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こんな私が60年も生きてしまいました

「こんな私が60年も生きてしまいました。あなたのために何かしてあげることがそのままお母さんの喜びであるので困った時があったら言ってね。あなたに迷惑かけないように努めますね。」

今年還暦を迎えた母に送った、誕生日おめでとうメールに対する返信だ。大学生ぐらいから薄々気づいていたのだが、母は人生を悔いている。私を含めた3兄弟に対して、申し訳ないという懺悔の気持ちで満たされながら生きている。

私が小学校を卒業する少し前、母は離婚した。実際にはその数年前から父とは別居のような形になっていたので、私の中では、物心ついた頃には離婚していた気がするのだが。

そのころの我が家は憎しみで満たされていた。母は父を心底嫌っていた。嫌いすぎるあまり、父と目を合わせないように家の中でサングラスをしていた。すれ違い様に体が触れてしまった時などは悲鳴をあげていた。まだ幼かった私も、この姿だけは理解できなかった。なぜここまで人を嫌いになれるのだろう、と。

兄と姉は思春期真っ盛り。包丁を持ち出して喧嘩をし、酷い時は警察を呼んで止めてもらったこともある。

この頃から兄はゲームにハマり、今に至るまでニートである。一応大学は8年かけて卒業したが就職せず、今も実家でゲーム三昧の日々を送っている。ゲームにハマる前の兄は、オール5の成績を取るような大変優秀な生徒だったらしい。だからこそ、母は悔いている。優秀だった兄がこうなったのは、私のせいだと。

そんな家族と実家が嫌で、私は就職してすぐに家を出た。しかも関東から九州へと、かなりの遠出だ。それから一度も実家には帰っていない。そして、今後も帰る予定はない。

姉に話を聞くと、私が生まれてから数年まではそれなりにうまくいっていたらしい。私は姉・兄と、9・10歳差なので、少なくとも10年以上は、家族としてうまくいっていたのだろう。それがどこかのタイミングで歯車が狂いだし、家族はバラバラになり、優秀だった兄は壊れ、一番下の私は実家を離れて帰ってこない。そうなったのは母である私に、責任がある。おそらくそう思っている。

だがその思いからか母は懸命に働き、私を含めた3兄弟全員を全て私立大学まで通わせた。しかも私たちに奨学金を借りさせることなく。朝6時過ぎに起きて家事をし、毎朝8時頃家を出る。そして21時。時には23時すぎに帰宅し、そこから食事等の家事全般を日付が変わる頃まで行う。就職して一人暮らしを始めた私は思う。

母は偉大である。とても真似できない。

正直母にどう声をかけていいかわからない。実際に母の性格が、家族崩壊の原因になったと考えられる面は確かにあると思う。父への拒絶で垣間見れるように、思い込みや被害妄想が激しい面があるからだ。ただ離婚後、女手一つで3人の子供を大学まで卒業させたのは、並大抵のことではない。その凄さは就職して一人暮らしをし、自分の生活費を全て自分で賄うようになってからいっそうわかるようになった。今の私があるのは、間違いなく母の並々ならぬ努力のおかげだ。それでも、私は実家に帰ろうと思えない。あの家族が壊れていく日々を思い出したくないから。あの壊れた家族を見たくないから。

母は悔いている。「こんな私が60年も生きてしまいました」という文言を、実の息子に送ってしまうほどに。

私は悔いている。「もっと長生きしてね」という文言を、実の母に送れないでいることを。

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