見出し画像

#005 あなたの知らないところで働くからだ〜閾下知覚について〜

1.はじめに

"私"が"私"だと思うこの感覚はなんなんだろう?と考えたことはありませんか?

こんにちは。たくやです。
本業のかたわら、空き時間を利用して調べ物をするのが趣味の人間です。
冒頭の漠然とした疑問に答えを見つけたくて、意識や無意識の領域について調べてみました。
2月と3月にはその内容をまとめて共有する会を開いたのですが、参加できなかった方への共有と、内容が1回で覚えるには膨大だったため、参加された方への復習用にまとめてシリーズで投稿しています。

2.おさらい

前回のベンジャミン・リベットの実験の記事の中で、わたし達は感覚器官から受け取った情報を知覚するためには、どんなに短くても0.5秒の時間を必要としていて、それ以下の短い時間しか脳内活動が起きなかった場合、その刺激はわたし達の意識には上らない(=気付かない)という話を記しました。

また、わたし達の意識が実際に情報を知覚する時には、わたし達の主観的感覚は遡及(巻き戻り)をして、あたかも0.5秒という時間は掛からずに、刺激を受けたタイミングで気付いたかのように感じるという話もしました。

そして野球でバッターが時速160kmのボールを打つ瞬間、車を運転していて急に人が飛び出してきた瞬間など、急な出来事の際に0.5秒の時間を要せずに手足が動くわたし達の身体の作用とは、意識に情報をあげるより先に脳内の無意識の領域がわたし達の身体へ指令を出しているということに等しいという内容でしたね。

#001の中でツィメルマンの報告から、わたし達の感覚器官が受け取った情報のうちの99.9%の情報は意識に上がることはなく、わずか1%にも満たない情報をわたし達の意識は感じているということもわかりました。

今回は、この意識に上がらない情報をもとに日常生活において、"閾(いき)"という言葉を使って、いわゆる無意識でも身体や意識に働きかける作用があるという話をしていきたいと思います。

3.”閾”わたしたちの意識の向かない情報

3-1.知覚できない情報

「閾(いき)」という言葉があります。
心理学用語で、生体の知覚できるかできないかの境界線、あるいは知覚できる最小の刺激のことを指す言葉です。

私たちは周囲の環境から常に情報を得ています。すれ違う人の服装、通り過ぎるお店の外観、太陽や照明の明るさ、風の音、カフェのBGM、周りの人の話し声、朝の匂い、ツツジの花の香り、靴を通して感じる足の感覚、服と擦れる皮膚の感覚など枚挙にいとまがありません。

ですが、私たちはこの感覚をいつも意識して感じているでしょうか。
だいたいは見て、聞いて、嗅いで、触れて、味を感じているにもかかわらず、見ていないかのように、聞いていないかのように、嗅いでいないかのように、触れていないかのように、味を感じていないかのように思っているのではないでしょうか。

閾という言葉のイメージ図

これらの情報は、私たちの生存にとって重要度が低いとわたし達の身体が無意識に判断を下して、意識に上げるまでもない情報として処理されているため、あたかも"そこにはない"かのように知覚されているのです。

では、わたし達の意識が捉えなかったこれら膨大な情報は、わたし達の脳から不要な情報として捨てられてしまっているのでしょうか。

3-2.目が見えなくても自転車に乗れる

眼や脳神経の医療の現場では、以前から先天性の疾患や事故などで目が見えていない患者が偶然をはるかに超える確率で、物の位置や向きを捉えるなどの反応を示すことが知られていました。

2002年の春にダットン(Gordon Dutton)というスコットランドの眼科医を、一次視覚野全体を失って全盲になった若い女性秘書が訪れた。その女性を診療室へエスコートした時、ダットンは女性が廊下に並べられている椅子をよけるために急に向きを変えたのに気付いた。
「椅子をよけて歩きましたね」とダットンが言うと、女性は困惑顔で「何の椅子ですか」と答えた。ダットンは「見えないのはわかっていますよ」と女性を安心させつつ、「もう一回、椅子をよけて歩いていただけますか」と頼んだ。女性はその通りにしたが、依然として当惑した様子で、「どうやったのか自分でもわかりません」と言った。
「あなたの無意識の視覚中枢が代わりにやってくれたのですよ」

別冊 日経サイエンス255 意識と感覚の脳科学 p8.「五感を超えた力」A.ブライチャー

このような現象は、心理学用語で「盲視(ブラインド・サイト)」と呼ばれています。
注目すべき点は、椅子を避けた女性は、自分が椅子をよけたことには気付いていない。というところです。
また、別の被験者に空き瓶の口の向きを当ててもらう実験を行ったところ高い確率で正答を口にしたにもかかわらず、被験者本人は、「見えていない」「なぜそのように回答したかはわからない」と当惑している点と重なって見えます。

これは、脳内で視覚器官から情報を受け取った脳内では、記憶や意識を司る領域を通ることなく、運動領域へ指示を出す部分へ迂回しているためこのような当人が"気づかないうちに"ということが起きているのです。

さらに、普段意識に上らない感覚器官からの情報も、意図的に利用することで失われた他の感覚器官の役割を補うことができる例も知られています。

アメリカに住むダニエル・キッシュは幼い頃、眼球のがんにより両目を摘出しています。彼は早い段階から、クリック音と呼ばれる舌を素早く音を活用して周囲の状況を把握し、歩くことや、ダンスを踊ること、登山をすることやまた自転車に乗ることも可能にしているのです。

これは反響定位(エコーロケーション)と呼ばれるもので、キッシュは舌を鳴らす音の反響音から周囲の状況をぼんやりと”世界を見ている感じている”と表現しています。実際に反響定位を活用している被験者の脳内の活動を調べた結果、視覚からの情報を司る視覚野が活性化することを突き止めています。

3-3.サブリミナル広告の衝撃

わたし達の知覚し得ないような小さな情報で、わたし達の行動は左右されるのか。という事柄が注目された事件がアメリカで起きました。

1957年にマーケティングリサーチャーのビカリーはある実験結果を報告しました。夏の6週間に渡り、上映されていた映画の5秒に1回、3ミリ秒(0.003秒)だけスクリーンに「ポップコーンを食べろ」と「コカコーラを飲め」とう画像が瞬間的に映し出されるようにした結果、その期間にその映画館での炭酸飲料の売上が18%増え、ポップコーンの売上は58%も増えたというのです。


著作者:macrovector
出典:Freepik

これがサブリミナル広告を有名にした事件の一端です。
※ちなみに今回のテーマ"閾"を英語にするとsubliminal(サブリミナル)になります。

この報告はアメリカ中に衝撃を与え、激しい反発が起きました。
この激しい反発の背景には、同年のマスコミ業界で起きていたある流れに起因していたのです。

1957年、プリコン・プロセス・アンド・エクゥイプメントという会社が、広告や映画に閾下メッセージ(視聴者が意識では知覚されないが、購買欲を想起させるもの)を挿入するサービスを開始しました。同じサービスを提供するサブリミナル・プロジェクションという会社も生まれ、全米のテレビ局やラジオ局はこの閾下知覚へ働きかけるメッセージ広告の放送時間枠を売り始めていました。

わたし達の気づかないうちにマーケティングが行われ、物を買う行動が操作されている。これは洗脳と変わらないのではないか。

消費者のこの漠然とした不安が生まれていた中での、ビカリーの実験報告は消費者の大規模な反発を生むには十分すぎるものでした。

世間からの反発を受け、イギリスやオーストラリアにつづき全米放送事業者協会はサブリミナル広告を全米的に禁止にしたのです。

しかし、ビカリーの実験には一つ問題が残っていました。
ビカリーがこの結果を発表した直後から、研究者達はこの実験を再現しようと実験を繰り返したのですが、誰一人として成功した人はいなかったんです。ビカリーは報告から5年後に自分の実験がイカサマであったと公表したのですが、実験の広がり方に比べて、このイカサマ公表の事実を知っている人は多くありません。

現在の閾下知覚へのメッセージの研究から、この働きは特定のごくわずかな環境でしか効果を生まないということがわかっています。無意識への瞬間的な働きかけでは、わたし達の行動や意志を変えることはできないというのが現在の大勢の意見なんですね。

4.まとめ

今回は、盲視(ブラインド・サイト)の例を挙げて、意識に上らない情報をもとに身体は動くことができることや、ダニエル・キッシュの例から他の感覚器官からの閾下知覚の情報を意識に上げて、失われた感覚器官を補っている例。
また、潜在意識の領域へ働きかけて購買意欲を掻き立てようとしたアメリカの実例を挙げて、わたし達の無意識の領域を取り巻く事柄について取り上げました。

わたし達の意識を置き去りにして行動を起こすこと。あるいは前回のリベット実験での、意志が起こる0.25秒前に活動を開始する脳、緊急の事態に意識より先に身体に指令を出す無意識の領域。

こういった例を通してみてみると、不安に思うところもありませんか?
わたし達の知らないところで行動を決める、自分の身体とは脳とは一体なんなんだろうと。

次回は、その問いへの答えの一つとして<私信仰>と慶應義塾大学の前野教授が提唱している、受動意識仮説について掘り下げていきたいと思います。

では。

5.参考文献

  • ユーザーイリュージョン トール・ノーレッドランダーシュ著 紀伊国屋書店 2002年

  • マインド・タイム 脳と意識の時間 ベンジャミン・リベット 岩波書店 2005年

  • 別冊日経サイエンス 新版意識と感覚の脳科学 日経サイエンス社 2022年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?