くなって、お正月もドライブやらショッピングをいっしょにした4人。そのなかの一人と1か月くらい前に人間関係のことで少し揉めたらしい。今は落ち着いている、これからも会ったりすると思うよ、だけど前ほどあいつに期待していないってのが正直なところだ、って言っていた。


2年前にも似たようなことがあったなあ、と思い出す。

大学1年生、いっしょに過ごすことが多かった3人の友だち。小さなことが積み重なって、その3人が1対2で分裂する形で、私はどっちに付くわけでもなく、離れていった。

4人で過ごす時間が大好きだった。だからひとりになって、あの時間を思い出しては真っ暗な部屋で動けなくなっていた。何回ベッドの上に寝っ転がって、電気をつける気力もないままに天井を見つめて泣いてたんだろう。思い出すのも嫌な記憶。

また同じようになるのかって、ひゅっと胸が苦しくなる。少し、息苦しくなる。繰り返してしまうのか。

時間が解決してくれる、決して間違いではないのだろうけど。大学1年のころのあの子たちとは、ひとりで抱える苦しさは減っても、全員でまた笑って話せる日はたぶん二度とこない、その事実だけが残ってしまって、時間がたってしまった分、改めて4人で、なんてことはもうないってことが少し空気を重くする。


今回は二度と会わない、なんてことにはならなそうだけどね、でもまたあの時みたいに、もう思い出せないような適当な会話で笑って、家に帰って「今日っていい日だったな」って思う、そんな愛おしい日はもうないのかも。あれが最後だったのかも。この時間が、この空間が、この人たちが、好きだなあ、と、自分の気持ちに気づいていたからこそ、よけいになくなってしまう恐怖ってのは大きくなっていくものらしい。

目の前にあるものの、あの尊さを、愛おしさを、知らなければこんなに怖くなることもないのかもしれない。そう思うと、なんで気づいてしまったんだろうって、あの日の自分を少し恨んでしまう。これからは気づかずにいた方が、見て見ぬふりしたほうがいいんじゃないかと思ってしまう。




大学1年生でひとりぼっちになったと思った私は、大学の外の世界にいるたくさんの大切な人たちと過ごすことを選んだ。暇があれば県外に夜行バスにのって、ヒッチハイクをして、飛行機にのって、電車に乗って、とにかく会いにいった。たくさんの人とのたくさん愛おしい瞬間を味わった。

どうして近くにいたあの子たちとはお互いが離れていくっていう選択をしたのに、大学の外で出会った人たちとは長く縁をつないでいけるんだろう。人が違うからなのか。私の意識の問題か。なんでなんだ。ずっと心残りだった、だから頭のなかにあのとき何かできたのか、どうしたらよかったのか、って何度も思っていた。


越えていく勇気が足りなかった。

これが今の私が考えるいったんの結論のようなものです。


きっと大学の外の友だちだとか、中の友だちだとか、出会ったところなんて関係なくて、人と人だから付き合っていけば小さな歪みが出てくることがある。あたりまえにね。だけど小さなずれを距離や会わない時間が忘れさせてくれて、赦し赦されるための時間をくれて、塵が積もる前に飛んでいってしまう。積る前の塵は山にならない。だから笑って再会できるんじゃないか。

ずっとそばにいるっていうのは、だから難しいんだろう。

最初は小さく小さく積もっていた塵が、大きな山となってあらわれたとき、その山を見なかったことにして、あるいは散々その山の大きさに文句を言って立ち去る。きっとこれがいちばん楽な方法で。だけどまたどこかで同じような山の裾が目に入ったとき、ああ、また現れてしまった、愛おしいものが壊れる瞬間だ、そうやって息苦しくなる。きっと、そうなんじゃないか。



去年の12月頃、別府のまちで同じ大学の子たちが住むシェアハウスに引っ越そうとしていた。住んでいる子たちは優しくて、あたたかくて、この子たちと穏やかな日々をここで過ごしたいなあ、と思っていた。入居はいつからがいいかなあ、と考えていた。

私の中の気持ちは固まったと思っていたのに、ひとりの子が酔っぱらって悲観的になった勢いで聞いてきたことが、少しだけ引っかかった。

「楽しいことばかりじゃないし、俺だってできた人間じゃない。本当にここでいいのか。」

穏やかに、温もりにつつまれながら、過ごしていけるんじゃないかと思っているここでも、そんな瞬間が壊れてしまう日がくるかもしれない。なくなっていく怖さに息苦しくなる日がくるかもしれない。最初から気づかなければよかったと後悔する日がくるかもしれない。


それでもいいのか、改めて問われて出た結論は

それでも、越えていきたい

だった。


愛おしさを抱えてしまった恐怖の、そのさきにある愛おしさを、迎えにいきたい。


人と向き合うって、ものすごく、怖い。適度な距離を保って付き合うことの方が、ものすごく楽。

だけど、大切で、ずっとそばにいてほしいと思うからこそ、相手を、相手とつくった時間を、愛おしく思うからこそ、勇気をもって超えていきたいと、そう思える。


愛おしさを知っているからこそ、怖くなって、だけど、それでももう一度と、そう思える。


シェアハウスであの子たちと暮らしながら、そういう自分を目指していきたい。大学1年生のとき、あきらめてしまった、あのときとは違う、その先をみてみたい。そう思っているならば、予備校の友だち、きみたちとだって、もう少し向き合ってみないといけない、というか、向き合ってみたい。

もちろんお互いが望むところに着地するのが一番いいんだろうけど、好きだからこそ、私にとって大切なあの時間をもう一度取り戻す、そのために勇気を出してもいいでしょう。



全て必要なことだった、なんて、ありきたりな言葉でまとめたくはないんだけど、だけど、そうだったんだね。ようやく2年前のことが、私の今に足を進めるためのきっかけとなってくれた、あのことがあったから、と思える。

またどこかで後悔してしまうかも、きっと目の前にいる人と向き合うなんて、それほどまでに難しいことはないだろうから。だけど少しずつその先があると信じた、越えられることを信じた一歩を出さないといけない。好きだと、大切だと、愛おしいと、知っているからだなあ。



少しずつ、時間をかけてでも、そのままに抱きしめていく。

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