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ドラゴンバーサス

村上春樹をテーマに書くことになった。しかし村上春樹には縁遠く、むしろ村上龍の本なら比較的読んでいたので、天邪鬼な私は何がなんでも村上龍を書こうと思った。とはいえ書いたのはタイトルだけ。結局のところスプリングツリーもドラゴンも関係なく自分の青春の思い出を書いてしまった。その言い訳が本文中に入れた『作者解説』です。言い訳や説明を書くのははずかしいのだけれども、なんだかんだ言ってそれが書いていて一番気持ちがいい瞬間です。

本投稿は、『週間キャプロア出版』で掲載されたものを大幅に加筆修正したものです。
『週間キャプロア出版 企画』とは、全てFacebookメッセンジャーのやりとりだけで企画からKindleでの出版までをメッセージグループに居合わせたメンバーだけで行うという新しい試みの出版グループです。とても面白い試みですので、ご興味がある方は是非参加してみてください。

週刊キャプロア出版(第7号): 村上春樹 週刊キャプロア出版編集部 https://www.amazon.co.jp/dp/B07F1XPXKN/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_eTxnFbPYDVHG0

ドラゴンバーサス

「自分の思い描く思想を思想という形で小説を説明しだしたら、そりゃ面白くないでしょ?」

おれは本棚に並ぶ著者名を指でなぞりながら歩いてる。

「アーティストだと思うんならアーティストだなんて名乗らないほうがいいね」

彼女は椅子にキチンと座り直して、背筋を伸ばし机の目の前にある書類に目を通す。

「プロがプロと名乗らないのと一緒だよ。向き合う姿勢、その姿を通して感じてもらう事が美しいと思うけどなぁ。作品も同じでしょ?」

そこは川の側に建つ図書館。まだできて10年も経っていない。それでもおれの年齢の半分以上の月日は経っている。
おれがここに来るのは窓から見える景色がとても懐かしく感じるからなのだけれども、最近は少し意味合いが違ってきた。

「女の人もそうだね。何も語らずとも自分が美しいことを演出することで魅力を感じる。そうでしょ?」
「うーん。でも、それは男が求めるからでしょう。求めているから仕方なしにその役割を果たさないといけないんでしょ?」

いつも閲覧室の受付に座っている彼女は、とても司書に似つかわしくない格好をしていた。白に近い金髪にくるくると大きなカールでボリュームアップした髪型、濃いアイラインと瞬きするだけで風が吹いて来そうなマスカラアップされた睫毛、つやつやとした唇。
上着は地味な制服だけど、パンツは7部丈の足首からふくらはぎが少し見えるタイプだ。

「そうなると、めんどくさいんだけど、好き?好き?大好き?って聞いてくる女がいいなぁ。ただ綺麗なだけで関係性がないんじゃ、居ないのと一緒だよ」

おれは閲覧室に用があったので、カバンをロッカーに入れ、数冊の参考資料と200字詰原稿用紙を数冊抱えて、席に着いた。映画の脚本を書かなければいけないのだ。大まかな構成は作ってあって、いまから箱書きに取り掛かる。
とはいえ、書ける訳がないのだ。彼女に見とれて集中力も何もかも奪われてしまっている。こんな事なら原稿用紙抱えて閲覧室に入るんじゃなかった。
ここの席に座っているのも、彼女が良く見える場所だからなのだが、それだけじゃない。すぐに資料を取りに行ける場所だからという、言い訳にしかならない理由もある。おれは綿密に取材を重ねて事実に裏打ちされた、もしくは資料性の高い脚本を書きたいのだ。そして後はロマンに溢れると尚良い。

閲覧室の受付カウンターにいる彼女は、髪を耳にかけながら顔を上げてこちら側を見た。突き刺す様な眼差し、少し気の強そうな爬虫類顔。そしてゆっくりと立ち上がる。
おれも同時に席を立ち閲覧室を出た。

「片付けることが仕事みたいになるよね。結局なんだかんだ言ってそういう人の所に行っちゃうものなのかなぁ。だってかまって欲しいもの」
「お母さんってこと?」

彼女は返却済みの本を本棚に戻していく。
手に取る本と、艶で煌めく爪にはなんだか不釣り合いに見えた。
これは勝手な思い込みだし決めつけだ。でもそのギャップが魅力的なんだ。本を読みそうにないのに司書の仕事をしているのがいい。
再び本棚に並ぶ著者名を指でなぞり、おれは本を探す。

「男の子なんてみんな女の人からしたら、子育ての練習道具でしかないのかな〜」

窓から見える景色は新緑を透した日の光が差し込んでいる。桜は散って春の季節は過ぎ去って行った。
彼女は本を戻していく。おれは彼女が戻した本を手に取った。

「すべての男は消耗品である。」


作者解説

自分の作品を自分で語ること程くそだせぇことはないと思っているタイプなので語りたくはないのですが、折角与えられたいい機会なのでノリノリで語ってみようと思います。

さて、村上春樹を語るにおいてまず思ったことは、昔「田島くんって村上春樹っぽいよね?読んでたりするの?」って言われたことがある事です。
おいらの中では、村上春樹は全く読んだことはなく、でも村上春樹氏の作品、特に「ねじまき鳥のクロニクル」は文学作品だ。と言われていたことを聞いたことがあったんですね。
昨今文学作品が見当たらない。目にする機会がないと言われているのも良く見かけていたこともあり、僕自身は文学が一体なんなのか?よくわかっていないのだけれども、そんな文学作品を生む村上春樹氏とおいらとを重ねて見ていただいたことにとても光栄に思っていたと言うのもありました。(全く読んだことないのだけれども)

さっきも言ったように、文学作品が見当たらない、「文学」が衰退したと言われています。しかし、本当に文学は衰退してしまったのでしょうか?文学を感じれる表現方法が変わっただけではないか?
おいらは「文学」とは何もテクストだけが表現方法でなくて良いと思っているんですよ。
それは、宇野常寛氏(日本の評論家)もおっしゃられていて、日本文学史を振り返ると、繰り返し扱われてきたテーマが『うまくいかない自分に対する皮肉めいた自覚が女性に依存してしまっていると言う問題』を描かれてきたとおもうんですよ。でもそれっておいらが何度も見てきたアニメ、とりわけ宮崎駿、富野由悠季、押井守のこの3人の作品というのは、そういった問題を取り扱ってきたわけです。
おいら自身はこの3人の影響をもろに受けた庵野秀明監督を崇拝していて、庵野の文脈は紛れもなく、宮崎駿、富野由悠季、押井守にあると思っていたので、とても熱心に研究してきたんですね。巨匠たちの原点、影響を受けた作品を調べまくってたんです。おいらは映画監督になりたかったんですね。
ただおいらは、おいらが抱える葛藤や自分自身の悩み、人生のテーマ表現手法として映画は違うと途中で確信してしまった。(思い込みなのだけれども)
ただ自分がやろうとしているのはよくわかっていないのだけれども、なんらかの形で作品を作る機会に恵まれて、「文学」が一体なんなのか?と言うことを考えなければいけないという機会に巡り会うというのは頻繁にあった。
そして毎回たどり着くのは文学っていうのはいまはどこにあって、これからどこに向かって行っているのか?ということへの好奇心だったのです。
そしてその解答として、文学というやつは、テキストから映像、そして個人という”人”そのもののところを巡り、行き着くのではないか?という答えにたどり着いたのです。

どっかで言っていたことですが村上春樹氏は「原理主義やリージョナリズムに対抗できるだけの物語を書かなければいけない」と自分の作品を語っているんですね。
ただ残念なことに、昨今消費は分散化されて、物語も分散化されてしまっているわけですよ。宗教ですら物語としての評価がどんどん低下していって、最早他人の物語を消費すらしなくなって、みんな自分の物語を生きる様になってきた。
分散化してしまっているから文学を感じることも小さくなってなってしまっている。そんな中でもやっぱり気になる他人というのはいて、気になる身近な他人に文学を感じるのかなぁと、ふと思ったんですよ。
ブロガーはもちろん、ツイッタラーやインスタグラマーですよね。そこに文学的血脈を感じることが増えていくのではないか?そういった期待もあるわけです。実際我々でいえば、VALUというSNSを通じて個人をVAって形で消費しているわけなのですから。

そしてやっとここで最初に戻るんです。おいらの中で繋がったのは、「田島くんっては村上春樹っぽいよね?読んでたりするの?」っていうのは、おいら自身が文学だ!って言われていたんだ!って合点がいったってことですよ。

今回のおいらの作品は、優れた文学作品を生み出す村上春樹氏と重ねられたことでおいら自身を文学にまでしてしまおう計画があるわけです。

まず作品のベースとして、おいら自身が文学なのだから、おいら自身の経験を下地にしようとしたこと。
これは実際に高校時代に図書館で遭遇した司書の方との思い出を書きました。
そして、村上春樹作品でよく言われる、女性を作品を動かすための道具にしてしまうこと。これには女性のリアリティを出さない様に本当に気を使った。
会話は全て、最近友達とした村上春樹論ですよ。司書の方との会話に見せて(うまくいかなかったけど)実は全部自己完結の独り言。物語の時間軸は過去の図書館での出来事がベースだけれども、そこに村上春樹論を重ねることでアイロニカルな感じにしてみたかったわけです。
最後の村上龍を選んだというは、自分自身にも結びつく。そしておいらが感じている日本文学史のテーマである「自分に対する皮肉めいた自覚が結果的に女性へ依存してしまう姿を物語にする」という状態を表すのに『すべての男は消耗品である』という言葉がしっくりおさまったので使ったというのもあります。
実際は、思春期真っ只中の高校生の時に図書館で読んだ本の中で村上龍の方が性描写で興奮したという実体験をベースにしていた時、結局村上春樹ではなく、おいら自身は村上龍を選んでしまったなぁ〜という思い出も織り交ぜています。そこには村上龍のほうが文学的なのに文学ではない様に感じてしまうと言うことも含ませています。

タイトルの『ドラゴンバーサス』は村上春樹の対比として村上龍(ドラゴン)と言う意味がありますが、それだけではなく自己批判を込めていてやっぱり女性は怖いと言う思いを込めてつけました。司書の女性が蛇やトカゲの様な卵を産みそうな爬虫類顔だったんですよね。これは彼女との対決でもあるんですよ。しかし残念ながおいらは負けて、実際は彼女に声をかけれず、終わりを迎えてしまうわけですね。

最後になりましたが、それにしても自分で自分の作品を語るって村上春樹っぽくない?おれが文学だ!なんて言葉は他人に言われたかったのです。でも残念ながらおいらは「自分の作品を自分で語ること程くそだせぇ」と思っているタイプなので、ここで言ってしまった以上封印せざるを得ないのです。嗚呼残念無念。

掲載時のあとがき
単純に高校生の時の恋の話です。ど直球です。そしてその恋は実る訳がありません。一方的な片思いなんだから妄想を膨らませて思い込みを拗らしてただけの気持ち悪いお話です。そして拗らせ過ぎたがために相手はもしかしたら自分に気があるかもしれないと期待しているのも気持ち悪い。そしてふとした瞬間に「あっ♡」って指が触れ合う瞬間を期待しています。そんな瞬間は永遠に訪れる訳がないのだけれど。違う意味で消耗しきった時の話でした。

週刊キャプロア出版では、このようなテキストを沢山の人が参加して、沢山の人が企画し、編集をして出版される電子書籍です。

Kindle Unlimitedでも無料で読むことができますので、是非お手に取ってみて下さいね。

週刊キャプロア出版(第7号): 村上春樹 週刊キャプロア出版編集部 https://www.amazon.co.jp/dp/B07F1XPXKN/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_eTxnFbPYDVHG0

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