深津貴之さんの追求主義についてハイデガーとアーレントとハーバマスで座談会を開いてみた at 酒場ChatGTP
とてもスリリングな「追求主義」という哲学
深津さんの「追求主義」という思想をAIとの創作によって作り上げたのはとても楽しいものであった。それは、知識による掛け算によって出来上がった形であること、そして、「最善を尽くす」という点に辿り着いたこと。深津さんも書いているように、「ニーチェとは違った超人主義」がAIとの対話で生まれたのは、興味深いことです。しかし、それと同時に批判点が見えてきます。
というのも、「追求主義」というのが超個人主義であることです。そして、超個人主義的であるからこそ、人間臭さを消してしまっていることです。さて、ここからはもっとAIに頑張って書いてもらうことにしましょう。
ニーチェの個人主義である「超人主義」について
まずは、ニーチェの「超人主義」から始めることにしましょう。ニーチェの「超人主義」はドイツ語で「Übermenschentum(ウーベルメンシェントゥム)」です。この概念は単純な優越性や超越性を指すものではありません。
Übermenschentumは、人間が自身の可能性を最大限に引き出すこと、社会的な制約や伝統的な価値観を超えることを目指す理念です。ニーチェは、人間が固定された形態や道徳的な規範に縛られることで本来の可能性を制約されていると考えていました。それに対して、Übermenschentumは、個々の意志と能力を開花させ、自己の可能性を最大限に追求することを提案しています。
Übermenschentumは、自己超越と成長のプロセスを強調しています。ニーチェは、人間が現状に満足するのではなく、自己を超えて新たな可能性を追求することが重要だと主張しました。これには、社会的な規範や伝統的な価値観に挑戦すること、個人の意志を重視することが含まれます。Übermenschentumは、自己の進化と成長に焦点を当てた、個々の人間の達成を追求する哲学です。
また、Übermenschentumは、ニーチェの思想における超越的存在への期待を表現しています。これは、人間が現在の制約を超え、新たな形態や存在への進化を遂げる可能性を指しています。Übermenschentumは、人間が自己の限界を超え、より高い形態の存在へと向かうことを目指す、積極的で自己啓発的な哲学的理念です。
しかし、この理念には批判があります。どのような批判があるかと言えば、マルティン・ハイデガー、アンナ・ハーレント、そして、ユルゲン・バーバマスの3人の論点を上げれば十分でしょう。
ハイデガーによるニーチェ批判から「追求主義」への批判
まずはハイデガーによるニーチェ批判があります。マルティン・ハイデッガーは、ニーチェの思想に対して多くの批判を行いました。彼の批判は、ニーチェの個人主義や主観主義に対して集中しており、その根本的な問題を明らかにしようとしました。
ハイデッガーは、ニーチェの思想が「存在の忘却」に基づいていると主張しました。存在の忘却とは、人々が本来の存在や真の意味を忘れ、代わりに表面的な価値や欲望に埋没してしまう現象を指します。ハイデッガーは、ニーチェの思想が個人の自己中心的な存在によって支配され、真の存在や他者との関わりを忘れてしまう可能性があると指摘しました。
また、ハイデッガーはニーチェの個人主義を「創造的破壊」と関連付けて批判しました。創造的破壊とは、新たな価値や意味を創造するために既存の価値や伝統を破壊することを指します。ニーチェは個人の意志と力によって価値を創造することを重視しましたが、ハイデッガーはその創造的破壊が根本的な意味や価値の喪失をもたらす可能性があると指摘しました。
さらに、ハイデッガーはニーチェの言語の使用に対しても批判的でした。彼はニーチェの言語が個人の表現や詩的な表現に偏りすぎていると考えました。ハイデッガーは、言語は共同体や他者とのコミュニケーションや共通の理解の形成に不可欠であり、それに重点を置くべきだと主張しました。
ハイデッガーの批判は、ニーチェの個人主義や主観主義が真の存在や他者との関わりを忘れさせる可能性があるという重要な点を指摘しています。彼は、存在の忘却や創造的破壊が真の意味や価値の喪失をもたらす可能性があると警告しています。これは「追求主義」においても克服してないように思えます。
ハンナ・アーレントによる「Übermenschentum」批判から、追求主義の個人的すぎる主義への批判
そして、アーレントによる批判。彼女の批判は苛烈です。ハンナ・アーレントはÜbermenschentumに対して厳しい批判を行いました。彼女はÜbermenschentumの思想が極端さと悲観主義的な傾向を持っていると主張しました。以下に、アーレントの批判の要点をいくつか紹介します。
1. 極端さと個人主義の助長: アーレントはÜbermenschentumの概念が極端さと孤立を奨励する危険性を指摘しました。彼女は、Übermenschentumが個人主義やエリート主義を助長し、他者や共同体との関わりを軽視する傾向があると批判しました。アーレントは、人間の存在は必然的に他者との関係性に基づいており、共同体の中での行動や政治的な関与が重要であると強調しました。
2. 共同性と共生の排除: アーレントはÜbermenschentumが社会的な共同性や共生の概念を排除する危険性を指摘しました。彼女は、個々の人間が単独で自己を超越することはできず、他者との関わりや共同の行動が人間の存在の重要な要素であると主張しました。Übermenschentumの概念は、個人を隔絶させ、社会的な結びつきや共同体の形成を阻害する可能性があるとアーレントは指摘しました。
3. 真の自由の喪失: アーレントはÜbermenschentumの概念が真の自由の喪失をもたらすと懸念しました。彼女は、Übermenschentumが個人の自己中心的な欲望や志向を重視する一方で、政治的な自由や公共の利益への責任を無視する傾向があると指摘しました。アーレントは、真の自由は共同体の中での政治的な関与や共同行動を通じて実現されるものであり、Übermenschentumの概念はこの点を無視していると批判しました。
ハンナ・アーレントの批判は、Übermenschentumの思想が個人主義や孤立を助長し、共同性や共生を軽視する傾向があることを指摘しています。彼女は、人間の存在は他者との関係性に基づいており、共同体の中での行動や政治的な関与が不可欠であると主張しました。Übermenschentumの概念がこのような共同性や共生の重要性を無視し、個人の自己中心的な欲望や志向に焦点を当てることで真の自由が失われる可能性があると警告しました。
アーレントの批判は、Übermenschentumの概念が社会的な結びつきや共同体の形成を阻害し、個人を隔絶させる可能性があることを指摘しています。彼女は、真の自由は他者との関わりや共同行動を通じて実現されるものであり、Übermenschentumの概念がこの真の自由を軽視していると批判しました。
アーレントの批判は、Übermenschentumの思想に対する重要な視点を提供しています。彼女は個人の成長や自己実現を重視しながらも、社会的な共同性や政治的な関与の重要性を強調しました。
深津さんは「ニーチェとは違った超人主義」と述べていますが、このアーレントによる社会的な結びつきや共同体の形成を阻害し、個人を隔絶させる可能性があることを克服しているようには見えません。
最後にハーバマスによるニーチェ思想全体への批判を見ていきましょう。というのも、「追求主義」がニーチェとは異なる超人主義であると言いながら、ニーチェの思想の痕跡を強く残しているように見えるからです。
追求主義のコミュニケーション欠落について、ハーバマスの理論を用いて批判する
ユルゲン・ハーバーマスは、ニーチェの哲学に対してコミュニケーションと言語の観点から批判を行いました。彼はニーチェの思想が言語の力や詩的表現への傾倒によってコミュニケーションの理解と共通の意味の構築を困難にする可能性があると主張しました。
ハーバーマスは、言語とコミュニケーションの重要性を強調し、人々が共通の理解を築くためにはコミュニケーションが不可欠であると考えています。彼は「コミュニケーション行為の理論」を提唱し、共通の理解や合意形成のプロセスを明確化することを目指しました。
ニーチェの哲学は言語の力や詩的表現に強く依存しており、彼の作品はよく文学的なスタイルで書かれています。しかし、ハーバーマスはこれに対して批判的な立場をとりました。彼は、ニーチェの言語の力への傾倒がコミュニケーションの理解と共通の意味の構築を困難にし、コミュニケーションの合意形成を阻害する可能性があると指摘しました。
ハーバーマスは、コミュニケーションにおける理解や合意形成が共同体の結束や社会的な連帯の基盤となると考えています。それに対して、ニーチェの言語の力への傾倒や詩的表現は、個人の内的な経験や主観性に焦点を当てる傾向があります。このようなニーチェのアプローチは、ハーバーマスにとってコミュニケーションの合意形成を困難にし、共通の理解や共同体の形成を阻害する可能性があるという批判の根拠となりました。
ハーバーマスの批判は、ニーチェの哲学をより包括的な視点から検証し、コミュニケーションと共通の意味の重要性を強調するものでした。彼の批判は、哲学的な議論や社会的な関係の構築において、共通の理解や合意形成のプロセスを重視するハーバーマスのアプローチを反映しています。彼はニーチェの詩的な表現や主観性が、コミュニケーションの合意形成を困難にし、社会的な結束や連帯を脅かす可能性があると指摘しました。
ハーバーマスは、言語とコミュニケーションの役割を強調する一方で、ニーチェの思想が個人の内的な経験や主観性に焦点を当てることによって、共同体や社会的な関係の形成を阻害する可能性があると主張しました。彼はニーチェの思想が単なる個人主義や孤立主義に陥りがちであり、共同体や社会の価値や目的を無視していると批判しました。
ハーバーマスの批判は、ニーチェの哲学がコミュニケーションの合意形成や共同体の形成において課題を抱えている可能性を指摘しています。彼は共通の理解や共同の目的を持つことによって、より良い社会的な関係を構築できると主張しました。ニーチェの哲学に対するハーバーマスの批判は、個人と共同体の関係や社会的な連帯の問題に焦点を当て、より包括的な視点からの考察を促しています。
では、「追求主義」を乗り越えるためには、どのような考え方をすれば良いのでしょうか?
以下のようなアプローチが考えられます。
1. 共同性と共生の重視: 追求主義が個人主義や孤立を奨励する一方で、共同性や共生の重要性を再評価しましょう。他者との関わりや共同体の中での行動を通じて、人間の存在の豊かさや成長が実現されることに焦点を当てます。他者への思いやりや協力を大切にし、共同の目標や価値を追求することで追求主義の傾向を乗り越えることができます。
2. 倫理的な指針の設定: 自己成長や自己実現を追求する一方で、倫理的な指針を設定しましょう。追求主義は個人の欲望や志向に焦点を当てる傾向がありますが、倫理的な原則や他者への責任を考慮に入れることが重要です。自己の成長や目標達成を倫理的な視点から考え、他者との関係や社会的な影響を考慮することで、追求主義を超えたバランスの取れたアプローチが可能となります。
3. 社会的な関与と政治的な参加: 追求主義は個人の自由と成長を重視しますが、社会的な関与や政治的な参加の重要性も再評価しましょう。自己の成長や目標達成だけでなく、社会や共同体の発展や改善に寄与することを意識します。政治的な参加や社会的な活動を通じて、他者との関わりや共同の目的を追求することで、追求主義の個人主義的な側面を乗り越えることができます。
これらのアプローチは追求主義の個人主義的な傾向を補完し、より包括的で社会的な視点を持ったアプローチを提供します。自己の成長や目標達成を大切にしながらも、他者や共同体との関わりを重視し、倫理的な指針や社会的な影響を考慮することで、追求主義を超えた豊かな人間性を実現することができます。
また、追求主義を乗り越えるためには、以下の要素も考慮に入れることが重要です。
4. 謙虚さと協調性の培養: 追求主義は個人の優越性や力強さを強調しますが、謙虚さと協調性を培うことも重要です。自己の限界や他者の存在を認識し、相互依存の中での協力や共同作業を大切にします。個人の力だけでなく、共同体や社会全体の力を活用することで、追求主義の孤立や分離を乗り越えることができます。
5. 統合とバランスの追求: 追求主義は個人の成長や目標達成を追求しますが、統合とバランスを追求することも重要です。身体的、精神的、社会的な側面をバランスよく発展させることで、個人の全人的な成長を促進します。自己の欲求や志向に囚われることなく、多面的な発展を目指し、追求主義の偏りを克服することができます。
これらの要素を組み合わせることで、追求主義を超えたより健全でバランスの取れた人間性を実現することができます。個人の成長と自己実現を大切にしながらも、他者との関わり、倫理的な指針、社会的な関与、謙虚さと協調性、統合とバランスの追求を意識することで、追求主義の個人主義的な傾向を乗り越え、より豊かで共生的な人間性を培っていくことができます。
結論
「追求主義」は、面白い論考であることは確かなのです。特に深津さんがAIと対話して、出来上がった思考というところは着目すべきでしょう。それに個人の幸福を追い求めることは悪いことでもありません。ただ、先を見すぎて過去に個人主義に対して、どのような批判があったのかを考慮していない部分が透けて見えしまうところでしょう。
ほんのちょっとの人間臭さ、言い換えれば弱さやケアという問題を軽視しているという批判にもつながってしまうというあまりにも綱渡りな論考と言えるでしょう。このスリリングな論考が更なる議論を呼ぶのは間違いないぐらい面白い。だからこそ、AIが作り出した論にどれだけ人が介入していくかを考えていかなければならない。それが炙り出された論考であると認識しながら読んでいくことが求められるでしょう。
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