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愛を伝えること。

今朝のこと。

昨晩に予約スイッチを押した炊飯器の蓋を開けた。

湯気とともに、
真っ白でふっくらとしたご飯が現れた。

とても愛らしかった。
そのとき思わず口にしたくなった一言は、

「元気なお子さんが産まれましたよ。」

炊きあがり、
ほぐすためにごはんを優しくまぜるその様子は、
まるで生まれたての赤子を抱き起こすかのようだった。

我が子を近づいて見ようにも、湯気でメガネが曇る。
前がすっかり見えなくなって笑ってしまった。

よく泣いてた。元気な子だ。



今まであたりまえに食べていたお米が、今日はなぜか、
こんなふうに愛おしく思えてしかたがなかった。

今まで絶えず僕に幸せと恵を与えてくれていたことに気づいた。
この時まで彼らに何も伝えられていなかったことを悔いた。



僕は愛を、悔い残さず伝えられているだろうか。

愛を送る対象は、常に瞬間で生きている。
そして、愛を送る主体である僕も同じ。

音も、味も、匂いも。
空も、花も、あなたも。


2秒後も僕のとなりにいてくれる保証はない。
2秒後も僕がとなりにいれられる保証はない。


伝えたい時に、
そこにはもういないかもしれない。

僕の前からふっと消え去ってしまい、
もう二度と会えないかもしれない。

あなたの前からふっと消え去ってしまい、
もう二度と会えないかもしれない。

だから、その瞬間に伝えなければ。
愛情がわっと溢れたその瞬間。


愛するその対象の、その瞬間の存在自体もまた、
あたりまえのものだと思ってはいけない。

僕らは、大切な存在がそこにいてくれていることに、
いつしか慣れてしまうのかもしれない。

光、水、米。
家族、友人、恋人。


いくら運命論者であったとしても、

“運命”とはそうなるように、そうなったという
“あたりまえ”のことを言うのでは決して無いと伝えたい。

運命なんて授かった「楽譜」に過ぎなくて、
僕らは出会った楽譜たちを奏で続けなければ、
そこに福音を迎えることはできないと思う。

その存在がいくら尊いものだと心では分かっていても、
僕の心が表出した行動として、あるいは声として、
その愛情、祈り、礼讚を鳴らし伝えなければ。


明日の正午にでも、突然病室に呼ばれ、
その時にはもう握った手を握り返してくれる力は、
だんだんと失われてしまっているかもしれない。


もう二度とその声を、
聞くこともできなくなるかもしれない。

あるいは、

もう二度とその声を、
発することができなくなるかもしれない。


あなたが受け取れるうちに、
僕が渡すことのできるうちに。



人へ、物へ、香りへ、風景へ…
枚挙にいとまがないほどある僕らをとりまく、
僕をしわあわせな気持ちにしてくれるものへ、

僕はどんな形態であれ愛を伝えることにしきりにこだわりたい。

見返りを求めているわけでも、
逆にこちらからの何かの返礼でもない。

愛は能動的な営みだ。

でも、愛は評価ではない。
互いに送り合う対象への価値評価の表現ではない。


『星の王子さま』の著者サン・テグジュペリは、

「愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。」

といった。

そう愛は“私”と“対象”の命/存在に、
無限に輝く彩りを与えるものだと思うのだ。


それは溢るる愛のその気持ちのままに煌めいている。

僕は愛に深く優しい人になりたい。




ここで話は僕のことになるが、

おじいちゃんが先週から手術のために入院した。
母方の祖父である。

ほんとは1週間で終わる予定だったが、
2つ分の手術があったのでそれらを一度に行うことは避け、もう1週間延長して入院する事になった。

生命いのちに関わるほどの重篤なものでは無いが、
最悪の場合、うまくいかなかったときには歩くのが難しくなると言われているらしい。


彼は生命力バイタリティに満ち溢れている人だ。
重ねるのであれば、ヘミングウェイの『老人と海』に登場する「老人」のような。

変にいろいろ我慢して生き延びさせられるくらいならば、好きなことをして逝きたいと言う人。

ほんとうにそんな生き様が似合うような人。
怖いもの知らずで、頭が切れて、好奇心旺盛で、自由。

きっと大丈夫だ。

と感覚的にそう思わせてくれるほど強いひとに僕は見えている。


でも、
もしそんな“自由”を体現したような、
いくつになっても好奇心旺盛な彼が、

自由に歩けなくなったら、と頭に描いてしまうと胸のあたりが痛く締め付けら、まぶたが奥から熱をもつのを感じた。




今日は父の日だ。


お父さんとおじいちゃんと3人でお酒をめるとき、
僕はとても楽しい気持ちになる。

おじいちゃんは僕が小さい時からしきりに言ってた。

「いつか、じいちゃんと呑もうな。」
「はやく一緒に呑めるようになるといいなぁ。」


だから、20歳を迎え少しずつ呑めるようになり、
お酒のおいしさが分かり始めたときは嬉しかった。

“お酒が分かる”という嬉しさよりも、
“おじいちゃんとこれを分かちあえる”という嬉しさが大きかった。

だから今日、
再び3人で呑めるようにと、

3人で杯を交わし会えるように、
すてきな酒器を探し贈ろうかと思う。

そして、たくさんの愛を伝え、
むかしおじいちゃんが将来一緒に呑むことを約束してくれた時みたいに、
愛を以てまた将来に向けて、ともに同じ方向を見つめようと思う。

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