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出会って1時間でずっとお別れ

このnoteは「書くとともに生きる」ひとたちのためのコミュニティ『sentence』 のアドベントカレンダー「2020年の出会い by sentence Advent Calendar 2020」の9日目の記事です。


今年のはじめ、近所の銭湯が閉店した。閉店するという情報をSNSで知って、営業最終日に、初めてその銭湯に行った。

こういうときに「寂しい」なんて言葉を自分が使っていいのか、よく悩む。都合よく感傷に浸ってはいまいか。利用していないか。でもやっぱり正直に、その町に長年あった銭湯が閉まってしまうのは、とても寂しい。うまく説明できないけど、この感覚はうそじゃないから、そう言う。

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「コミカ風呂」というのは、昭和後期にとある風呂施工業者が手がけた浴室の愛称(というよりは商標?)で「コミュニティ+ミニカー」の略語だそうだ。ミニカーは、当時「スーパー銭湯ほどではないが、いろんな種類の風呂がある銭湯」の呼称だったらしい。絶滅危惧語ではなかろうか。

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謹賀新年、今年も宜しくの挨拶の下に、閉店のお知らせ。不思議の国のアリスみたいな並びだ。そして休業ではなく、閉店。まあ、銭湯においては実質ほとんど同じ場合が多いのだけど、オブラートに包まれてない分、直接刺さってくる感じがする。使っておいてあれだが、「オブラートに包む」って比喩、そろそろ代替の表現が生まれてきてもいいのではとも思う。

浴室の内装が特徴的なのだけど…こういう時に自分の描写力のなさを悔やむ。入って真正面にあたる風呂側の壁が好かった。下半分はテトリスの横棒をさらに潰したような細長い岩が、定規が差し込める程度の隙間を上下に残しながら敷き詰められている。上半分は、大小様々な正方形、長方形のタイルがはめ込まれていて、そのいくつかには日の丸や青丸のカラーストーンがででんとはめ込まれている。「モダン」というフレーズが市井で流行り言葉として使われていたご時世の、まさにそれといった趣きを残しているデザイン。これはここにしかない、かけがえはない。なくなってしまうのは、うん、やっぱり寂しい。

他の文化的な建造物に比べたら、「残すほどのものではないだろう」と言われるかもしれない。生活に根ざした文化的遺構は、一つひとつがあまりに小さく慎ましく、世の移り変わりの影に、得てして静かに消えていく。残すほどではないだろうと、ぽつりぽつりといなくなって、そのうち全く消え失せて、後からみんなぐっと寂しくなる。価値ってなんだ。希少になったら慌てて付けるのか。後付けじゃないほんものの価値ってなんだ。誰かの大事、時間の積み重なり、場所に刻まれた記憶資産は、市場のものさしで計り知れない。

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帰り際におかみさんに呼び止められて、「もうこんなんしか残ってないけど、よかったら持ってって」と、ボディソープを渡された。売りものだった石けんやタオルなんかの在庫を、ほかのお客さにも配っていた。あ、ほんとに明日はココやってないんだ、という事実が左手に軽くズンとのしかかる。もあっとした熱の塊が腹から逆流してきて、でも全部ごろごろしたままでノドにつかえて、出てくるのはボソボソな「ありがとうございます、ありがとうございます」だけだった。もう少し気の利いたことが言いたかった。少し話が聞きたかった。ふがいない。勝手に恥ずかしくなってそそくさと外に出てしまった。伝えたい思いに言葉が追いつかないことが多い。

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忘れないように、せめて書き残しておく。もうここには行かれない。でも確かにそこあった町の、わたしの記憶。感傷だろうとなんだろうと、確かに関係を持った記録。



より佳く生きていこうと思います(・ω・)