『そして誰もいなくなった』(アガサ=クリスティ)
ミステリー
ミステリーというと、トリックのことばかり騒ぐのは日本だけだと久我京介が語っていたが、さらに付け加えるなら、殺人事件を伴うものばかりなのも日本だけかも知れない。
漫画でありアニメにもなった『金田一少年の事件簿』や『名探偵コナン』は青少年向けにも関わらず、殺人事件が多いうえに、トリックも複雑なものが多い。さらに言えば、人間ドラマを構築したがるのも、特徴として挙げられるだろう。
実際、外国のミステリー小説では、殺人事件もなく、トリックもなく、盗難事件のようなものに、ひたすら推論を詰めていくようなものもある。事件の真相を突き止めるに留め、犯人や被害者の人間性についてほとんど語られないものもある。
『そして誰もいなくなった』
殺人事件を伴うものの、トリックが殺害や証拠隠滅の手法よりもむしろ、作品の構成そのものが大仕掛けなトリックとなっているものもある。
ミステリー小説として一番手で薦めるとなれば、アガサ=クリスティの『そして誰もいなくなった』を推したい。
本来、ミステリー作品というのはネタバレが厳禁であるものの、イギリスでは1939年、日本では1955年に発刊され、80年以上も前の作品であり、ミステリー小説としては必読書であるので、登場人物以外のことで軽く触れる。
未読者や、それでもネタバレは嫌だという方は、次の区切りまで飛ばしてもらいたい。
大まかにいえば、10人の人間が一か所に集められ、すべて殺されるという内容である。その人たちを集めたとされる人物は、実は偽名であり、存在しないことも分かる。そして殺害方法が、とあるマザー・グースの詩に沿って行われる。最後に3人残ったところで、一人が殺され、残った二人は争った末に片方がもう一人を殺した後に、自殺する。となれば、最後の一人こそが真犯人で、他の8人も殺害したとなるはずなのだが、そうはならない。それ以前の状況に矛盾が発生するからだ。
これ以上はさすがに語るつもりはない。
実際に本を手に取り、違和感を覚えつつ読み進め、すべてが終わったと思い込まされた後に発覚する真実に、背筋がゾクっと震える感触を奪うのはさすがにしのびないからだ。
さて、この作品がかなり古いものであり、それ以降、数えきれないほどのミステリー作品が世の中に登場したにも関わらず、ミステリー作品が好きな人たちにアンケートを取ると必ずと言って良いほど、上位に入ってくる。
犯行や証拠隠滅のトリックが唯一無二の作品は、多々ある。というよりも、似たものを使えば、盗作と見做されてしまう。
一般的な小説であれば、同じような話題を取り上げても、異なる展開や技法を用いれば良い。
だが、ミステリー作品となると、完全にオリジナルのものを構成する必要がある。あるいは、既存もしくは類似のものでも少し変化させ、筆力を駆使して読み応えのあるものにすれば、評価はされる。あるいは複数のトリックを組み合わせる方法もある。
トリックとしては、同じくアガサ・クリスティーの『オリエント急行の殺人』は、それまでの概念を完全に覆した。だが、こちらには似た展開の作品が多く作られた。斬新ではあったが、模倣しやすい手法でもあった。
では、『そして誰もいなくなった』は何が違うのか。
まったく真似することが出来ないのである。
正確にいえば、クローズド・サークル(閉鎖された空間。絶海の孤島や、道が封鎖されたり猛吹雪などで、外へ出られなくなった山小屋など)の手法は、多くの作品でも用いられている。
だが、客として呼ばれた人たちがクローズド・サークルで次々と殺され、それが何かになぞらえたものであると分かった途端、『そして誰もいなくなった』と比較される。
そしてそれが、劣化版の扱いにされてしまう。
『オリエント急行の殺人』の場合は、状況をさらに複雑化させ、ドラマチックにすることで、類似であっても昇華された個別の作品に仕上がることもある。
『秘宝島殺人事件』
『そして誰もいなくなった』をオマージュにした作品が、漫画の『金田一少年の事件簿』に存在する。
『秘宝島殺人事件』である。
この作品の評価は決して悪くはない。
私自身、これを読んで、似せているようで独自性のある作品だと、感心した。意外な犯人の、意外な真相にも驚かされた。盗作ではなく、オマージュもしくはリスペクト、すなわち、敬意を払ったうえでの模倣である。
だがしかし、これが限界だとも思った。
ひとつには、『そして誰もいなくなった』では「マザー・グース」という、イギリスの読者なら誰もが知っている詩を使っているのに対し、『秘宝島殺人事件』ではなぞらえは無く、見立て殺人の部分しか使われていない。
しかし、もしも童謡を使ってしまうと、それこそ盗作扱いされてしまうだろう。
次に、探偵がいて、犯人がいることである。
『秘宝島殺人事件』では、重大なネタバレになるので詳しくは言えないが、「犯人は実は目の前にいる。それなのに、みんなの目には映っていない」という不可解な状況を、巧みに編み出されている。この点はさすがなのだが、『そして誰もいなくなった』ではそもそも、犯人が実在するかどうかすら分からないことに始まる。そして、犯人がどこかにいるかも知れないが、この中にいるのかいないのかも分からないという恐怖に、襲われ続ける。
それは最初の、登場人物たちが客として招かれ、食事をする場面から始まっている。そして、探偵もいないし、解決策も見いだせないまま、犯行が続いていく。読者には犯人捜しをしている暇など与えられない。心理的恐怖につきまとわれ続けてしまう。
『そして誰もいなくなった』は題名のとおり、誰もいなくなってしまう。
最後の一人が犯人でないのなら、誰もいなくなってしまったら、犯人もいないということになってしまう。結局、何がどうなったのかはまったく分からないまま放り出されてしまうのである。
もちろん、最後にはきちんと答えが載せられているのだが、もはや補足に過ぎない。読者は、いつの間にか最後まで読まされてしまう。
これは、著者の優れた筆致によるもので、容易に真似できるものではない。
書き手と読み手
仮に似た構成のものを作ったとしても、最後まで読ませる筆力がなければ、状況を解析し、矛盾点をあばき出していくことで、読者も事件を解決できるかも知れない。
しかし、それはもはや小説とは呼べない。
ただの謎解き遊びだ。
一時期、さまざまなミステリー小説の謎解きを楽しむ雑学本が流行したが、謎解き部分だけが紹介されるのみで、ストーリーの本質まで迫るようなものは見当たらなかった。
小説であれば、考えながらも手を止めることができず、次の展開が知りたくて、どんどんページをめくってしまいたくなる衝動に駆られなければならない。
そのように優れた出来のミステリー小説は、ありがたいことに、次々に作られ続けている。数百年前、数十年前の名作すら霞むほどの作品が、毎年のように現れる。
しかし、トリックとばかり騒ぎ、あるいは話の展開を一時停止してでも登場人物のドラマ性を重視されてしまう傾向が喜ばれてしまうと、展開が淡々と進みつつも読者を怖れさせるような作品への評価が難しくなるのかも知れない。