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ローマ帝国アゲアゲ時代から衰退まで

元首政の始まり


アクティウムの海戦を経てローマの初代皇帝となったアウグストゥス

(オクタウィアヌス)は独裁者という肩書きを使わずにあくまで

第一の市民(プリンケプス)」と名乗り、市民のリーダーという

立場を貫きます。

※このタイプの帝政を元首政と言います。

王になろうとして反発されてぶっ殺されたカエサルを見て、共和政の伝統を

守りたい人々が一定数いることに配慮したというわけです。

ただ「第一の市民」とかなんとか言っても実質唯一の権力者で皇帝

であることには変わらないので物は言いようということですね。

ローマの平和(パクス=ロマーナ)

地中海世界が圧倒的な力を持つローマ帝国に統治されたことで、誰もが平和

を享受できるローマの平和時代が到来します。商業活動も活発に行われ、

季節風(モンスーン)を活用した季節風貿易により、遠く東南アジア、

中国とも交易をするようになります。




五賢帝時代つまり黄金期



初代皇帝アウグストゥスから、5人の優れた皇帝に統治された1世紀末から

2世紀末までの200年間がローマの黄金期となり、空前の繁栄を迎えること

になります。この五賢帝とは12代皇帝ネルウァから、

16代皇帝のマルクス=アウレリウス=アントニヌスまでの5人を指します。

個人的に好きなので五賢帝についてはもうちょい触れます。

ネルウァ(在位96〜98)


先代のドミティアヌス帝(暴君だったそう)が暗殺されたことで66歳の時に

皇帝となりました。在位はわずかな期間でしたが、先代の恐怖政治によって

失脚していた元老院議員を復職させるなど、政治秩序の再建に努めます。

他にも高齢で経験豊かな人物を次々と要職に就かせるなど元老院の伝統的な

権威を尊重していた故の采配と取れますが、老人政治と揶揄されることも

ありました。

優秀なおじいちゃんでしたが、老齢のため軍隊から人気がなかったことも

あり、後継者には血縁ではないトラヤヌスを指名しました。

トラヤヌス(在位98〜117)


最初の属州生まれの皇帝で軍人として育ち、若くして指揮官として各地を

転戦しており、人望に長けた人でした。

ダキア戦争

ダキア(現在のルーマニア)は、ローマの保護国でしたが国力の増強とともに

反抗するようになっていました。トラヤヌスは、自ら軍を率いて軍事行動を

行い、制圧し服従させました。そして105年に再び遠征を行い、106年には

勝利を収め、属州ダキアとして帝国領に組み入れました。

パルティア遠征

114年には、ローマの保護国であるアルメニアに侵攻したパルティアに対して

撃退を目的とした遠征を行い、116年にはメソポタミア南部及びペルシア

湾岸にまで到達しました。この時、60歳を超えたお爺だったそうなので

活力凄まじいです。

そしてこの遠征により、ローマ帝国最大の領土となりました。


ハドリアヌス(在位117〜138)


先代のトラヤヌスと同じく属州生まれで、軍人としてガリアやシリア、

ギリシアなどを転戦して戦功をあげていました。またギリシア文化にも

通じた文化人としても知られていました。

彼は即位後、パルティアとの戦争を中止して兵を引き上げ、アルメニア・

メソポタミアをパルティアに返還しました。

彼は長年軍人として前線で戦ったていた経験から、これ以上の戦線の膨張は

維持することが非常に困難であることを理解したことから返還に

至りました。これによって建国以来ずっと続いていた外征は一旦

終わることとなります。

世界遺産 ハドリアヌスの長城

皇帝として広大な属州維持に努め、最も遠いブリタニアでは北方のケルト人

に対してハドリアヌスの長城と言われる118キロにも及ぶ防壁を

建設しました。この長城はローマ帝国のブリテン島における政治、

軍事上の境界線を示していて、現在もイギリスに残っています。

いつか見てみたいですが長すぎてあまり見栄えしないかもと思いました。


世界を旅した皇帝

ハドリアヌスは即位後、生涯に何度も大旅行をし、ローマ帝国領各地を

訪れました。特にギリシアには3回ほど訪問し、荒廃していたアテネの

復興に尽力しました。

アテネのパルテノン神殿があるアクロポリスと並び立つゼウス・オリュンポ

ス神殿は600年もの間未完成でしたが、ハドリアヌスが完成させました。

その功績もあってアテネを再興した神として敬われ、ハドリアヌスの門

造られました。


アントニヌス=ピウス(在位138〜161)


彼の23年間の治世は、何事も問題は起こらなかったと言われるほど安定して

平和だったそうで、元老院は彼を「最良の君主(オプティムス・

プリンケプス)」と呼びました。

また本名はアウレリウス=アントニヌスで、ピウスというのは添え名で

道義心に厚く孝謹であるという意味です。

その理由となるエピソードですが、彼が元老院議員であった時、

高齢の元老院議員だった義父の身体を支えるように登院したこと、

ハドリアヌスの晩年に死刑を宣告されていた人々を赦免したことなどが

あります。


マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161〜180)


スペイン生まれのストア派哲学者として知られており、161年に40歳で

皇帝を継承しました。この時、同じく先帝の養子で弟にあたる

ルキウス=ウェルスを皇帝と同じ権限を与えていたので形式上ローマで

最初の二人皇帝制でした。


哲人皇帝

ストア派の哲学者が皇帝になったということで哲人皇帝

言われていました。

また「自省録」という著書もあり、皇帝となってからも人間としての

生き方を忘れず、絶えず自らを顧みることを続けた皇帝でした。

戦争に苦しむ

マルクス=アウレリウスが在位している頃は東方にあるパルティアが

再びローマに対して反抗するようになり、アルメニアに侵攻してきました。

同僚皇帝であるルキウスに大軍を率いさせて討伐にあたり、165年に

クテシフォンを占領し勝利をおさめました。

しかし、多くの戦利品と共に疫病も持ち込んでしまい、これが急速に

拡大したことでローマは恐慌に陥ることになりました。

また、パルティアとの戦争中にゲルマン系の諸民族が隙を突いてローマ領属

パンノニア(ハンガリー)に侵攻してきたことでマルコマンニ戦争

勃発しました。

この戦争は166〜180年の14年に渡って続き、途中同僚皇帝のルキウスが

死去、マルクス=アウレリウス帝も180年にウィンドボナ(ウィーン)にて

死去しました。

後継者であるコンモドゥスは戦争を終結させることを決心し、

講和を結んだことで長きに渡る戦争は終わりを迎えました。

唯一の失政、黄金期の終わり

マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝は、それまで続いていた人物本位

に人物を選び養子として次期皇帝としていた流れを断ち、実子の

コモンドゥスを後継としましたが、マキャベリ曰く、コンモドゥスは

「獣のように残忍な心の持ち主で、皇帝の品性にそぐわぬ数々の下劣な行為

に走った」という賢帝の実子とは思えないボロカスの評価をされており、

遊興に耽り、乱脈な政治を行ったことで信頼を失くし、親衛隊に裏切られ

暗殺されました。

そして黄金期は終わり、3世紀の危機と呼ばれる混乱期に

突入することになります。





セウェルス朝とカラカラ帝


コンモドゥスが暗殺された後、各地で皇帝を称する者が続々と現れました

が、その中からアフリカ出身のセプティウス=セウェルスが覇権を握り、

193年に即位しました。

その後セウェルスの子、カラカラが帝位を継承し212年にはアントニヌス勅

という帝国領内の自由市民にローマ市民権を与えたり、巨大な公共浴場を

建設しました。

ローマ市民権の拡大は一見良さそうに見えますが、当時市民権のない者は

相続税を払わなくてよかったことから、彼は単に相続税収入を増やすために

与えたとも言われています。

そんなことを言われてしまう要因としてカラカラ帝は、ローマ皇帝の中でも

屈指の暴君とされており、帝位独占のために弟を殺したり、その他数々の

残虐行為を行なっており、パルティア遠征中に部下の近衛兵に

殺害されました。





3世紀の危機


セウェルス朝は内紛続きで、皇帝暗殺も度々起きていました。

そして235年、セウェルス=アレクサンデルが暗殺されたことで

セウェルス朝は幕を閉じます。

このような混乱から「3世紀の危機」と言われるようになります。


軍人皇帝時代


セウェルス朝が終わると、軍人が軍団に推されて皇帝になるという

軍人皇帝時代に突入します。
彼らの地位は軍隊の意向によって左右され、暗殺もよく起こったことで

285年にディオクレティアヌス帝が即位するまでに18人も皇帝が入れ替わる

事になります。

この時期を経て、ローマ帝国は民主政の原理の上に立っていた元首政の時代

が終わり、後半の専制君主政の時代に移行することになります。


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