僕がNOTEを始めた理由

NOTEは僕にとって、机の上に置いたまま忘れていた日記のようなものだ。

誰に見せるでもなく、でも誰かに伝えたい日々の思考を綴るもの。
時に書きなぐり、時に整理し、時にすべて消してしまいたくなる。
誰の目にもふれず、でも偶々誰かが偶然目にすることを望む。
そんなアンビバレンツな、若い日の自分に戻ったような場所。

40を超え、いつしか、たった一つの言葉さえも誰かの顔を気遣いながら絞り出すようになった。
実社会と紐づいたSNSは、今や社会へに帰属するためのパスポートのようなものだ。
自分の発信する言葉、写真、シェアするリンクが、公に生きる自分という殻を作る。
そうして、ワタクシとしての自分は鳴りを潜め、オオヤケに求められる姿をなぞるような自分がいた。

人はいつだって”何か”に隷属している。
子供のころは親や大人の、自立してからは社会や会社の。
そしてその本質が、「社会的評判」や「お金」や「健康」や「承認欲求」という、正体のわからないものであることに気付く。
多くの”社会的地位のある方”を見てきたが、彼らもまた同じだ。
政治家は民衆の、社長は消費者の、メディアはスポンサーの顔色を窺い振舞う。
私たちと同じ隷属関係。
どこまでいったって、この世の中は曼荼羅のような、フラクタルな仕組みに取り込まれている。

SNSは、このフラクタルで曼荼羅のような関係性を視認させ、透明性を加え、増幅させるツールだ。
多分、僕がSNSから距離を置きたくなったのは、そんな理由からだろうか。

匿名という殻をかぶり、自分という公器を取り巻く諸々を気にすることなく、日々気付いた事をしたためる。
そんな、当たり前のような、でもとても眩しい時間に向き合うことが、次の10年を生きていく糧になるにちがいない。

2020年1月。
コロナ禍にあえぐこの日本の片隅で、僕は日々の綴りを残そうと思った。

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