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湯けむりバタフライ

夏の終わり。
都会の喧騒から少し離れた場所にある「極楽蝶々湯」
この少し変わった名前のスーパー銭湯は、
昨年の開業以来、地元の人々に愛され続けてきた。
今日も多くの客で賑わう中、一人の中年男性が受付に立つ。
「いらっしゃいませ」
笑顔で迎えるのは、オーナーの蝶野和夫。
50代半ばながら、まるで蝶のように軽やかな物腰が印象的な男だ。

「あの、ここって本当に...」
訪れた客が、少し躊躇いがちに尋ねる。
「ええ、その通りです」
和夫は穏やかに答えた。
「ここは、蝶と一緒に入浴を楽しめる唯一の銭湯です」
客の目が驚きで見開かれる。
和夫は続けた。
「でも、ご安心ください。蝶は特別な場所にいるので、
苦手な方にも配慮しています」
その言葉に安心したように、客は入館料を支払い、中に入っていった。

和夫はふと、空を見上げた。
夏の名残の暑さが残る中、一匹の青い蝶が舞っている。
それを見て、和夫は目を細めた。

極楽蝶々湯の内部は、まるで森の中にいるかのような雰囲気だった。
壁には木々や花々が描かれ、天井には青空が広がっている。
浴場の一角には大きなガラスケースがあり、
その中で色とりどりの蝶が舞っていた。
客たちは、湯につかりながらその光景を楽しんでいる。
中には、蝶の動きに合わせて湯船で踊る子供もいた。
和夫は従業員たちに指示を出しながら、館内を巡回している。
彼の目元は優しいが、どこか物思いに耽っている。

その日の閉店後、和夫は一人で蝶のケースの前に立っていた。
「美奈、元気にしているかい?」
彼は小さな声でつぶやいた。
瞬間、一匹の青い蝶がケースの中で舞い上がった。
まるで和夫の言葉に応えるかのように。

翌日、極楽蝶々湯に一人の老婆が訪れた。
和夫は彼女を見て、驚きの表情を浮かべた。
「田中先生…?」
老婆...田中教授は、穏やかに微笑んだ。
「久しぶりね、和夫くん。立派な銭湯を作ったわね」
和夫は慌てて応接室に案内した。
お茶を一口飲んだ頃、二人の会話が始まる。
「先生、どうしてここに?」
「あなたの噂を聞いたのよ。蝶と共存する銭湯なんて、面白いじゃない」
和夫は複雑な表情を浮かべた。
「実は...」 彼は苦い顔を浮かべながら、20年前の出来事を語り始めた。

和夫が大学で生物学を学んでいた頃の話である。
和夫は田中教授の研究室で蝶の研究をしていた。
その時、同じ研究室にいた美奈という女性と恋に落ちた。
二人は将来を誓い合ったが、
とある実験の失敗により視界が一変してしまった。
「先生もご存じの通り、
私たちは人間の DNAと蝶の DNA を融合させる実験をしていました」
和夫の声は震えていた。
「でも、それが...美奈を...」
田中教授は静かに頷いた。
「二人が突然姿を消したのはそれが理由だったのね」
和夫は続けた。
「美奈は...蝶になってしまったんです。
私は彼女を守るため、この銭湯を作りました」
その瞬間、窓から一匹の青い蝶が舞い込んできた。
和夫と田中教授は、息を呑んで見つめた。

和夫の告白から数年後、極楽蝶々湯は特別な日を迎えた。
田中教授の協力を得て、
秘密裏に研究が進んでいた「逆転換の儀式」を行うことになったのだ。
深夜、銭湯に蝶々が集まってきた。
数千、いや数万もの蝶が、まるで風に舞う花びらのように飛び回る。
和夫は大浴場の中央に立ち、目を閉じた。
田中教授が古い巻物を広げ、詠唱を始める。
蝶々たちが一斉に舞い上がり、和夫の周りを取り囲む。
その中心に、青い蝶が飛び込んだ。

「美奈...」
和夫の声が震える。
突然、まばゆい光が辺りを包み込んだ。
光が収まると、そこには一人の女性が立っていた。
20年の時を越え、美奈は人間の姿を取り戻したのだ。
和夫と美奈は、涙ながらに抱き合う。
周りの蝶々たちも、この奇跡を祝福するかのように、美しく舞っていた。

翌朝、極楽蝶々湯は通常通り営業を始めた。
しかし、今までとは違う。
受付には、和夫と美奈の二人の姿があった。
客たちは、二人のどこか蝶のような軽やかさに魅了されていく。
浴場の蝶のケースは、以前よりも小さくなった。
しかし、そこで舞う蝶々たちは、以前にも増して生き生きとしていた。
和夫と美奈は、時折互いを見つめ合い、小さく微笑む。
二人の周りには、小さな青い蝶が取り囲むように舞っていた。

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