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思い出は、冷凍保存で

「井出ってさ、ナイフ持ち歩いてんの?」
「中学の時から持ってたよ」

それがたぶん、Sとの高校での最初の会話だったと思う。高校2年でクラス替えがあった直後だった。Sと同じ中学出身で別の高校に行った井出(仮名)という男が危ない奴で、普段からナイフを懐に忍ばせては近隣のヤンチャな奴らを狙っているという噂だった。今から思うと、どんな奴なんだ、井出(仮名)、少年サンデーから飛び出してきたみたいな奴だな、井出(仮名)。

高校生男子は、ナイフが好きだ。そして、わけのわからん危険な男の話が好きだ。Sとはそれ以来話すようになり、仲良くなった。しばらくして、アブない井出くん(仮名)は何か全然違う理由で高校を退学になったと風の噂で聞いた。

高校を卒業してからも、一緒に東京に出たSとはしょっちゅう飲みにいっていた。遊ぶ場所はSの大学の近くの国分寺が多くて、そこらへんの何が入ってるのかよくわからない安酒を出す店で泥酔し、Sの家に何度も泊めてもらった。Sは国分寺のその先にある西武線の支線沿線に住んでいて、単線の駅を降りると広がるその荒涼とした墓場のようなロードサイドの景色は、故郷の国道沿いを思い起こさせた。

Sとは、大学を卒業してからは疎遠になった。私の仕事が忙しかったのもあるのだが、仕事をして数年経つと、Sが東京からいなくなってしまったからだ。Sは実家に帰った彼女を追って東海方面に行ってしまい、その地方で結婚をした。逆のパターンは聞いたことがあるが、女の実家まで追っていく執念は聞いたことがなかった。それだけ惚れていたんだろう。向こうの親御さんの困惑を考えると、今でも笑えてくる。それでも、Sは幸せそうだった。子供がめちゃくちゃかわいくてさ。そう言って送ってくれた子供の写真が、Googleフォトのどこかに残っているはずだ。子供は他人の私から見たら、普通だった。

それから10年以上が過ぎる。その間、ほとんど連絡は取らなかった。私は私で仕事とジェフユナイテッド千葉の昇格に時間を取られていたし、Sは子育て真っ盛りで自分の時間などないに等しかったろう。時々、地元の共通の友だちと話して名前が出てきて、あの頃やっていた馬鹿を思い出すくらいだった。

今年の6月になって、そのSから急に連絡が来た。Facebookだ。Facebookは登録だけして、滅多に開かない。しかし、時折こういう過去の亡霊から肩を叩かれて、どきっと後ろを振り返ることがある。

「見つけた、元気か?」

10年以上ぶりのメッセージには前置きがあった。思えば、Sはいつも前置きがなかった。東京で初めてクラブに踊りに行こうと誘われた時も急に思いついたように言われたし、嫁さんの実家に旅立ったときも、連絡を受けたのは彼がすでに東京からいなくなった後だった。大人になったんだな、と思った。

友人申請を承認し、何度かやり取りをした。しょーもない言葉の応酬に、学生時代にまだLINEがなかったころの連絡を思い出した。おじさんたちはこういう連絡を携帯メールでしていたのですよ。やり取りをしながら、そういえば子供だいぶでかくなってるよな、写真とか載せてるのかな、とホームを見にいった。

そこは、反ワクチンと陰謀論の大量のシェアで溢れていた。

画面を見た瞬間に、ぐう、と俺は変な声を出していた。投稿のメインは反ワクチンだった。まさにそれは怒涛というのに相応しい頻度で投稿されている。ほとんどが誰かのコンテンツのシェアだったが、それぞれに「本当に大事なこと」「コロナ対策なんて金の無駄」「常識を疑え」などと一言ずつ添えられていて、それに対して賛同のいいねが多数(と言っても、20とか30程度だが)つくという状態だった。その反ワクチン乱舞の合間に陰謀論とデマが定期的に挟まれるのだ。ケージ飼いのニワトリの卵は健康に悪い、ロスチャイルド家が日本を支配する、日本の小麦はすべて遺伝子操作、などなど、規模もソース元もぐちゃぐちゃな投稿が何の脈絡もなく挿入される。

そして、選挙が始まった。ある特定の政党をSは熱烈に支持し、その投稿でFacebookは破裂しそうだった。そもそも投稿するような友人が少ない中で、Sだけが活発に動いてるため、私のFacebookはほとんどS専用のメッセージボードと化してしまった。俺はただただ特定政党の選挙演説動画が垂れ流しにされる画面を見ながら、こんな顔をしていた。

色々な思いが頭をよぎった。元々、政治に興味なんてあるやつじゃなかった。かわいい女の子とイカした音楽と意味のほとんどないサブカル的文章が好きで、ゆらゆら帝国はSから教えてもらって、俺は今でも好きなバンドだ。政治のことなんてほとんど話したことなかったんじゃないだろうか。大学時代なんて、その時の首相の名前さえあやふやだったはずだ。

ただ、昔から陰謀論的なことは好きだった。『ムー』が部屋の中に何冊も積み重なっていたことを覚えている。遊びに行ったときに「ナイジェリアで5メートルの人間の化石が発掘」などのムー的事件簿を見てゲラゲラ笑っていた。Sも少しも信じてなかったし、一緒になって笑っていた。しかし、今思えばその態度も表面的なものだったのかもしれない。どこかで信じていた可能性だってある。ムー的なものを。

だからと言って、一足飛びに反ワクチン陰謀論連複買いするほどではなかったはずだ。一体、この10年でSに何があったのだろうか? Facebookをいくら遡っても、あれほど溺愛していた子供の写真はなかった。そして、惚れ込んで相手の実家まで追いかけた嫁とのエピソードは1つもなかった。離婚はしてないようだが、家族とはうまくいってないのだろうか。仕事の話も全く出てこない。冷や飯を食わされながらも田舎で他に就職先もなく、家族のためにストレスを抱えながら仕事をしているのだろうか。それとも、何か他にあったのか。病気か、失恋か、天の啓示か、あるいは……。

全ては推測でしかない。このどれもが外れてるのかもしれないし、全部が少しずつ当てはまってるのかもしれない。でも、もう理由を聞くことはできない。Sの支持政党についていくつかメッセージで意見を聞かれ、「よくわからんなー、政治は。笑」と答えていたら、連絡は来なくなったからだ。それに、メッセージが届き続けたとしても、これ以上、私は踏み込むことはできない。責任をもって救う覚悟がないならば、迂闊に手を出すことは大人のすることではないからだ。10年という時が経ち、東京から東海地方という距離があるならば、なおさら。たとえ、旧友が客観的に見てかなりおかしくなっていたとしても、だ。

Sと会うことはたぶんもうない。Sが東京に来ることはないだろうし、私があっちに行くこともない。地元も少し離れた場所にあるので、そっちで会う可能性もないだろう。高校の同窓会も随分開かれていないし、行ったこともない。Sは私たちの世界の彼方に消えてしまった。他にも向こう側に行ってしまった友達や親戚たちがいる。大人である彼らに対して、できることはない。それは悲しいことだけれど、そうするしかない。

ただ、思い出は思い出として、そのまま残していたい。いくら人が変わろうとも、時代が変わろうとも、よかった時の記憶を悪くすることもないだろう。その後に付き合いがなくなり、たとえ今が人生うまくいってなくても、それでもその過去の一瞬だけは、私とSは仲の良い友人であったはずだし、向こうにとってもそうであったことを願いたい。

井の頭公園でSも含めた4人で飲んでいたら、近くにいたにーちゃんに因縁をつけられて、4対1なら大丈夫だろうと思っていたら、実はそのにーちゃんはサークルを引き連れていて、10人くらいが集まってきて慌てて走って逃げたこともある。Sが北海道まで東京から自転車で行くと言って、二日目の埼玉で「もう帰りたい」という電話を受けたこともある。思い出すのはそんなことばかりだ。

押入れを掃除していたら、Sとインドに行ったときに撮った写真を見つけた。ガンジス川の船の上で最高にいい笑顔でポーズを取っている私とSが映っている(※)。そう、我々にはこういう時代があった。若くて、浅はかで、バカだったが、とても良い時代だった。その記憶は、冷凍保存される。それは消えることも、変わることもない。

※なお、この後めちゃくちゃ船乗りにぼったくられた。

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