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共和政ローマ ポエニ戦争


共和政の時代


ローマ帝国は、西ヨーロッパから地中海全域に及ぶ大帝国だったため、

道路や建築、言語など、ヨーロッパに統一性をもたらした重要な要素

でした。そのローマ帝国ですが、最初期を除いた前半は王や皇帝を

持たない共和政の時代でした。

貴族と平民、奴隷といったように身分差は存在しており、国の指導権を

持つ会議だった元老院や最高官職であった2名のコンスル(執政官)も、

貴族に独占されていました。

このローマでも、国が大きくなると重装歩兵として戦争に参加している

市民が「命懸けて戦ってんのに参政権ないとかふざけんなや」という不満が

爆発し、貴族に対して身分闘争を挑むという古代ギリシアと同じ流れ

なります。

そういった流れを経て段階を踏みながら平民の参政権は向上していくことに

なります。

平民の権利を守る護民官という制度や、平民会という平民の議会が設置され

ました。さらに十二表法という成文法(誰でも読める文章で記された法)で

記された法律が制定され、貴族による権力独占を防ぎました。

そして、リキニウス=セクスティウス法という定員2名のコンスルの内、

1人は平民から出すという法律が定められたことで平民の権利は

一層拡大しました。

また平民会の決議が元老院の承認なしに国の法律となるという

ホルテンシウス法が定められたことで、平民と貴族の権利がついに

ほぼ平等にまでなり、身分闘争は終わりました。

ただし、平等=仲良しという等式は成立せず、法を作れるようになった

平民と法を運用する貴族が対等の立場になったことで両者の対立はますます

深まることになりました。





ポエニ戦争


国内で身分闘争などのいざこざは怒りつつも、軍事面では順調に強大化

しており、イタリア半島を統一していきました。

この時、ローマと戦うことになったのが

フェニキア人国家のカルタゴでした。

彼らは地中海を挟んだローマの向かいに位置し、

いつか倒さねばならないライバルのような存在でした。

この地中海の覇権をかけた前3〜2世紀のローマ対カルタゴによる

3回に及ぶ戦いをポエニ戦争といいます。

ちなみにローマ人がカルタゴ人のことをポエニと呼んでいたことから

ポエニ戦争と名付けられています。





第1回では、ローマがイタリア半島南端のタレントゥムを征服し、カルタゴの

勢力下にあった豊かな穀倉地帯であるシチリア島へ進軍しました。当初、

海軍どころか船の作り方さえ知らないローマはカルタゴに苦戦しましたが、

座礁したカルタゴ船を手本とし、2ヶ月でそれに似た多くの船を作り上げた

ことで海上で闘う術を身につけました。そしてできたばかりの艦隊で

カルタゴを倒し、シチリア島を手に入れました。ここでローマが初めて

イタリア半島の長靴の外に領地を持つことになります。

(この海外植民地を属州と呼びます)





続く第2回では、世界史史上最高の名将と言われる

カルタゴの将軍ハンニバルと戦います。

カンネーの戦いにおいてハンニバルは、象を用いた部隊を編成して、

イベリア半島からアルプス山脈を密かに越えて北側から一気にローマへ

攻め込むという奇策を成功させます。

ローマからしてもまさか山脈を象が越えてくるとは露ほども考えてなかった

のでめちゃくちゃ意表を突かれました。

ハンニバルはローマ軍主力を盆地に誘い込み、両側から挟撃する戦術で

大勝しました。この戦いによってローマは戦死者5万人、対してハンニバル

軍は死者5千人という圧倒的な戦いでした。

ちなみに一度に5万人以上の死者を出した戦いはこれ以降第一次世界大戦

まで無いそうです。これによりローマは滅亡の危機に陥りますが、

名将スキピオの登場が戦況を覆します。

スキピオはあえてローマ国内の防衛線をせず、スペインやカルタゴの本土へ

出撃し、攻撃を始めたことでハンニバルはローマへの攻撃を中断して本国へ

戻らざるを得なくなりました。そして誘き出されたハンニバルはザマの戦い

でスキピオに敗れ、第2回もローマが逆転勝利します。

この戦いでは、カルタゴ軍が陸軍を市民兵ではなく傭兵を中心としていた

こと、海軍は市民が参加しましたが、第1回ポエニ戦争において制海権を

失っていたことも大きな敗因となっています。

第2回ポエニ戦争終了後、ローマはカルタゴに厳しい講和条約を押し付けま

したが、意向としてはカルタゴを交易相手として存続させるつもりでした。

しかし、マケドニア戦争が終わると、大量の奴隷と安価な穀物の流入に

よって、中小農民が次々と没落し、他方では元老院議員のラティフンディア

(大土地所有)徴税請負人となった騎士階級の経済的進出が進んだことで、

共和政社会に矛盾が生まれてしまいした。

その矛盾を解消するためにも新たな領土獲得が必須となったことで

カルタゴとの第3回ポエニ戦争に至ったとされています。





最後の第3回は、スキピオの孫である小スキピオによって指揮されました。

カルタゴによる抵抗は4年続きましたが、ついに城壁は突破され、元老院の

指示の下、全領土の破壊を行いました。総人口50万人のカルタゴ人のうち、

生き残った5万5千人は奴隷として売られました。

こうしてカルタゴは跡形もなく滅び、ローマが完全勝利しました。

支配地域を属州アフリカとして支配し、ローマが地中海の覇者と

なっていきました。

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