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こころの病はもっと身近なものだった?

 Twitterでも言及したけれど、今すぐには無理だけど数十年したら普通になるんじゃないのかな?と思っています。自分は心療内科に通って4年くらいになります。隠すつもりはないのですが、変な心配されると面倒なので基本的には伏せています。4年も通ってまだ治らないの?と思うかもしれませんが、脳の神経伝達物質の分泌量の問題なので基本的に完治というのはないのかなと思っています。ウィルス性の風邪なら「抗生物質だしておきますね」でとりあえず症状は治まりますが、神経伝達物質の分泌量を急激に変化させるような薬を処方されたら、たぶんですが廃人になります。(というかそれは覚せい剤とかドラッグです)

 じゃあ4年も何をしているのかというと、メンタル面のお喋り・相談相手になってもらっています。「こんなことしてみたら、すごく調子がいいんですよ」とか「考えていることアウトプットするために日記をはじめたんです」とか「コロナで自宅作業するのがほんと苦手で・・・」とか、メンタルに関わることを色々話しています。そんなこと誰にでも話せるんじゃない?と思うかもしれませんがそれは大きな誤解です。話すだけなら誰でもいいかもしれませんが、相談となると正しいフィードバックがもらえないと意味がありませんし、そっけない返答や誤った返答をされるとメンタルがさらに悪化しかねません。「メンタルに関わる話をして正しいフィードバックをもらい適切な薬を処方してもらう」それが心療内科です。余談ですが私も病院に通い始めのころは「この言葉にできない苦しみから解放してほしい」と藁にも縋る思いでしたが、通いだして1年くらいでそういう場所ではないなと気づきました。

 さて話がそれてしまいましたが、「心療内科に通うことが世間的にもっと一般的な行為にならないか?」という話ですが、実は大昔(紀元前)は、すごく一般的でカジュアルな行為だったようです。

 ごまかさない仏教では、仏教が「心療内科」の役割を果たしていたと書かれておりました。この時代に心を病んでいた人たちはどんな人たちかというと「王族」や「貴族」などの富裕層でした。ちなみにですがお釈迦様も釈迦族の王子です。衣・食・住すべてが満たされた人たちが、唯一満たされない心の悩みを打ち明け、救いをもとめたのが仏教だったとのことです。(仏教徒になることが富裕層の人たちの間でファッションになっていたようです)

 さて現代に話をもどします。今からほんの数十年前まで、私たち日本人も、お寺のお坊様に悩みごと相談しては、ありがたい言葉をもらい心が救われていたのではないでしょうか?高度経済成長期をささえた人たちはお寺にいって一生懸命手を合わせていたという話をお坊様からきいたこともあります。現在、各地の仏閣は単なる観光地になってしまっていますが、観光地になるくらい今でも奇麗な形で残っているのも多くの人たちがお寺とお坊様をごく当たり前に頼りにしていたからだと考えています。

 では昨今はどうかというと、お寺とお坊様に心の悩みを相談する人はほぼ居なくなり(観測範囲が狭いですが自分の周辺では聞いたことがないです)、代わりに精神科や心療内科に通って心の悩みを解決するようになりました。医学の進歩によって心の悩みは、脳の仕組みの問題として扱われるようになり、薬と対話と習慣で改善するものになりました。

 心の悩みに対して医学的に正しいアプローチをとれるようになった人類ですが、心の悩みが正式に「病」になったため「病院に通う」という行為が必要になってしまいました。これが心の悩の解決のカジュアルさを失わせた一番の原因だとおもっています。カジュアルな行為だったはずの心の悩みの相談が学問の進歩と正しさをもとめた結果、カジュアルでなくなってしまったという何とも皮肉な結果です。ただ私個人の感想になりますが、心療内科への通院という行為もいずれカジュアルになると思っています。私が通っている病院には思春期の学生さんも見かけます。私が中高生の頃にはありえなかったことです。若い世代で「心の悩みは心療内科で相談することがが当たり前」になっていけば、世代の入れ替わりで当然の行為になると思っていますし、そう願っています。

 というわけでわたしの心の悩みに対する考えをまとめてみました。ずいぶん真面目な日記になってしまったのでこのあたりで終了です。

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