見出し画像

自分の中のバランスをとるために、非難をいちど、吐き出してください。【物語・先の一打(せんのひとうち)】21

顔を殴られたら、あざが紫から黄色になって消えるまで、一週間はかかるだろう。安春は奈々瀬の意向を確認した。

学校は休む。
家には帰りたくない。
近所からの登校は視野には入ってない、イメージがわかない。
今の学校には愛着はあるが、あの家でがまんするかどうかを考えると、家にはいないほうがいい。少し長い間がまんしすぎたことに、うすうす気づいた。
転校先をさがしはじめたい。
四郎のそばにいたい。高橋さんを相談相手にしたい。

……という意向を。

「わかった」

安春の中では「高校卒業までがまんしなさい」という強い指示命令が口から飛び出そうになっていた。
奈々瀬には言っていないものの、高橋と長い長い時間電話で話しあったとおり、やっとのことで表現を変えた。

「今から言うのは、合意されてないお父さんの価値観、お父さんから奈々瀬への発言だから、ある意味価値観の押しつけだ。テーブルの上には置くが、耳にも心にも取り込まないようにしなさい。では、言わないと私がおちつかないから、言うよ。言い終わったら、私も少し違うとらえ方をできるといい。

……あそこまで受験勉強して入った高校だ、なんとか三年間我慢できないか。家で小競り合いがあったって昼夜すれちがうようにして、今までなんとかやってきたんだから。娘が家を出ちゃうなんてことになったら、とにかく外聞が悪いんだ。私だって仕事じゃあ燃え尽きたようになっているが、今のままなんとか引きずって行けないもんだろうかと工夫しているんだから。だいたい四郎君の近くに行くなんて、現実離れした夢物語もはなはだしい。勉強なんか手につかなくなって、大学受験をあきらめちゃったらどう責任取るん……」

言えば言うほどヒートアップしそうだ。安春はぐぐっとこらえた。
そしておそるおそる、「言い過ぎなかったかね? だめだよ際限なくヒートアップしちゃうよ。それも本当に自分のひとり勝手な価値観だし、通常の自分の意見よりもっと、おかしいぐらい頑固だ」と四郎と高橋と奈々瀬に確認した。三人はそっと、黙ってうなずいた。

高橋が言った。「奈々ちゃん、受け取らなかったね? この人はそう言わないとマインドのバランスが保てなくて体から外に出してるにすぎない。今までがまんしてきたことを、損切りできずに折り合いをつけられずにいる間は。
おちつくまで、心にもないほどの頑固さで、他者を引き合いに出さざるを得ないんだ。そういう流し方、できたね?」

奈々瀬はだまってうなずいた。
父親が急に、ひとりの人間に見えた瞬間だった。

「安春さん、僕らへの非難も、テーブルの上に出してください。安春さん自身が、奈々ちゃんが生まれて奥さんの同居人数限界を超えて以来ずっと、慢性的な精神疲労をしているはずです。人間の本能として、自己肯定感がすっかりなくなってしまった人間は、バランスを取り戻すために、他者を非難し傷つけずにはおれません。
どうぞ。僕も受け取らずにテーブルの上に置いておきますから」

そして口をいったんひき結んでから、くぎを刺した。

「僕らへの非難は、僕と四郎をワンセットでお願いします。僕は四郎の親友として、たった今安春さんに不許可と言われることをあえて表明した四郎をねぎらってやりたい。

こいつは母親のおなかにいるときから、恐怖と不安まみれの環境でメタメタにやられて、十九年間生き延びてきた。自分の意見を持ち、自分の夢を語るなんて、どんなに自分と向き合って準備したって、普通こんな傷だらけの人間にはできません。失望したら、否定されたら、傷が痛すぎて死んでしまうかもしれないから。
生き延びるために自己肯定感も自律心も投げ出して、親と取引するんです、毎日毎日。
すると夢を持つ資格もないと思い込むぐらい、自分を切り刻んで親にさしだすんです。服従して依存するので愛を下さいという構えを強化しつづけるんです。

で、今死ぬほどのチャレンジをしてのけたので、脂汗出そうなぐらい固まっている。勇気がある、男らしいやつです。
安春さんに何をしてほしいかというと、僕らへの非難は ”君たち” というくくりで、僕にぶつけてください。四郎と奈々ちゃんがつきあう恋の相談係は僕。と三人のあいだで決めています。
本能的にやって大丈夫です。どうぞ」

高橋はなんとなく感じていたのだが、情熱的なのは安春の妻というよりも安春なのだった。どうして法曹界、それも裁判官を志してしまったのかなと思うぐらい。

安春の、実の娘への執着心は、一時期どす黒いほどだった。今もって皆無ではない、人一倍強い。それを四郎に浴びせられたら、たまったものではない。受けて立つ。

奈々瀬には「テーブルの上に置いて、耳や心に取り込まないように」と言っておきながら、高橋はなぜだか体を張って安春の前に立とうとしていた。

「照美くん、スタンスが妙だよ。まるで暴走牛を止めるときみたいに、両手をせいいっぱい開いて、私の前に立ちはだかってる。半分意識的、半分無意識」

「どうも、こうしちゃうんです」高橋は両腕を頭の上で交差させた。「クセだな」
灰色の背広の、それは大きな鳥のようにも見えた。

「明らかにクセだよ。おばさんをご両親からかばった動きと同じなんだと思うよ。だいたい君たち、一人は性虐待のサバイバー、もう一人はぎゅう詰めにご先祖さまの不浄霊をわんさか詰め込まれた暴力虐待のサバイバー。よりによってどうしてうちの娘に、そういう……」

安春は自分の言葉をぶった切った。そして高橋に確認した。「……ひどいこと言いそうだよ? 大丈夫かな? というより自分でも、こんな言葉を思いつくのが恐ろしい」

「どうぞ。
ハラスメントの現場には、何度か居合わせています。自己肯定感がなくなって土俵際に追い詰められた人間は、安心感を回復するためだけに、暴言をふりまわします。そして相手が傷ついている部分を本能的にかぎつけて、まさにそこをえぐります。そうでないと自分を取り戻せないと感覚して。自然界の弱肉強食の本能のようなものですから。
特に安春さん、職業柄、だいぶ情熱に反するがまんを強いられました。ずたずたでしょ」

高橋は、文字通り四郎を背後にかばい、自分が安春に直接対峙しているのを感じていた。
「かばうからつながっていて、お願い」というむなしい取引なのだろうか。
こういう形の依存なのだろうか。

祐華おばさんがそれによって一層ダメになっていったとしたら、自分は四郎を二の舞にするわけにはいかない。
これは、悪い癖だ。生きている充実感を一瞬感じてしまって、やめられない嗜癖のようなもの。けれどもこうしてしか生きられない……いや、ほかの方法が取れないわけがないのに……

「いいや。だめだ。照美君、こりゃ私の歯止めがきかなくなるよ」
安春はいらいらと手をふった。
「私より四郎君より、ケアを買って出る人間がいない分、男性被害者だという分、君の傷もとても深いよ。人の不安感のはけ口になるのはやめたほうがいい。
私も身体情報は読めるから、ダメージはわかる。
私も自分を保つのにギリギリではあるけれども、君と四郎君を非難しはじめたら、もう制御がきかないことぐらい想像がつく。やってしまったあとの深い深い脱力感も、たがが外れてしまうことも想像がつく。

……人間はどうして、本能的に相手の弱いところを察知してしまうんだろうね。野生動物と同じ仕組みを、人間になっても持ってるんだね。それを食う食われるでやらずに、心理戦でやろうとする分、人間は恐ろしいんだね。

今、私が君をえぐろうとしたのはね。

加害者がおばさん、被害者が小学生男児の君っていう図式は、みんなにニヤニヤされて終わりだろ? という、まさにその点だよ。
何が起こったかわからないまま被害に合い、やがてうすうす知る。そしたらこんどは、相手や親や家のダメージを恐れて、ごまかしたり訴えを引っ込めたりを強いられる。被害者が、笑ってすまされてセカンドレイプに合う。自分もそれぐらい笑ってすますことができないの? と聞かれて、ことの矮小化と無理解に愕然とする。それなりに気持ちよかったんでしょ、楽しんだんでしょ、とまで言われて、被害者ではなくて共謀者であるような取り扱いにずたずたになる。

まさに集団の認知的不協和解消の生け贄になってしまう、その点だよ。

私も古い世代の男だ。そのぐらいの丸め込み、平気でやってしまう」

聞いている高橋は、やはり安春を正視できなかった。机に両ひじをつき、額をつけてうつむいていた。

「……ご配慮、ありがとうございます」

しぼりだすように、そう言った。
ところがこんどは、安春が止まらなくなった。

「……よりによってどうして君たちみたいに傷だらけの負け犬どもが、よってたかってうちの娘に蠅みたいにせせるんだ。ぐらい、平気で思いついて罵倒してしまう。ちょっと人間関係上、取り返しがつかなくなりそうだぞ」

「はあ」

(くうっ。結局言ってるし)高橋はかすかに涙ぐんだ。

「痛い。しかし、自分で自分のことを傷だらけの負け犬と思っているから痛いんだということは。そこはわかっています。僕の自己肯定感を何とかするほうが先であって、傷を修復しない限り傷を狙われるのが野生の掟であることはわかっています。僕は少なくとも、メタメタにやられた子供時代を持っていたって、勝負から降りる気はさらさらない。自分の面倒は自分で見つくして、なんとしても社会参加をしてのけてやる。そう思っています」

「自覚してるんだろう、到底勝ち組には届かない」

(痛ってえな! さすが身体情報読みだ)高橋はうなずいた。
「どれだけリカバリしたって、子供時代にメタメタにやられなかった奴らには追いつけない、そう思ってます。彼らは自分の意見が言える。コミュニケーションにさほど苦労しない。あの人たちが持っているものに追いつくには、体の傷なら癒えるけれど、脳の傷はどうリセットリカバリすればいいのかわからない。スタートダッシュと途中の走りと、両方が成りたたない以上、どんなに努力したって無駄」

四郎の手が高橋の背にそっと置かれた。「と、弱気になる日もあります」……とてもいい声で、四郎は語尾を持って行った。

そして安春に向かってつづけた。

「奈々瀬も、お母さんとの間柄をずっとがまんしておった子やで、ほかのもっとええ人と幸せになる前に、俺、試行錯誤やろうけども、そこをなんともなくなしてあげれたらええなあ。と思ったりします。お父さんどうやろうか」

安春は大きく大きく、ため息をついた。「ほかのやつと幸せになる前に、ねえ」そして情けなさそうに笑った。

「四郎君はリハビリ担当、というわけか。三人で傷のなめあいをしてグダグダになって終わり、は男親として承服しかねるよ。だけど確かに、奈々瀬は四郎君や高橋君みたいな、複雑な男を好きになるんだろうな」

そして言った。

「娘を傷つけることは許さない。傷物にもしないように。そこは言っておく。ばかな男親の遠吠えだと思ってくれるかな」

「大人の意見やと思います」四郎はその怖い目で、一瞬安春を見て、目をとじて答えた。「確かにお約束、お預かりしました」

安春は戦慄した。この子は、三歳で切腹作法を習った、武士の家の子だった。重たい約束をさせてしまった、本気で守ろうとしたらその果てがどうなるかわからない。「待て四郎君、約束はしなくていい。遠吠えは真にうけないことだ」

「うわー今度は俺のすわりがわるいて」四郎は引いていた脂汗が出なおすほど、苦しそうな表情をした。「俺の中の規範感が、きっつい」

あわてて高橋が安春に聞いた。「いったん解散しますか、夕ごはん、ご一緒されますか」

「晩飯は怪しいから、いったん帰るよ」安春は答えた。「バカな男親の遠吠えは、真にうけなくていいが、もう一個だけ」

いじらしいな。高橋はそう思った。安春はつぶやいた。

「くれぐれも、軽はずみなまねのないように。というか奈々瀬、今日はどこか泊まる先を考えてやるから、いったんこっちに戻りなさい」

奈々瀬は黙って、指でバッテンを作った。


(この、わからずやの強情娘)安春は内心はらわたが煮えくり返るような気分を味わった。(痛い目みてからじゃ遅いんだ、どこまでバカな子なんだ)
普段、自分の思うとおりにしなさいなんて物分かりのよさそうな言葉をかけていても、いざとなるとこれだ。安春はぎりぎりと歯噛みをした、自分にも、奈々瀬にも。

「宿泊は、充分に身の安全と、軽はずみなことのないように、責任をもってお預かりします」高橋がテーブルに両手をついて頭を下げた。


「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!