牧凌太は、世界のどこかで生きている

※劇場版おっさんずラブ〜LOVE or DEAD〜のネタバレがあります。個人的な感想です。


牧凌太は要領が良い方ではない。

就活している頃は頼りなさすらあって、ドラマの端々でわたしたちに見せてくれたエリート然としたすがたは、間違いなくその後の彼の努力で形作られてきたものだ。

そして、連続ドラマの撮影が始まる前から牧凌太という人物を真剣に考えて、深く深く人格をつくりあげていった林遣都さんというひとりの役者の不断の努力が形作ってきたものでもある。

劇場版おっさんずラブ LOVE or DEADという作品を観たとき、わたしは上映を終えた映画館の席で「この役者さんはひとつのいのちを作り上げてしまったんだな」と思った。

映画のなかで表現される牧凌太の感情はわかりやすいものではなかった。めちゃくちゃ怒ってるかとおもえば、一転して恋人モード。そんな牧凌太の態度に苛立ったり困惑したりする春田創一のほうがまだいくらかわかりやすい。

牧凌太はなぜこんなちぐはぐに、突拍子もないように見えるんだろう。だけど、その揺らぎに人間味が……揺らぎ……あれ……よく考えたら連続ドラマの牧以上に、映画の牧はめちゃくちゃ人間なんじゃ……?

牧凌太、「仕事」と「恋愛」のオンオフを切り替えられているつもりなのでは……?

若手のなかから一大プロジェクトに抜擢されて、これが自分の進むべき路なのだという自覚が芽生えてくるとともに大きなプレッシャーも感じるようになる。ついていくだけで必死になる。覚えることばかりで、余裕がなくなっていく。それでも牧は"今"この仕事を頑張る必要がある。なぜなら彼は、「新入社員」でもなければ「中堅社員」でもないからだ。栗林にはまだあって、春田創一にもある。だけど牧凌太にないもの。会社という社会の中の、彼の足場だ。居場所がない。本社に戻ったばかりで、彼は新たに居場所をつくる必要があった。

居場所をまたいちから作らないといけない状況。それも、今までとは段違いのスケールで、段違いのスピード感が求められている。笑いながら仕事をする余裕なんてない。好きな相手から結婚や家族の話をふられても、牧凌太のなかでは「大事なのはわかっているけど今じゃない」という感情になる。だからこそ「そんなに焦らなくても」とかいう言葉が春田創一に対して出てくる。というかシンクの片付いていないお皿の方が大問題に見えてくる。ひどく疲れている。恋人のとんでもない料理を笑う余裕も、その気持ちを喜ぶ余裕もない。嬉しいはずのことに、たったすこしのささいなことに追い詰められていく。大好きな人にさえ思いやりが持てなくなっていく。居場所のない牧は仕事だけを見つめるのに精一杯で、安心できる居場所に戻ってきた春田創一にはふたりの関係を見つめる余裕がある。

8年という埋めようのない年月と経験の差が、ふたりの間に横たわっている。

冒頭で第二営業所に乗り込む時、やけにそっけないのは「本社の、プロジェクトチームの牧凌太」として来ているからだ。反面、春田創一は突然やってきて第二営業所を我が物かのように扱う狸穴チームに当然反感を抱く。牧にも春田の気持ちはわからないわけじゃないけれど「これは仕事なんです、春田さんにもわかるでしょ」という考えが出る。大事な仕事なんです。仕事だからやってるんです。おなじ会社の人間なんだからわかるはず。そういう考えがどこかにあって、ますます説明不足になっていく。それどころか、自分の行動が説明になっていると思っている。

だから、それに対して「なんでだよ牧!」と言ってくる春田創一が、やたら"ギャーギャー言っている"ように感じる場面がある。

一方で、仕事を離れた牧は、仕事スイッチをオフにして、春田創一の恋人になる。見ている方は、怒ってたはずの牧がなぜかいちゃいちゃしようとしているように見える。でも牧の中ではオフモードになっただけ。花火の日をあけるためにしぬほど仕事を頑張ったわけだし(牧の中では)。このギャップには春田創一もびっくり。びっくりしつつも思わずにんまり。かと思いきや、狸穴とサウナに来ている。春田創一にとってはもうわけがわからなくて、それはもう「仕事仕事仕事、夢夢、……狸穴」状態になって当然と言える。オンとオフ、周りから見るとぜんぜん切り替えられてない。

春田という人間はおそらく対話してもらえないことがめちゃくちゃストレスになるタイプで、かたや牧は対話せずに自分のなかだけで握っていられればいいタイプ。これはどちらがいいとか悪いとかではなく、性格が違うだけ。だけどこの「性格の違い」が「仕事へのスタンスの違い」に繋がって、「夢を見る方法の違い」にも関わってくる。

春田創一は、対話が大事だと知っている。他人が自分とちがうものだと知っている。なぜなら彼は、営業所で、街の人とたくさんの対話をしながら仕事をしているからだ。

対話なくしては理解はなくて、自分と考えの違う人の気持ちがわかるわけもない。だから牧とも対話を試みる。なのに、牧は話をしてくれないしなにも教えてくれない。これは、春田からすると「牧にとって俺は話す価値もない存在なのかよ」ということと同義になる。それがやがて春田の苛立ちと嫉妬になる。

一方で牧は、限りなく本社に近い人間だ。本社ということは、関わる人は自社の人間になる。するとどうなるかと言うと、明確なプロジェクトがあって、なにも言わなくてもみんな同じ視点から同じゴールが見えていて、同じゴールに向かっている状態になる。言わなくてもわかるし、大事なのは個々が目的を共有して精一杯のパフォーマンスをすること。牧にとって重要になってくるのは「がんばろうな」という共感になる。なので牧にとっては春田が手放しで応援してくれないことが苛立ちになる。なんで応援してくれないんですか?という気持ちになる。 別に夢について語り合おうというわけじゃない。ただこの気持ちを、共有できてさえいればいいのに。なのに春田さんは問い詰めようとしてくる。そしてこれに対してわりと短気な牧が、説明するより先に匙を投げるかキレるかしてしまう。ついでに春田創一と牧凌太の苛立ちの原因が異なるのでまたすれ違う。

映画の終盤、春田は自分の夢について聞かないのかと牧に問う。だけど牧はそこでも聞かない。牧は春田の夢を聞きたくないわけじゃなく、「春田の夢ならなんだろうが応援すると決めている」から聞かないだけだ。内容を聞いたって自分がどうこうできるわけじゃない。春田さんの夢は春田さんのものだ。自分の夢が自分のもので、自分が叶えるものであるのと同じように。だから自分の夢も語らない。

そして春田と牧は夢の抱き方も違う。

牧は社内の人間を目標にして、その向こうに夢を見つけていく。立場の近い身近な人と言い換えてもいい。それはかつて武川主任に抱いた憧れであり、いま狸穴リーダーに向けるまなざしに見られる。だから狸穴リーダーにサウナに誘われたら行っちゃう。恋愛感情はないけど尊敬している上司の誘いであり気遣いなので行っちゃう。そして春田がキレる。牧はもとから自分とおなじコミュニティの中で目標を見つけるタイプなのだと思う。ドラマでの春田のポスティング同行の時も、牧は街の人と交流をするというよりも春田の仕事ぶりを通して春田を見ていたからだ。

だからいまの牧にとっては狸穴リーダーが目標で、狸穴リーダーのような大きな仕事・開発をするのが夢なのだ。そのために今頑張る必要がある。

これに対して、春田の夢は社内にはない。社内の人間を通して社内の人間が手がけている仕事に憧れを持つというよりは、黒澤部長のような「人としての在り方」を目標にする。街の人にとって自分がどう在れているか、どういう風に在りたいかだとか、他人にどう働きかけたいか、他人をどうしたいのかというのが夢になる。

牧がドラマで言ったように、牧と春田は「なにもかもが違う」。違うのに、違うから、どうしようもなく恋をする。仕事でもプライベートでも、もうめちゃくちゃすれ違いながらそれでも手は繋いでいようとする。ふつうの恋でもあり、それだけ特別な恋でもあった。

今回の映画で、牧の個人主義なところや、プライドが高いところ、格好悪いのを隠したがるところや、意地っぱりなところが前面に出ている。全部自分でなんとかしようとするけど、なんとかできない。牧凌太は、自分が思っているほど大人じゃない。

映画の牧凌太は、めちゃくちゃ年相応なのだ。仕事に切羽詰まりすぎてドラマほど大人を装いきれていない青年に見える。春田創一に対してしんじられないほど説明不足で、倒れても連絡しないのは「春田さんに応援してほしい自分の姿」じゃないからだというのもあると思う。ついでにプライドが高い。春田創一と対等でいたい。ついでに病室で騒がれたくないし、心配をかけたくない。手を借りてしまっては格好悪い。

その点、春田創一は駄々をこねたり拗ねたりしているように見えるけど、よっぽど大人であるように見える。拗ねてないで素直に応援しときゃよかったと思えるし、歩み寄ろうと料理をしたりもする。ああ見えて8歳も上だ。8歳上にしてはやや子どもっぽく見える瞬間も行動もあるけど、あんなにもひとの感情に流されてあっちこっちしていた流され代表の春田創一が映画ではきっぱり「お付き合いしてる人がいる」と言うのだ。家族になるということについて真剣に考えたり、手探りながらもふたりの関係を深めていこうとする。本気で。めちゃくちゃ成長してるぞ春田創一〜〜〜〜〜!!!!!!

炎の中で牧は「忙しいのを言い訳にして、春田さんとちゃんと向き合わなかったです」と言う。向き合わずに恋愛をしていたかった。真剣なことを話し合って、じゃあ壊れてしまったら?

だってもし壊れてしまったら、牧凌太にとって春田創一という居場所もなくなってしまう。

傷つきたくないだけですと言った彼だ。傷つくのが平気になったわけじゃない。ドラマの最後、もう我慢しないと言った牧は、春田創一と恋愛することに関してはたぶんもう我慢していなかっただろうけど、家族になることに対しては逃げていたんだろうなと思う。多分、まず仕事、次に結婚、と思っていたのではないだろうか。ほんとうは、どっちが先とか後とか、順番じゃないといけないわけじゃないなんてことは知っていた。知っていたけど、今春田創一という人を失うわけにはいかなかったんだろうと思う。

映画でめちゃくちゃ支離滅裂な行動や発言をしているように見えても、牧の中では、すべての筋が通っている。

黒澤部長に叱咤されて、まだまだ若くて大人になりきれない牧凌太は、人を愛するとはどういうことかを知らされる。格好悪さも臆さず晒し出すということ。剥き出しのひとりの人間として、嫌なところもひっくるめて、支えていくということ。ふたりで生きていくということ。言わなきゃ伝わらないということ。恋愛みたいに、楽しいだけじゃ立ち行かないんだということ。

そうやって作中で現実を生きる牧凌太という人間の揺らぎや人間くささが、劇場版おっさんずラブではあまりにも繊細なバランスで成り立っている。

ドラマではもうほんのすこしデフォルメされていたように思う。だけど映画では、まるでそうやってずっと生きてきて、二十数年の積み重ねがあるかのように見えてしかたがない。ドラマのために生み出されたキャラクターなのに、映画をひとつ観ただけで、牧凌太の感情が鮮やかに追える。牧凌太はこの世界のどこかで生きている。そうでないとおかしいと思うほど、おっさんずラブという作品のなかで彼は悩み、恋をして、不器用に生きている。

だからわたしは、林遣都さんという役者は、考えて考えて、牧凌太という人物と考え詰めて、そして持ちうる感情をすべて呼び起こして総動員して、そしてとうとう牧凌太というひとつのいのちをあの世界に生み出してしまったのだなと思った。牧凌太は、林遣都さんの理性と本能の両方とで形作られている。牧凌太には林遣都さんの血潮が流れているけど、林遣都さんとはまったく別のひとりの人間になってしまった。

この夏の、いまこの時のスクリーンでしか会えない、牧凌太というひとりの人間に会いにいってほしい。

林遣都さんが牧として生きてくれて、ほんとうに、ほんとうによかったと思える。ありがとう。


牧凌太は生きている。

スクリーンの向こう側で。この世界で、きっと今日も生きている。