教養がわからない僕と読書
教養とは何か。
そんなことを考えると大学時代を思い出す。
大学入学当時、僕はバイトもせずに哲学書を読みふけっていた。
でも、その当時の僕に「教養」という言葉はなかった。
ただ朝起きては哲学書を読み、昼寝しては哲学書をパラパラめくり、夜更かしをしては哲学書に線を引いていた。
タバコを吸って哲学書を読む傍らに大学に通っていたようなものだ。
そんなに小難しい本を何冊も読んでいた理由は何か。
それは自分探しだった。
この難しい本たちの中に自分の存在理由があるのかもしれない。
難しいこの本たちを理解できれば哲学者になれるかもしれない。
そんな一縷の希望を抱えて、煙草を根元まで吸いながら哲学書に向き合っていた。
文字の世界を泳ぐ
その当時、住んでいたのは埼玉県の朝霞市。
六畳一間の1Kで、張り替えられたばかりの白い壁がきれいな部屋だった。
窓からは何の変哲もない住宅街が広がっていた。
住んでいた当時は自衛隊の基地がある町なんだと思うぐらいで、牛丼屋もファミレスも当時はなかった。
その代わりにあったのがテイクアウトができるピザ屋と明け方までやっているラーメン屋。
僕は腹が減ってはそこに通いながら、哲学書を読んでいた。
特に繰り返して読んでいた2冊がジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』とアンドレ・コント=スポンヴィルの『ささやかながら徳について』だった。
『ジェンダー・トラブル』は、ジェンダーとは言語で構成しているものだと教えてくれた。
『ささやかながら徳について』は、人間はどう生きるべきかを教えてくれた。
そんな知識を吸収しながら、僕は太っていった。
本を読む以外、ピザとラーメンを食べていたのだから当たり前の話である。
頭も身体も太っていった。
性とは何か、徳とは何か、人間とは何か。
僕は文字の世界を泳いでいた。
六畳一間の狭い部屋で文字の世界におぼれていったといっても過言ではない。
結論を言えば、本の中に自分の求める答えはなかった。
本は新たな知識と思考方法を身につけさせてくれるが、自分のことを「何者か」とは認めてはくれないし、教えてくれない。
だって、本は意識のない物質だもの。
自分のことは自分で存在理由を見出すしかない。
単純なことではあるが、哲学書から得た最高の知見だった。
樹の根元で嘔吐することもなく、外を歩いていると、近所の整骨院でアルバイトを募集していた。
なにをするのか仕事内容も確認せずに、履歴書を持って翌日には整骨院に飛び込んでいった。
書を捨てよ町へでよう、である。
しかし、半年ほど整骨院でアルバイトをしたのち、バイトを辞めまた僕は本の虫になっていた。
哲学書からハードボイルドへ
今度はハードボイルド小説だ。
哲学書も並行して読んでいたが、それよりも次はハードボイルド小説に興味が移った。
このジャンルの小説を読み始めたのは、大学に入学して文学系小説のサークルに入ったからだった。
それまで見向きもしなかった小説というジャンル。
そこには常に解決という答えが書かれており、そこがたまらなく面白かった。
謎があり、それが論理だって解決されていく。
時には暴力だって辞さず、暴力で論理を捻じ曲げ、真相をこじ開けていく。
そんなハードボイルド小説に段々とはまっていった。
とくにお気に入りは西村寿行と花村萬月だった。
そんなハードボイルド小説にはまりながら、本をどこで買っていたかといえば古本屋だった。
テイクアウトできるピザ屋の前に小さな看板も出さない古本屋があった。
商売をする気があるのかどうかわからないおじさんが、いつもそっけない態度でレジを打っていた。
古本屋で小説を100冊も買った頃だろうか。
「おにいさんの家にある本、売らないかい?」
唐突に店主が話しかけてきたものだからとても驚いたのを覚えてる。
田舎育ちの自分には、自分が読んだ本が売れるのが不思議だった。
提示されたのは今まで古本屋で使った金額よりも安い金額だった。
それでも、今まで買った本をそっくりそのまま古本屋に持ち込んだ。
家に帰ると本を積み重ねてあったところだけタバコのヤニが着いておらず、きれいな白い壁紙のままだった。
本が置かれていたところだけ、穢れのない真っ白さを保っていた。
読書という生き方のエチュード
そもそも教養とは何なのか。
㋐学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。
㋑社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識。(デジタル大辞泉より)
「教養」という言葉の一つの定義ではあるが、残念ながら自分は教養がないようだ。
とくに「心の豊かさ」など全くない。
常に隣の人を見て、羨ましがっている状態だ。
しかし、読書を通して教養は身につかなかったが、生き方を学ぶことはできた。
哲学書の通りに生きれば変人だし、ハードボイルド小説の主人公のように生きれば人生の破綻者である。
生きていくことは何かに折り合いをつけていくことなのだろう。
空は飛べないし、人体錬成もできやしない。
しかし、生き方のエチュードとして読書は最適なものの一つだろう。
本の中なら空は飛べるし、人体錬成にもチャレンジできる。
もちろんシンクロニシティが起きて、本の中で体験したことが実生活で役に立つこともあるだろう。
例えばビジネス書などは、実践すれば本と同じ成功体験を経験できるだろう。
しかし、読書とはそれだけではないはずだ。
読書の最中だけは、何者にも成れない無教養な自分を別の世界へ送り出してくれる。
無教養の自分でも、教養ある人の言葉に包み込まれ、別世界を体験することができる。
全くの新しい経験を体験することができる生き方のエチュード。
それが読書の一つの側面なんだろう
現実世界と本の中の世界。
文字の中に閉じ込められ、足枷をはめられることは不自由ではない。
その足枷を引きずりながら言葉と共に歩んでいくのが読書であり、人生のエチュードとなる。
読書という人生のエチュード。
これから何度エチュードすれば教養が身につくか、自分には見当もつかない。
仕方がないから何度もエチュードをしよう。
教養のためだけではなく、生きるために。
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