(12)2章18節-22節【宗教的熱心とイエスさま大好きは違う】
(マルコによる福音書2章18節-22節)
18ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 19イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。 20しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
21だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。 22また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
「宗教的熱心とイエスさま大好きは違う」
私はかねてから、キリスト教は辞めたと言っている。でも、イエス・キリストは大好きだ。今日はまさにその話だ。
モーセの律法にあるように旧約聖書の時代から断食というものがあった。なので、ユダヤ人のファリサイ派の人たちは週に2回断食をしていた。
しかし、彼らにとっての断食は宗教的な熱心さの現れのためであった。
律法の本質は、神さまと豊かな関係を持つことだ。
決して律法を守ることで立派な信仰者だと言えるわけではないと思う。
本質をないがしろにして、形だけを守って誇る彼らにイエスは婚礼の例えとぶどう酒と革袋の例えを話す。
待望の救い主であるイエス・キリストが来たのであればそのことを心から喜び祝うことは当然のことかもしれない。このことを婚礼の話で例えている。
イエスが来たことは新しい時代の到来でもある。イエスにある新しい時代が革袋に例えられている。
ただ、律法を守ることが信仰者として大切なのではないと言われているようだ。
イエスは律法を無視しろと言っているわけではない。本当の意味で律法を完成させるために来たのだ。
律法の本質的な意味は何か。
忘れてしまったのか。
頼む!思い出してくれと言われているようだ。
今一度、神さまが本当に願っていることは何なのかを考えさせられる。
どんな業界にもあることだろうが、伝統や習慣を守ることが優先され、本当に大切なことが忘れ去られてしまっているということがあると思う。
「ハイパワーマーケティング」という本の中でこんな話がある。
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ドリルを買いに来た客はドリルが欲しいわけじゃない。穴をあけたいんだ。もっと言えば、その穴は子供の遊具を作るのに必要であり家族を喜ばせたい、幸せになりたいというニーズに繋がっているんだ。
このような顧客の真のニーズに気づくことこそが大切だ、と。
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神さまの思いを知れば、断食することに固執することはないのだと思う。律法はあくまでも神さまと豊かな関係を持つために必要だからと与えてくれたものだ。
律法を守ることが大切なのではなく、
神さまを愛することこそが大切なのだ。
イエスが言ったことも
「愛」だ。
神さまとの愛の関係だ。
現代の私たちにも当てはまる気がする。
宗教的な熱心さとイエスさま大好きを取り違えてしまってはいないだろうか。
ボクはイエスさま大好きであり続けたい。
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