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共和政から帝政への移行


奴隷が可哀想


ポエニ戦争での完勝後、破竹の勢いで支配領域を広げていったローマ

ですが、戦績と国の内情は対照的でした。

長期の戦争に駆り出された農民が久しぶりに自分の農地に戻ると、

荒れ果てており使い物にならない状態でした。

さらに、度重なる戦争の勝利によって獲得した奴隷達がローマ国内に続々と

流れ込んできました。農地が富裕な貴族(パトリキ)新貴族(ノビレス)は、

属州から得られた奴隷を使って大規模農園で働かせていました。

こうした大土地所有地(大農園)の在り方を称してラティフンディア

いいます。

騎士層の進出


元老院議員クラスの有力者による大土地所有に加えて前3世紀の終わり頃

から騎士階層(エクイテス)も大土地経営者となりました。彼らは属州での

徴税請負人として富を蓄え、同じく奴隷を労働力としてぶどうとオリーブ

生産し、資本主義的な農場経営を展開するようになりました。




パンとサーカス


農民からすれば、自国のために命懸けで戦争に赴いたのに、帰ってきたら

生きていくための生命線である農地が荒廃し、富裕層による大規模農園を

使った安い作物の大量生産をされていては勝ち目なしという状況でした。

こうした農地を奪われた大量の失業者は働き口を求めて都市に集中します。

彼らが結託して反乱を起こされてはまずいと考えた政治家や皇帝は、食糧と

娯楽を求める無産市民(プロレタリア)の声に対し、穀物を特別価格での販売

や無料配布したり、闘技場での剣闘などの娯楽を与えて気を逸らそうと画策

します。戦争に勝てば勝つほどローマ国内は停滞ムードになるという

ジレンマが起きていました。

※帝政時代でも穀物と娯楽の提供は政治の安定に繋がるとして皇帝達に

よって盛んに実施されました。






外ばかりに目を向けたせいで起きる内乱たち


このようなローマ国内の停滞ムードは氾濫や軍事衝突を頻発させ、

前2〜1世紀にかけて内乱の1世紀と言われる混乱時代に入ること

になります。

大きく3つある内乱のうち1つ目は、平民派と閥族派の争いです。

2つ目は、剣闘士奴隷達の大規模反乱であるスパルタクスの乱です。

観衆の娯楽のために毎日死ぬような訓練を受けさせられていた

剣闘士奴隷(剣奴)達がある日脱走することを発端に起こりました。

その中のスパルタクスという人物を中心にイタリア全土の奴隷階級へ

蜂起を呼びかけ、20万近くの大蜂起となりました。

3つ目の内乱は、同盟市と言われたイタリア半島の都市がローマに対して

反乱を起こした同盟市戦争と言われる戦乱です。

この同盟市の反乱はイタリア全土に及び、3年間に渡る戦いは戦死者を

30万人に達する深刻な事態でした。

元老院は反乱に参加しないことを条件に市民権を認めるなどの懐柔策を

採り、前88年までに反乱は鎮圧されました。

その結果、イタリア半島に住む自由民は全員市民権を持つこととなり、

ローマの民会は事実上機能しなくなりました。

上記の3つの内乱はスラ、ポンペイウス、クラッスス、カエサルなどの

有力な将軍の私兵集団や傭兵によって鎮圧され、その戦功を誇る将軍達

によってローマの覇権をかけた争いが始まることとなります。





第1回三頭政治


前60年、元老院に対抗するために有力者であるカエサル、ポンペイウス、

クラッススの3人による第1回三頭政治が開始されます。

三頭政治というのはそもそも、有力者達の各々の目的と本来は一致

していませんが、元老院に対抗するためやむなく妥協した政治的同盟

であるため、3者ともそれぞれ市民からの人気はありましたが、

まだ互いの名声に依存してようやく成立するレベルでした。

三頭政治によって執政官(コンスル)に当選した軍人カエサルは幾つかの

法制定後、ガリア遠征を行い、大きな戦果を重ねて名声を高めます。


ガリア遠征


ガリアとは、現在のフランス・ベルギー地域で、ローマに服属していました

が、前1世紀にゲルマン人諸民族がガリアに侵攻を始めると、ローマに

反抗するようになりました。

カエサルはガリアを軍事的な征服によって政治的優位を勝ち取れると踏み、

遠征を行うに至りました。

ヴェルキンゲトリクス指導によるガリア人の大反乱により一時は苦戦を

強いられましたが、アレシアの戦いでガリア連合軍を破り、ガリア平定を

成し遂げました。

ブリテン島への進出もしており、制圧は惜しくも失敗しましたが、

前58年から前50年までの9年間でガリア地域のほぼ全域を制圧し、

詳細な記録を後年「ガリア戦記」として残しています。





三頭政治の崩壊



カエサルは、娘をポンペイウスに嫁がせて結束を強くしていましたが、

前54年に娘が死去したことで2人の関係は悪化していくことになります。

カエサルの名声に対し、クラッススは無謀なパルティア遠征を行い、

戦死してしまったことで一角が崩れます。

関係が悪化していたポンペイウスは元老院と手を組んでカエサルを倒そうと

試みますが、カエサルはこの勝負に勝利し、ローマの絶対権力者に

なります。

ポンペイウスはファルサロスの戦いで敗北後、エジプトに逃れましたが、

そこで暗殺され生涯を閉じました。






カエサルの独裁政治



ほぼ全ての敵対勢力を平定したカエサルですが、圧倒的な軍事力を背景に

臨時の最高職であった独裁官を終身の終身独裁官に変更し、自らその役職に

就きました。

そして太陽暦(ユリウス暦)の制定や、海外に植民市を建設、結社の禁止、

牧場の労働者のうち3分の1を自由人とすること(奴隷反乱の防止)等の内政を

行い、都市共和政から帝国支配への転換を目指します。

めちゃくちゃ王になりたい感があからさまになってきたカエサルに対し、

共和政を守ろうとする人々が反発します。

結果、カエサルは、若い頃から目をかけ信頼していたブルートゥスという

人物に暗殺されてしまい、政治は再び混乱へ向かいます。





第2回三頭政治


この混乱の中、カエサルの養子であるオクタウィアヌス、カエサルの部下

アントニウス、そして名門の出身であるレピドゥスの3人によって

第2回三頭政治が開始されました。

この時の三頭政治は、「国家を組織するための三人官」という正式な権限

が与えられていたものでした。

つまり、前述の第1回三頭政治は、この正式な三頭政治に倣って後世に

名付けられたものとなります。

この第2回三頭政治ですが、アントニウスとオクタウィアヌスの対立が

再燃することですぐに崩壊を迎えます。

アントニウスは超美人のクレオパトラの魅力に取り憑かれて、

妻(オクタウィアヌスの姉)がいるにも関わらずエジプトに移ります。

不信感を強めたオクタウィアヌスは「あいつ潰そう」と決意し、

三頭政治の一角であったレピドゥスを失脚させて対決に備えました。

そして前32年にアントニウスがオクタウィアと離婚したことで三頭政治は

終わりを告げ、両者は激突を迎えます。

アクティウムの海戦


前31年、オクタウィアヌス率いるローマ軍対アントニウス・クレオパトラ

率いるプトレマイオス朝エジプトの連合軍の戦いであるアクティウムの海戦

で雌雄を決することになります。

この戦いをオクタウィアヌスが制し、さらに翌年、アレクサンドリアを征服

してプトレマイオス朝エジプトを滅ぼしたことで地中海全域の覇権を握るに

至りました。

そして、前27年、オクタウィアヌスはローマ元老院によって

アウグストゥスの称号を贈られ、ローマ帝国の初代皇帝となります。


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