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これは文学だ。

思い出はたくさんあるけど、
思い出したいことはひとつもない。


          イワン・ツルゲーネフ


13歳の房思琪(ファンスーチー)には親友がいる。
ある日、二人が住む高級マンションに1人の国語教師が越してくる。
人当たりがよく人望があり、善良な教師である「はずだった」が、果たして彼は逸脱者だった。
彼の次のターゲットは房思琪だった。

繰り返される少女への性暴力や、男性側の身勝手な解釈が入り交じりながら綴られる物語。
読む人によってはかなり不快だろうと思う。

海外で巻き起こっているMeToo運動。
女性性が虐げられてきたことには同じ女性として憤りを覚えるが、一部に見られる極端なフェミニズムは、本当の意味での平等ではなく、単に与党の反対意見ならなんでもいいという頭の悪い野党と同じく、自らがあんなに嫌った男尊女卑と同じ考え方だ。
ああいう女性には私は賛成しかねる。一緒にしないで欲しい。

ファルス中心主義、いわゆる男根主義で世界は動いてきた。
肉体的に女性より優位に立つ男性は、男だから精神的にも人格的にも女性より優れているという明後日の方向へ傾いていった。
私は、性犯罪を起こす男性の多くに、男根主義から脱却しようとする時代に順応できず、あるいは順応したい自分と、企業内や家庭、至るところに散らばっている男根主義の残骸と誤った男性像への自信のなさがない混ぜになった軋轢の果てに、弱者であると勘違いした女性へ性暴力として向かってしまう心理があるのではないかと思っている。

性犯罪に関係なくファルス中心主義は根深く、脱却は相当難しいだろうが、
そろそろ股間ではなく頭で物を考えるべき時ではないだろうか。
自分のイチモツに振り回されている男は、哀れだ。

漫画家手塚治虫 の傑作の1つ、ブラックジャック。
このコミック文庫版にときには真珠のようにというエピソードがある。
ある日ブラックジャックのもとに石のようなものの鞘に納められた1本のメスが送られてくる。差出人はJ.H.
彼はそれが、かつて自分を助けた本間丈太郎医師だということに気づく。
本間医師を訪ねたブラックジャックは、そこで驚くべき事実を聞かされる。
爆発事故によって瀕死の状態だったブラックジャックの執刀医だった本間医師は、あろうことかブラックジャックの体内にメスを置き忘れてしまい、とんでもないことをしたと思いながらもミスを認められず、7年も経ってから検査と称して再度開腹、こっそりメスを取り出していたというのだ。
そこで開腹した医師は目を疑った。
それは、メスを異物と判断したブラックジャックの体が大量のカルシウムを放出し、メスを覆っていたからだった。
自分を守るための、奇跡に近い防衛本能を目の当たりにした本間医師は、
ブラックジャックにそのメスを送った。そして、彼を執刀するブラックジャックに

人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて
おこがましいとは思わんかね…


という言葉を残してこの世を去る、という話だ。

タイトルからは想像が全くつかない陰惨とした内容、実話をもとにしたという衝撃に読者からは両者の不一致に対する疑問が多く投げられているが、
私は、このタイトルしかない。
むしろ、このタイトルじゃないと文学として成り立つことができないと思っている。

初恋。
初恋とはなんだ。
初恋とは、初めて家族以外の他者を認めることだ。
自分とは異なる構造を、思考を持つ生き物との初めての出会いだ。
また、それは自分の中の知らない自分の存在を知る瞬間。
初恋は人間が持ちうるすべての感情を以て自分が何者であるかを知らしめる存在だ。
初恋は媚薬で麻薬で劇薬で、万能薬で特効薬のように作用する。
それに触れると、神が見える、運命が見える。
詩人になり、ロマンチストになり、仏陀のごとく悟りすら開く。
そうして、「愛」を知っていくものだ。
きっと彼女もそうだった。
「それ」は、まぎれもない初恋だった。
ただ、私たちのものと違う、まったくの異質のものだっただけで。

初めから異質だったのに、それを異質だと断言し、
彼女の手を引いてそこから連れ去ってくれる人はいなかった。

この本を読みながら真っ先に思い出したのはブラックジャックのエピソード。彼女の初恋は、取り残されたメスだ。それは長い時間をかけてあまりにも房思琪の内面に癒着しすぎてしまった。
その状態になった異質物を急に引きはがしてしまうと本体に損傷を与える。
それは、房思琪にも例外なく訪れた。大好きな親友によって。

著者である林奕含(リンイーハン)は2年前、台湾国内で本書が刊行された2か月後、自ら命を絶った。
私は、告発でも警告でもなく、文学としてこの作品を作り上げることで、自分で癒着した初恋を引きはがしたのだと思った。
もはや推測でしかないフィクションかノンフィクションかの論議は台湾国内の法律をも変えた。しかしこれは林の望んだことではないのかもしれない。


かすかな希望が見えたなら、それは読み間違っているからもう一度読み直すべきだ。

と生前インタビューに答えた林。

林さん、私にはそんな希望は見えなかったよ。
そこにはいびつな「初恋」が2つと、一人の犯罪者が転がっているだけだった。

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