渡辺一夫「ヒューマニズム考」(講談社文芸文庫、2019)

渡辺一夫「ヒューマニズム考」(講談社文芸文庫、2019)

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フランス文学者の渡辺一夫が、16世紀フランスで活躍した作家や神学者を中心として、ルネサンス期の傾向・思潮であるヒューマニズム、ユマニスムとは何ぞと考える作品。

「human-ism」と記されるように、「ism」というと思想信条・主義主張のように捉えられるけど、渡辺は「『それは人間であることとなんの関係があるのか』と問いかける人間の心根」と結論づける。思想(ism)ではなく心がまえ、態度、もしくは品と言っても良いのかもしれない。

渡辺は「ユマニスムの無力、その挫折を語ることは容易でありますし、その例と思われるものを挙げることは、これまたわけもないこと」とユマニスムのみじめさを開けっ広げに指摘してみせる。それでも以下のように言う。

「歴史がユマニスムによってつくられないことは事実かもしれません。狂信の方が、新しい歴史の展開の動力になるかもしれません。しかし、ユマニスムは歴史を作ることを目的とはしていません。むしろ、歴史の流れに見られる『痴愚』や『狂気』を指摘して、悲惨な事態をなるべく少なくし、同じ愚挙を繰り返さないようにすることを願うだけでしょう。ユマニスムは、歴史の流れを下る人間の『しりぬぐい』役を勤める、といってもよいくらいです」(P.60~61)

渡辺は本の中で、「痴愚神礼讃」などがあるエラスムス(1466〜1536)と、「ガルガンチュアとパンタグリュエル物語」などの作家のラブレー(1495〜1553?)、「エセー」で知られるモンテーニュ(1533〜1592)を主に取り上げ、その対として現在のドイツで宗教改革運動を起こしたルター(1483〜1546)、フランスで宗教改革運動を起こしたカルヴァン(1509〜1564)を置いた。

両方の立場ともに、信仰よりも経済や政治に耽るカトリック教会に対して「それはキリストと何の関係があるのか」と問いかけた。後者の方は「もうあかんやん、こいつら」と新教派(プロテスタント)として旧教派(カトリック)と対立した。宗教戦争に発展し、多くの死者(殉教者)を出した。ユマニストとして始まった彼らはいつしか、ユマニストであることをやめた。一方で前者はどちらにも与せず、両者に対して「それはキリストと何の関係があるのか」と問い続けた。それは、旧教派からは煩しがられ、新教派からは「生ぬるい」と批判を受けた。

「ユマニストの王」と称されるエラスムスが「それはキリストと何の関係があるのか」と問い続けた理由を、渡辺は「エラスムスは、人間というものが危険な動物であり、狂信がはびこれば、これに対する別な狂信が生まれ、この二つの狂信が衝突する場合、いかに悲惨なことが起こるかということを知っていました」と説明する。

同じ神(キリスト)を持つ者同士の争いは悲惨を極め、多くの殉教者を出した。この現実を前にユマニストたちは無力だっただろうか。渡辺はフランス王アンリ4世が1598年に「ナントの勅令」を発布したことにより、信仰の自由が認められたことや、現在においては新教徒と旧教徒の間で殺し合いがないこと、ローマ教皇がキリスト教のあらゆる宗派の積極的な和合統一に乗り出していることを挙げて「一見みじめで、無力らしいユマニスムの精神は、脈々と生き続け、人間が払わないでもよい犠牲はなるべく払わずにすむように、働き続けているように思います」と意義を見出す。

この本では、他に二人のユマニストが出てくる。カルヴァンとともに新教派として行動したものの、カルヴァンのいき過ぎた粛清を批判したセバスチャン・カステリヨン(1515〜63)、新旧両派の和解にむけて行動したミシェル=ド=ロピタル。ロピタルの努力は報われることはなく「無用の存在」となったが、彼の思想は友人のモンテーニュに引き継がれる。

カステリヨンは両派が互いを「異端視」して弾圧、処刑することを『異端者論・これを迫害断罪すべきか』で批判する。曰く「異端者というものは、我々の意見と一致しない人々にすぎない。様々な党派や宗門があれば、異端者もたくさんいるわけであるけれども、一番大事なことは根本精神を持っていれば良いのであって、異端者呼ばわりごっこは愚劣である」。違いを認め、普遍的な価値を共有する存在として「異端者」を認めること。

終盤、渡辺は「人類は滅びるものかもしれない。しかし、抵抗しながら滅びよう」という言葉を引いて、ユマニスムの心がまえを持ち続けることの大切さを強調した。「それは人間であることと何の関係があるのか」と絶えず、問い続けること。この「平凡な心がまえ」が狂気と無知と痴愚に陥らないために必要な態度なんだ、と。

本書の解説で野崎歓は「エラスムスが無力であったという点が徹底して強調されていることに、興味を引かれずにはいられない」と指摘する。野崎が言うように、ユマニスムには弱さが「必然的に帯びないわけにはいかない特性」だからだろう。第二次世界大戦中に渡辺が記した日記には、自殺念慮の記述と同時に「生き延びることが僕の義務だと思う。知識人として無に等しい僕でも、将来の日本にはきっと役立つ。ひどい過ちをおかし、その償いをしている今の日本を唾棄憎悪しているからだ」(1945年6月1日)と必死に抵抗する姿が垣間見られる。野崎は東京大空襲があった3月20日の日記に「この位の悲しみは何でもないのだ、支那の人々が帝国軍閥から受けた苦しみと比べれば」と記されていたことに、渡辺の「強靭な相対主義の精神」と「ユマニストと呼ばれるにふさわしい姿勢」を見る。

この日記は、渡辺没後に「敗戦日記」として1995年に博文館新社から出版された。戦時中にボソボソと「無用なつぶやき」を綴っていた渡辺の日記は、戦時下においても「それは人間であることと何の関係があるのか」と問う姿勢をとり続けたことを示す。そして、その事実は地下水脈となっていき続け、ユマニストに勇気を与えるものに違いない。

https://honto.jp/netstore/pd-book_01221309.html

歴史を見れば、連戦連敗であるかに見えるユマニスム。弱く、惨めで、生ぬるいユマニスムが、それでもなお地下水脈を通って、現代に息づくのはその弱さを受け入れ、「人間であることと何の関係があるのか」と問い続けたユマニストたちがいたから。歴史を動かしたユマニストは数少ないかもしれないが、歴史に名を残し、模範とされるのはユマニストたちの方が多いだろう。

「ポストヒューマニズム」なんていう言葉がネットや本屋で見かけることは多くなったが、そもそもヒューマニズム”以降”なんて存在しないはず。それは単なる流行的な思想でも主義主張でもなく、人としての態度だから。ヒューマニズムのその後を語り、論じる前に今一度、AIやロボットが発展し、自然を搾取し続ける資本主義社会において人間の疎外が加速的に進む中で「それは人間であることと何の関係があるのか」と立ち止まって考えることが必要不可欠なテーマではないか。すぐには社会は変わらないが、それは不条理に抵抗しないことの理由にはならない。

渡辺は敗戦日記でロマン・ロランの言葉を引く。「戦いの最中にあって、人間同士の平和をあくまで守り抜こうとする者は、その信条ゆえに自らの安息や名声、さらには友情すら失いかねないことを承知している。だが一体、そのために何一つ危険を冒さぬような信念に、何の価値があるだろうか」

ユマニストたちの孤独と敗北が眩く照らす「人間存在」の意味を考えたい。


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