よそはよそ、うちはうち
小学生の頃は犬が飼いたかった。幼稚園の頃から仲の良い友人がチワワを飼い始めて、すごく可愛かったからだ。当時チワワは某消費者金融のCMで大ブーム。昼間は友人の家で、夜は自宅のTVで、まぁよく見かけること。私の小さな頭のなかはチワワでいっぱい。私も一緒にお散歩がしてみたい。可愛い首輪やお洋服を選びたい。おてやおかわりができたら、ごほうびのビスケットを手にのせて食べさせたい。
幼いながらに急に犬は迎えてくれないだろうと思い、まずは書店で見た1000円くらいの犬の育て方の本をねだった。それを熱心に読み込んで知識を披露すれば母もきっと私の本気度に驚いて「じゃあ、うちもわんちゃん飼おうか。ちゃんとお世話するのよ?」なんて言ってくれると思った。
我ながらなんて浅はかな考え。
母はすべてを見抜き、私を叱った。
「お友達が犬を飼い始めたから欲しくなったんでしょ?うちは無理だよ。本もだめ。そんなの見たって犬は飼わないからね。まったく、あんたはなんでもすぐ他の子のものが欲しくなるんだから。よそはよそ、うちはうち。」
中学生の頃は携帯が欲しかった。小学校4年生くらいから自分の携帯を持つ子がちらほらでてきた。大体両親が共働きで鍵っ子の友達だった。(今も鍵っ子って言葉ある?)しゃらしゃらストラップがついていて、「あ!メールだ!」なんて言いながらパカっと開かれるそれがすごく魅力的に見えた。アンテナ伸ばしたりしてさ。
高学年になると自宅のパソコンで友人たちとメールやチャットを楽しんでいた。(たしかhotmailのアカウントを使ってた)友人たちとはもちろん、気になる人とのメールはそれはそれは楽しくて返信が待ち遠しくて。でもパソコンは夜になると使わせてもらえないし、持ち運びもできない。いつどこにいてもメールができる携帯ユーザーの友人が羨ましかった。
中学生になると一気に携帯をもつ子が増えた。部活で帰りが遅くなるから防犯のためだとか、試合で遠くに行くときの連絡用だとか。心底欲しかった。幽霊部員の美術部だから毎日さっさと家に帰っていたけれど。先述のとおり、もっと自由にメールがしたい。アイモードだとか着メロだとかみんなが話しているもの、私もやってみたい。好きな人からのメールが来るとピンクのライトが光って、どきどきしながらメールを開いたらどんなに短文でも保護メしてみたい。
このときは泣いてお願いした。私も携帯が欲しいと。私の友達みんな持ってるから仲間外れになっちゃう、なんて言いながら。
「携帯なんて毎月いくらお金がかかると思ってるの?あんたお金持ってるの?ないでしょ?誰が払うのよ。持ってないからって仲良くしてくれないお友達ならそんなの友達じゃないでしょ。みんな持っていてもうちは買えないの。よそはよそ、うちはうち。」
高校生になると予備校に通う友人が増えた。私の通う高校はいわゆるMARCHと称される大学を目指す子が多かった。私は上智大学か青山学院大学に行きたかった。唯一いつもトップをキープできた英語をもっと学びたいと思い、高校一年生のときに志望校を決めた。この頃の私はもうわかっていた。
予備校に通いたいと言っても通わせてもらえるわけがない、とにかく自力で頑張るしかないからと。英語科の教員にお願いして個別で毎週課題を出してもらった。一、二年生のときは英検二級対策。三年生になってからは有名私大の過去問の添削。朝と放課後は図書室で勉強した。だるいだるいと言いながら予備校に向かう友達を見ては、「私だって負けない!!」と気合を入れ直して。
よそはよそだけど、それが正しかったり欲しいものだとは限らないと気づき始めた。いまの環境で自分なりにできることをやればいいと。
ちなみに大学受験は落ちた。これはもうただの努力不足♡♡
(受験前に母と「あんた大学行くお金あるとでも思ったの?周りが大学受験するからってあんたも受験しなきゃいけないわけじゃないでしょ。大学に何しに行くの?いくらかかると思ってるの?」なんて揉め事もあったが、「いまはみんな大学に行く時代なんでしょうねぇ」と祖母ナイスプレー)
大学生になるとブランド品を持つ友人が増えた。入学祝いで買ってもらったという財布やバッグ、はたちの誕生日でもらったダイヤのネックレス。「こんな高い服誰が買うんだろう、芸能人やモデルってすごいな〜」と読んでいた雑誌に出てくるブランド服を身につける友人たち。8,000円のニットなんて誰が買うんだと思っていた。友人たちだった。親と買い物行ったついでに買ってもらって〜なんてさも当たり前のように言う。
居酒屋でアルバイトを始めた私は、なんとか背伸びしてJILLSTUARTやDiorのコスメを少しだけ買ってみた。服はいつもINGNIかHoneysだったけれど。
今でこそコスメもファッションもプチプラで優秀なものが勢揃い。雑誌でもSNSでもプチプラブランドの着回し企画やプチプラコスメ特集がある。プチプラでもおしゃれになれる、というよりプチプラでおしゃれを楽しむおしゃれなひとがたくさんいる。GUもユニクロもこんなに使えるブランドになるとはあの頃は思ってもいなかった。私もそういう時代を生きたかった。当時は「プチプラ」なんて恥ずかしかった。お金がないから必死にやりくりする、みたいな。
消えない劣等感と恥ずかしさ。みんな私のことを影で笑ってるんじゃないか。ださい。安っぽい。貧乏。
そんなことで仲良くできない友達なんて友達じゃない。
そう、よそはよそ。うちはうち。
だってうちは母子家庭だ。母はパートである。年子で弟もいる。正社員、共働きの家庭にはいくら頑張ったって追いつくのはなかなか難しい。犬も携帯も、他にももっともっと、欲しいものができるたびにたくさん母を困らせた。そして叱られた。
「よそはよそ、うちはうち」と言われるたびに我が家は貧乏だから我慢しなければいけないんだなと辛くなった。周りが羨ましくて羨ましくて仕方なかった。父親がいたら何か違ったのかな。もうすこし好きなものを買ってもらえたかな。いや、ないな。私が幼稚園に入園する前に両親は離婚したはずだが、一切養育費を払ってくれなかった男だ。
大人になるにつれて様々なことがわかってくる。お金を稼ぐことは大変だということ。贅沢じゃない生活でも想像以上にお金がかかること。私だけ、うちだけ、と思っていたことは意外とマイナーじゃなかったこと(私はただの捻くれ者だった)。
ただ、隣の芝生はいつだって青く見える。「よそはよそ、うちはうち」から「あの子はあの子、私は私」が合言葉にすり替わった(自立した証拠でもある)。物事や環境に対する解像度はあがり、多角的に捉えることができるようになっても、それは変わらなかった。
仕事、年収、彼氏、結婚、住む場所やマイホーム、妊娠出産、、
周りと比べたって何もいいことない。無駄だ。憧れたり、目標にすることはいいけれど、羨み妬むことは自分を醜くする。これも大人になって実感したこと。
「そのままのあなたでいい」「ありのままの自分を認める」
ありふれた言葉。それだけ大切なことだともわかっている。
携帯も、持ち運べる自分だけのMacBookも、大卒の学歴も、ブランド物の化粧品やネックレスも持っている。欲しいものができたら買うこともできる(もちろん値段によるが)。大好きな夫も、大切な友達もいる。やりたい仕事もできている。
私の芝生だって最高だ。それはそれは青々としている。綺麗な花まで咲き誇り、美しい蝶々も舞うほどには。足りないものなど何もない。芝生の上でごろんと横になっているときはそう思う。幸せで満ち足りている。
けれど、たとえば雨が降ってきてひょこっと立ってみると。隣の芝生には立派なテントが建っている。いいな、と目から光がふっとなくなる。
「本当にそれって欲しいもの?」
別になくても困らないものの方が、きっと多い。いつだってないものねだり。他人のものは素敵に見える。特別なフィルターがかかる。いらなくたって「でもたしかにこれがあったら〜な時にも便利だよね」なんて必要な理由までご丁寧に思いつく。誰に言うでもないが。
興味をなくそう、と心に決めてどうにかなることでもない。仕方ないのだ。少なくとも私の場合は。煩悩まみれ。つい見てしまうSNSを断捨離してもそこまで効果はない。外に出れば同じだ。余計リアルな情報が直接突き刺さってくる。あのひとのベビーカー、ドイツ製の13万するやつだ。ひょーー。
いつか子供が産まれて大きくなって、「あれが欲しい」と言われたら。「AちゃんもBちゃんも持ってるのに」「どうしてうちは買ってもらえないの?」私はなんと返すだろうか。
「よそはよそ、うちはうち」とは決して言わない自分でありたい。
「そうか、あれが欲しいんだね。どうして欲しいの?」とまずは話を聞きたい。子供相手に論破することもなく、「そんなものいらないでしょ」と即否定することもなく、話をしっかり聞きたい。買うかどうか、買えるかどうかは一旦置いておいて。甘やかすでもなく、意地悪でもなく、一緒に考えたい。
自分の持ち物にわくわくして、大切にできる子になってほしい。「あれもいいけど、これもいいよね」といいところを一緒に見つけたい。
「うちはうち」「私は私」マイナスな言葉にしたくない。私って最高だ!あの子も最高だ!みんな最高だ!それでいい。それがいい。自ら世界を複雑にする必要はない。マウントやらスクールカーストやら、世の中にはいろいろあるけれど。素直に明るく、いいところを見つける天才になってほしい。自己肯定感はもちろんのこと。周りのこともたっぷり認めて褒めることができる子でいてほしい。
親のエゴだと言われても。
そして私もそうありたい。
ときに、もやもやと湧き上がる感情も一旦丸めてぽいっとして。
私も、あなたも、最高に素敵だねと。幸せだねと笑いたい。
いいものはたくさんシェアしていこう。いいところは言葉にしよう。
思ってる以上に、世界には素敵な人・ものが溢れていることも、
自分次第で好きなように生きられることも、
些細な一言に救われることの多さも、大人になって知ったから。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?