原告記(仮)#55 「矢野顕子と私②」

大学は夜学だったので昼間は働いていた。人生で1番きちんと仕事をしていたのは、30年前、あの頃かもしれない、、、
アルバイトとはいえ、朝から夕方まで、あと土曜日は「半ドン」といって昼までの勤務だった─。まだ週休2日が当たり前の世の中ではなかったのだ。

ボーナス時期、正社員以外にも手当が支給された。たしか2万円程度の額…でも当時まだ18歳の感覚だと、それはそれはありがたいもので、みんなが仕事中に課長がやってきて、仰々しい挨拶をしたあと1人1人に封筒が配られた。

ちょうどその頃、矢野顕子のBOXセットが発売された。デビューアルバムの「JAPANEASE GIRL」からレコード会社を分けて5枚組+8枚組の2セット。
なぜか覚えているのが、仕事帰りのバス停。もらった手当の2万円を手に、よし買っちゃおうと決めたときの、思い切った気持ちになった夕方の気配が記憶に残っている。

このBOXセットの発売が1990年冬。
その10年後、2000年の新聞記事上で、私はりょーすけさんの記事を見つけている。
人物をフォーカスする連載「ひと」欄に、大学卒業後に北海道に移住し、雑貨店で働きながら、ゲイ当事者として様々に発信していた様子が取材されていた。
ニットキャップに丸眼鏡、今よりほっそりした写真の記事を、切り抜いてとっていた。インターネットがいまほどではなかった時代。
それでも、この新聞記事を見る前から、彼の存在は知っていたような……それだけ、当時のりょーすけさんは、パレードをはじめ全方位的に顔を出してして活動していた。


そして更に2年後の2002年11月17日、(#38で書いた)初めて会ったときの理由というか口実は、矢野顕子のCDを貸すということ。
りょーすけさんが、当時の個人ホームページに書いた「矢野顕子のアルバム聴きたい」に対して、「僕、全部持っています!」がことの始まりだった。
19歳の、思い切って買ったCDが10年後、自分の運命が動くきっかけになった。
高い買い物ではなかった…のかも。

それにしても、音楽の配信やサブスクが主流になっている昨今、こんな出会い方はもう歴史的な遺跡みたいなものかも。
世の中あらゆることが便利になっているなか、携帯電話にSNSでいつでもつながれる反面、でも余裕がないような、隙間がないような…やはり、いまも昔も、未来もさほど変わらないのかもしれない、人の気持ちは。


以上、私たちの馴れ初め編は完結。
札幌は控訴審が始まって、これからまた判決が近づくと取材、新たな記者さんとの出会いも増えていくのだろう。
これから春、移動のシーズン。この数年、せっかく顔見知りの記者さんたちも結構あちこちに旅立っていく。
一度、非公式的に記者さんたちと飲み会したいねと、なんとなく距離感はあってしかるべきと思っていたけれど別にもういいよねと─、りょーすけさんと最近よく話をしている。

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