見出し画像

画家と美少女とそれぞれの技能【物語・先の一打(せんのひとうち)】61

――オトウサンニホメラレタクテ磨ヒタ技能デアリマス…

父と二人でむやみに磨いてしまった「身体情報読み」という技能を持て余す自分。
まさにその技能を、他者の人権を守るために使うことができている、という誇らしい瞬間であることに、奈々瀬はこのときまだ、気づいていなかった。

あまりにみじめな気分になる敵中突破を、貫き切ってしまったから。

……どんなにすぐれた能力を練習の果てに開いていたとしても、当事者として嵐のように巻き込まれている現況を、実況で客観化してのける能力なんて、ほぼ誰も自前で持ってはいないから。

人はどうして、技能の到達した先に、いつも満足な心が、待っていてくれないのだろう。
どうしていつも、ちぐはぐな絶望や自己嫌悪と、技能のやりきりが、セットになって、

もう、にどと、いやだ  !

ーーそんな気分を味わわなければいけないのだろう。どうして大脳と体は、互いにこんな酷な殺し合いをするのだろう。
奈々瀬は震えながら泣いた。

なみだを、とめたい、と思った。
涙はいっこうに止まらなかった。

奈々瀬は震えながら、泣き続けた。
高橋はただ、ただ、黙って、駐車場に停めた車の運転席で、隣にいてくれた。

パフェ。果物屋にはパフェがある。奈々瀬は勝手に包帯をまかれて勝手に心臓を取り出されてしまったエジプトの若い王女みたいに、まだ動悸の収まらない震える体を「く」の字に折って、車の助手席にいた。「く」の字の恰好で、メロンとマンゴーの華やかなパフェののぼりとポスターを絶望まみれの視線で見上げた。

「だいじょうぶ?」と、高橋はまだ目が充血したままの奈々瀬に、そっとたずねた。
「だいじょうぶって言いたいけど、もう、ふらふらのぐらぐらです。生クリーム食べたら、吐きそう」

「やめとく?」
「待って、待って、やめるのやめて。こんな素敵なチャンス台無しにしたくない!」

「深呼吸しようか」
高橋はそっと、奈々瀬の肩を掌で触れた。

ふいに、高橋の脳裏に、無作為に映像記憶が立ち上がってきた。
どこかのファストフード店の店頭で見た、入院病児のための家族滞在ハウスの募金箱の写真の、子供の手が、お母さん役の女性の肩を握ったりさわったりせずに中空にかぎ状に固着した、その映像がフラッシュバックした。
奇妙にねじまがったそのみずみずしい皮膚のかわいい小さな手は、ほんとうの親ではないから首肩は持たれたものの手だけは安心してさわれずに奇妙にねじまがっているのか、ほんとうの親をつかみたいのに麻痺や形のふつごうに耐えている症状の手なのかがわからない、という不安なサインを、高橋にダイレクトに語ってきていた。

あの仕事をしたデザイナーやカメラマンが、ちいさなちいさな子供の手に「病(やまい)」を語らせる意図をもってそれを選定し写したとしたら、高橋はそいつらに出会うチャンスがあったとき、必ずそいつらを殴りたくなるだろう、という確信があった。

人の殴り方を知らない自分だ、けれども。

ゆるせない。よくもそんなことを。
……と、当時の自分の瞬時の反応は言っていた。
そして、事情を聴いてはいないのだから、多分それは自分一人の憶測で、事実とは触れ合っていないのだった。
今なら、撮影意図とモデルの選定に秘話があるのではないか、と推測することもできる。


高橋はとっさに、自分がその子供の手をかりて、奈々瀬に触れているような、そんな触れ方をした。


断じて若い男の、若い男の欲望をのせた自分の手が、この女子高生に触ってはいけない。
自分の手が自分の所有感覚でこの女子高生にさわったら、自分は四郎から初恋相手を奪い去ってしまう。それをしたら自分は正気で生きてはいられない。来る日も来る日もこの子にずぶずぶとめりこんで堕落して、きっとこの子を題材に、処女と非処女とおんなとオンナと美人画とを、十年も十五年もかけて正気を失いながら描いて描いて描き続けて死ぬだろう。

それで三十六歳で頓死する……満足しながら。

あとには人生を狂わされた奈々瀬と、孤独なまま受刑者にでもなっている四郎が残されて、しあわせだったのは高橋ひとり、というコストパフォーマンス面で最低な合計値を、時間の波が砂時計の砂を海水がさらっていくようなあたりまえさで、さらって去っておわるだろう。

さわってはいけない。あの子供のいびつにねじまがった手は、お母さん役の被写体をぺったりさわったりしない。プロの画家である高橋だけが、その映像事実に戦慄している。ほかのみんなは、なにも見てない。

みんな なにも いわない  。

さわってはいけない。自分自身の雄の意志がまっすぐのった手が奈々瀬をさわったら、高橋は四郎にとっての康おじと全く同じ正当化を嬉々として始めてしまう。自分自身が大切にしていた親友と、親友の彼女、二人の心と体をぐじゃぐじゃに踏み壊して、自分の体の反応に後づけの言い訳をつけはじめる。

それをする自分が嫌いだ、だからそれをしない。

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!