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「教育」の本当の意味について

世の中がもっと良くなるように、マシになるように、
まともになるようにするにはどうすればいいか・・・

その思考を巡らせてみた人は、その鍵になっているのが
「教育である」ということに気づくでしょう。

教育が「人間づくり」であることは、
殆どの人がアタマでは理解しているはずです。
しかし、それはイコール、近未来の国づくりであり、
ということは世界づくりであり、
地球づくりである、ということなんですね。

ここまでリアルに考えられている人は、正直、ごく少数だと思います。



教育が「国づくり」である、というのは、
ナショナリズム的な意味では決してなくて、
(もちろんそのように転用できることも事実であるとして)
私たちが暮らす「社会づくり」ということです。

社会をある枠組みで語ると国にもなるということですね。

そのことをいちばん理解し、実践したのが戦前、戦中までの軍国日本だ、
というのはとても皮肉なことですが、
教育の目的をしっかり決めて、それをしっかり行えば、
国を軍国国家にもすることができる、ということです。

明治政府が「教育勅語」を用いて天皇主権の国体を
国民に強く意識させる政策を取り始めたのは1890年のことです。

そこで説かれていたのは、家族を守ることの大切さと同時に、
「国家は天皇をお父さんとする家族なのだ」ということと、
いざとなったらその家族を守るために、
天皇のために命をかけて戦えということでした。

それを小学生が全員、毎日毎日、暗唱したのですね。
小学校で暗唱して10数年したら、その子は父親になったりします。
そして、その子もまた、学校で毎日毎日、教育勅語を暗唱する。

すると、「国家のために、いざとなったら死ぬのだ」という意識は
国全体の中にしっかりと根付いていきます。

明治以降の日本は、1895年から日清戦争、1904年から日露戦争、
1914年から第一次大戦、1937年から日中戦争、
そして1941年から太平洋戦争と、
1945年の敗戦までの間に、戦争につぐ戦争を重ねてきたのです。
(そういう時代だったのですね)

しかし、1890年から戦争に負ける1945年までの55年間、
教育勅語が暗唱され続けると、ついには敵に自ら体当たりできるまでに
軍国日本の精神が日本人に染み付いたわけです。

これが「教育」の効果です。

今、示したのはその効果を戦争に向けて運用した場合の話であって、
教育は悪いものだ、という意味ではありません。
教育は社会づくりであり、国づくりである、という証左です。



さて、私が昨今の日本に関して大きな危機感を覚えるのは、
日本人が教育の本質を見誤っているせいで、
日本人の「人間性能」が著しく低下していることです。

人間性能が低いと、人間は「本気になる」ということができなくなります。
本気とは、人間の中に装備されたエンジンのアクセルを
フルスロットルに踏むことです。

もちろん、それを悪い方向に運用すると戦争になります。
が、本気になる、そのやり方を知らないと、
これから我々が遭遇することになる社会課題、環境課題、
気候変動といった未曾有の危機を乗り越えることができなくなるのです。

私が危惧しているのは、そこです。

人間性能を上げていくのに、いちばん重要なのが「教育」です。
そして、現代の(おそらく平成以降くらいからの)日本の教育が陥り、
かつ今でも続けられている誤りを、今日は指摘したいと思っています。



皆さんは、教育というものは
どういう工程を辿るものだとお考えでしょうか。

学ぶ、とは、どういうことでしょうか。

教育は、それを受ける前よりも、
受けた後のほうが人間として考えられることやできることが
増えているようにするために行うものですね。

それが「成長」です。

学問も筋力トレーニングも、実は非常に似た構造を持っています。
人間の筋肉というのは、
負荷をかけられることによって筋繊維が傷つくんですね。
それが筋肉痛の状態です。

で、この筋繊維が修復していくことで筋繊維は以前より大きくなり、
より大きな負荷に耐えられたり、
大きな力を生み出すことができるようになるのです。

これは教育も同じで、その人が今できることよりも、
少し大きな負荷をかけることで、
初めてその人は以前よりも能力が上がるのです。

けれど、今の教育は、
子どもたちい負荷をかけてはいけないと思い込んでいます。
それは圧倒的にまちがっているんです。

そういうことを言うと、教育者とか教育研究者と名乗る人は
「無理やり教えても身につかない」とか、「子どもにも人権がある」とか、
そういうことを言ってきますね。

そんなことは百も承知なのです。

無理やり教えても身につかないからと言って、
その子たちが楽しんでやれるやり方で、なんてのは誤りなのです。

話を筋トレに戻してみましょう。
トレーニングというのは辛く苦しいことです。
それなのに、なぜそれをやる人がいるのでしょう?

試しにトレーニングジムなどに行って、そこにいる人たちに、
「苦しくないですか?」と聞いてみてください。
「苦しいです」とは答えないでしょう。

「苦しいから、いいんです」とか、
「苦しみがないと達成できないですから」という人はいるかも知れません。

でも、苦しくてやめたいです、という人はいないでしょう。
(そういう人は、本当に苦しむ前にやめてしまうのです)

どういうことかと言うと、苦しみには2種類あるんです。
物理的な苦しみと、精神的な苦しみ、ですね。
筋トレのハードワークが嫌な人というのは、運動による物理的な苦しみが、
そのまま精神的な苦しみと直結してしまっているので、
辞めたくなるんですね。

しかし、目的を達成したときの喜びというものがあって、
それを得るための物理的な苦しみが必要であることを知っている人は、
それと向き合う時の精神的な苦しみのレベルがちょっとちがうんですよ。

しかも、あるところを超えると、
その苦しみそのものを楽しむことができるようにさえなる。

その領域は、実際に存在しています。
本気になると、人はハードルを超えるための心の苦しみは
あまり感じなくなるのです。



このことを教育、もっとわかりやすく「勉強」に当てはめてみましょう。

勉強が嫌だと思っている子は、端的にいえばその勉強をすることで
どんないい気持ちになれるかを知らない子だ、ということです。

いい気持ちというのは、テストでいい点をとるとか、親に褒められるとか、
志望校に合格するとか、はじめはそんな動機かも知れません。

しかし、大切なのは勉強をする物理的な苦しさを超えた先に
「満足」というものがあることを知っていると、
そのために勉強ができるようになり、ついには勉強すること、
学ぶことそのものを「楽しい」と感じるようになるわけです。

自らの意志で「もっと知りたい」「もっと学びたい」と思うようになる。

そうなると自分に負荷をかけることそのものを
楽しめるようになってくるのです。

負荷なのだから、当然やっているときはニコニコなんてしてません。
苦しい表情かも知れません。
でも、自分に負荷をかけることを楽しんでいるのだから、
そういう状況に前向きなわけです。

人は本気になると、その領域に達します。
そして、その領域があると知っているか、知らないかは、
その人のその後の人生の濃さそのものにかかわってしまいます。

ここ、重要です。

つまり、教育者がなすべき本質というのは、
「教育を受ける人が、楽しんで自らに
負荷をかけられるようにすること」なのです。

そういう人間になるように育てるということ。

学ぶことって、本当に楽しいと私は思っています。
学びというのは学校で教わる科目ばかりではありません。
いろんな場所に「学び」は転がっています。

けれど、学びの楽しさに気づかなければ、
人生を豊かにしてくれるそんなものたちと出会うことができません。

人類にとって、それほどの損失はないのです。

子どもたちが興味関心を持つために、彼らの好きなことをやらせる。
そういう方針で何をしようとしているのか、私も理解はしています。
でも、そのやり方では、なかなか気づくことは難しいでしょう。

苦しいことの先に、最高の喜びがある。
それを知ると、苦しみは苦しみでなくなる。

これが「学び」が辿るルートだからです。
そしてその「苦しみの先に存在するもの」を目指す過程の中で、
「人間教育」がなされていくわけです。

子どもたちは、最初から解をわかっていて取り組むのではありません。
得られるものが何なのか、
わからないのに取り組むことに意味があるのです。

「なんのためかわからない」ということを突き詰めていくと、
あるときパッと目の前が開ける瞬間がある。
「そういうことか!」と。
その体験を通じて初めて、「あれは無駄じゃなかったんだ!」と知る。
学びの本当の意味を知るのです。

だから、その工程を別のことに当てはめて、
結果の約束されないチャレンジに
挑戦することができる人間になるわけです。

教育者がすべきなのは、その伴走です。
学んでいる時、子どもが笑っている必要も、楽しんでいる必要もない。
喜びは、その後で、自分の力で到達したときに知るものなのです。
その体験をさせて、覚えさせるのが教育の役割です。

自分で考え、自分で知ることができなければ、
その力を子供時代に身につけることができなければ、
その子は大人になっても大人の人間になれません。

そんな人間にしてしまうことは、人権を奪うことではないですか?
大人と子どものちがいは、経験です。
この先どうなるかをわかっているなら、
その子を好きにさせるだけの方が人権無視だと私は思います。

ちゃんとした人間になるチャンスを、大人たちが奪っていないか、
よく考えてみるべきです。
あなたの愛する子が、「何もできない人間」にならないために。

この日本社会を「何もできない人間の集団」にしないために。

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