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9 自由に生きる―タイ仏教僧として―

 ところで最近、こうした心の良き変化を求めて瞑想マインドフルネスを実践する人たちがどんどん増えてきていますが、効果を実感する人がいる一方で、逆に、心の調子を崩したり、それまで以上に生きづらくなってしまうというケースも増えてきています。瞑想というのは、デリケートな心に直接に働きかける技術でもありますので、ポイントが少しずれるだけで、「副作用」のような症状が起こってくるのも事実です。私自身、通常の悩み相談の他、そう した人たちの相談を受ける機会も実際にすごく増えてきています。ちょっと前に、『悟らなくたって、いいじゃないか』(幻冬舎)という本を出版しましたが、その中で「瞑想難民」という言葉を用いて、警鐘を鳴らしてきました。 先ほどご紹介した五Cは、実際に瞑想がうまく進んでいるのか、それともやり方などにズレが生じてきているのかを 確かめる指標にもなります。


 さて、ここからはズバリ「自由に生きる」ということの核心について語ってまいりたいと思います。「自由に生きる」とはいったいどういうことなのでしょうか。

 それについては、「世界から受ける影響力がだんだん減ってくる」ということと深く関連しているのではないかと 思います。一般的に私たちが用いている「自由」という言葉は、外的な束縛、拘束、妨害、支配がないこと。自分の意のままにふるまえる。わがまま、勝手気ままということ。実際に辞書ではこういったものを、自由と定義づけてい ます。

 ところが、仏教的な自由とは、そうした外的なモノからではなく、内的な支配からの自由。換言すれば、「心からの自由」です。内的な思考パターン、感情、記憶。心の癖といったものに支配されていないこと。 あることが、非常に重要です。辞書に書いてあるような「自分の意のままにふるまえる」というのは、確かに基本的 に必要な自由です。実際に監禁などされて、行動を制限されていたら、本当に不自由ですよね。しかしながら、そのように外部からの拘束を受けておらず、意のままにふるまえていても、仏教では自由であるとはみなしません。そうした状態は、心の奴隷になっていると意味づけられているわけです。また、わがまま、勝手気ままであるということ も同様に、辞書には「自由」として定義されているが、仏教では、それも「煩悩に支配されている状態」である、あるいは心の放逸状態、我を失っている状態である、とみなされています。それゆえ、仏教では、心の奴隷状態からの解放、すなわち内的な現象に支配されないことを実現していくわけです。