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絶淵体

難しいな。

全部。理解できないことだらけだ。
毎日触れてるはずの言葉、文字、音、時間、心。


心がつぶやくのをやめないから痛いのだろうか。

分からないな。


不安だ。


風になった。夜。静かな夜。

川沿いを自転車で下る。
風も心地よかったけど
なんだか音が聞きたくて停めた。

動く水の音。


でも、そこは狭い道。

後ろから車のライトが近づいてくるのを感じて、
急かされるように、またサドルに跨って漕ぎ始めた。


駆ける住宅街。

ここも静かに歩けば、
帰宅した少年のうがいをする音が聞こえて来るかもしれない。

遠くで鳴り響くバイクの重い音。
かき消す。


では、私自身の奏でる音はどう聞こえる。

私の思うところ。

誠実に、誠実な人でいることはできても、
誠実でいる理由は不誠実なのかもしれない。


これは正しいことなのか。


はて、帰結主義の立場からすればどうだろうか。

“正しい”と言えるのは、正しい結果が間違いの結果を上回っているときらしい。

あくまで相対的で、人間には向いてる。

それと理由は隠している。

理由は隠しているし、
そもそも理由の全部を人間の言語と意識で明瞭にさせることはできないと思う。

この答えは死ぬ時に神様に決めてもらおう。

過程も結果も見てくれるだろう。




功績になるわけでもなしに、
こうやって分からない“言葉”に向き合いながら、

分からないなりに“言葉”や音にして日々を生きてるのはなぜか。そうするなかで思うこと。


毎日の目の前が、
人生の中心のように見えて、どれも大事にしたくて。

でも心のどこかでそれじゃあ気持ちが持たないからって、
これができなくても別に何とか生きることはできるだろうって思うようにもする。


ただ結局先なんてわからなくて不安だから、
まずは目の前を大事にするしかなくて、

そこで安心したくて、
へっちゃらな顔でいたくて強がるけど、
でも結局今度はそれが痛くて。


「安心」を叶えた数秒後には、
まだそのページの余韻に浸っていたいのに、
勝手にめくられて次の「不安」を読むことになる。

いよいよ、
感情がしんどくなって周りの伴奏音が消えて、
声のビブラートが際立つ。


欠けた自尊心は毎朝の嘔吐えづく深さに比例して、

その後に我慢して涙目で見開いた目はやっぱり目の前しか見えてない。

最後に自分が吐き出したら終わりだからと、
何とか今日も腹の奥まで飲み戻し。


そうしてお昼ご飯は何かを忘れるかのように、
たらふく食べる。
その繰り返し。

街を歩いているときも虚ろな目。
今ならメガネのレンズを虫眼鏡に変えられて、
集められた鋭い日光で黒目がジュワっと焼け焦げても気づかない。


夜。寝る前、
胸から首にかけて嫌な音の波で刺激されてるような。

それも心の円の中心で波打つから、
その波動を逃がすこともできなくて嫌に揺蕩う。
飲み込むこともできないもどかしさ。


毎日の目の前が、
人生の中心のように見えて、どれも大事にしたい、

なんていったが、
結局絶望とほんの少しの希望の繰り返しの中で、
周りの人たちが死に去っていく日々を見送ることになっているかもしれない。

こんなふうにして、
誰よりも長く生きるのは辛かろう。

食べ物の袋に入っている「たべられません」でおなじみの脱酸素剤が、
まわりの友たちが減っていくのを最後まで見届けてひとりぼっちにされるように。

そして、自分は食べられずに捨てられる。

自分は無価値では無いと自分ではわかっていても、
苦しいのだ。そうだろう。



長くなった。

いよいよこの文章も終わりたい。
視線を外に。開けた窓から見える遠くの建物へ。

外から一羽の鳥が目の前の鍵盤に降りてくる。
40gの体重ではピアノの音も出せない。

これでいい。


軽くなれば空も飛べるし、
地に足をつけても嫌な音は出ない。

また外に目を遣る。


無機質なビル群にもその窓一つ一つの奥には、
充分に踊り狂えるくらいの空間が広がってると思うと、

とたんに聞こえるはずのない軽快な音が聞こえてきた。

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