子の刻参上! 一.あけがらす(十一)
「お戻りなされませよ」
軽衫袴姿に着替えた狐がささと歩いてきて、益田に一礼し、そう言った。
「宿がいちばん、であろうか」
「にて候」狐は会釈をした。防諜もかんがえあわせて選んだ宿である、という念押しだ。
「ときに、きつどんはどこの里のおひとなんで」
次郎吉のたずねに、即座に益田は答えた。「甲賀だ」
「へえ」
次郎吉はさらにたずねた。「甲賀の、どのへんで」
「このへんだ」
と、いいながら、狐は唇にひとさしゆびをたてた。
宿、と益田が言ったのは、次郎吉がつい先日から魚屋のあるじのていで過ごしている魚商和泉屋の、その離れのことである。
お店(たな)丸ごと、番頭、奉公人、先代夫婦一同、しごくまっとうな商いをしている。先日の挨拶まわりで、「よそへ奉公させておりました甥坊を呼び戻しまして、あるじに立てまする」と、店主夫婦が出入先にも近隣にも口上を述べ、次郎吉はただ後ろで後をついで挨拶をしていたにすぎぬ。
したがって表口勝手口蔵、すべてがなんとも磯臭い。どきどきするほどの生臭さのなかで、鼻の良い次郎吉は、どんどん息が浅くなっていくのだ。
そのなかで、離れだけは……
息がつける。かろうじて。
「やれやれだ。……きせるをやらせてもらいやすよ」
「それがいい」
次郎吉は箱枕を首元にかいこんで、ごろりとくつろぐと、煙草盆を手元にひきよせた。
「若様は、気にかかっておいでのことを、お話しなせぇ」
「うん」
うん、と言いながら、しばらく益田は次郎吉のくゆらす煙管のけむりを目で追って、話し出さずにいた。
「わたしの曾祖母の兄者が、とある戦に敗れてな」
ようやく、そういった。
「わけあって、どこへ陣を置いたか、寄せ手はどう寄せたかなどの検分を、図面にすることができぬ。
じゃによって、将棋の駒を置いたり、碁石を置いたり、小間物を置いたりして何度か検分した。
……のだが、どうあっても、はなから負けると決まった戦じゃということは明白」
次郎吉は合いの手をうかつに入れぬ。しかし、もはや煙管を吸いもしないで、ただ煙草が灰になっていく。
「わかっているのはただ、軍勢が起こるまでにさんざんな目に合わされておって、おおそれながらと訴え出る先がどうにも見つからぬことなどが、戦になだれこんでしまったわけのひとつじゃろう、ということだ。
戦の端緒、ひとどもが打ち殺しに及んだきっかけは、なんともむごいものでの。
庄屋の身重の嫁が水につけられたままお留め置きの挙句、水の中で赤子を産み落として、ははこ、ともに死んでしもうたのだ。
して、それまでに数え切れぬほどの人数(にんず)が、蓑を着せられてそれに火をつけられて踊り殺されるだの、救いようのない目にばかり合わされておった」
次郎吉の煙管からはもはや、煙が上がらなくなり、しかたなく次郎吉は、灰が中でヤニつくよりは、と、きせるを盆の端でコンとやった。
「ちょいとお待ちを」
「うん」
「その……乱、甲賀衆はお敵(かたき)のほうではなかったですかい?」
「そうだ」
「なぜ、きつどんは」
「じっさいに城へもぐりこんで深く様子を知っているものから、見たり聞いたりしたことを伝えられているので、私が頼んだのだ。百八十年もむかしのことであるばかりでなく、お上をあらんかぎりゆさぶったゆゆしき出来事であったがゆえに、調べ書きも手がかりも、まるでないのだ」
「よく、お苗字を名乗るお許しがでたもんで。ご一族、みなごろしと聞いておりやすよ」
「うん」益田はほほえんだ。「ぬしにためしに益田を名乗ったが、私は、鈴木の名字を借りて町方で育ったのだ」
「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!