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嘘で塗り固められた五輪からのメッセージとは。

さて、いよいよ曰く付きの五輪が開幕しました。
SNSという場所では、普通は「いい人」でいることが
特に日本では規定の条件のように感じられるフシがありますが、
私の発信は「日記」ではないものの、
そのときどきにどのような思考をしていたか、という記録でもあるので、
東京オリンピック2020についての、今の気持ちを書いておきます。

「やっぱり、嘘はいけないな。」

それが、この五輪を思う気持ちを一言で言葉にしたものです。
私なりに生きてきたこの50年を振り返っても、
やはり誠実さを欠く態度というのは、いけないことだと思います。

あくまでも個人的な発信の範疇でしたが、
私は2013年の招致以来、ずっとオリンピックの開催には反対でした。

その理由は、この五輪が、動機の段階から
嘘で塗り固められたものだと思っていたからです。

その「嘘」とは、「復興五輪」のことです。
オリンピック招致が決定したのは2013年のことです。
それはあの東北の震災が起きてから、たった2年後のことで、
東北はお祭りどころではなかった。

しかも復興とは物理的な部分と心理的な部分があって、
心理的な復興にたどりつくには、
国との信頼関係を築き上げることが前提であると思われるわけですが、
2012年に政権を得た自民党は、被災地の復興そのものではなく、
自分たちの人気固めと経済的な打ち上げ花火に力を注いだわけです。

復興を進めつつ、被災地でない場所の人々にも
多少、明るい気持ちが増えるならそれもまた可だったかも知れませんが、
東京五輪招致のおかげで
人的面、物理的面の両方で、復興は遅れることになったのです。

私は、当時から被災地に関わってきたので、
この「浮かれたお祭り」には心の底から嫌悪感を持っていました。

いま、この有様を見るにつけ、思うことは、

「復興五輪が本当なら、東北オリンピックにすべきだった」
ということです。

なぜ復興五輪を東京でやるのか。
そんなことを誰一人口にしませんでしたが、
これはつまり、最初から全てが嘘だらけだったということなのです。

あってはならないことですが、
たくさんの人命が失われたあの震災を、
政府は、日本人は、金儲けの口実に利用したということです。

それが現実なのです。

私はブエノスアイレスで行われた、
あのおぞましい招致のスピーチの数々と、
オリンピック招致決定のお祭り騒ぎを見たときから、
2020年がやってくることを恐れ続けていました。

オリンピックは2020年ですが、震災から10年目の年は
その翌年にやってきます。

日本は2020年の秋口以降は恐ろしい不況の底に堕ちると予想できたので、
名実ともに、震災が利用されたということが
あからさまになるのだろうと感じていました。

そんな2020年の初頭に、このパンデミックは起きましたよね。

私は、(そんなはずはないとわかっていても)
このパンデミックは日本人に何かをメッセージするために
起きたのではないかと感じてきました。

あの巨大地震と津波、未曾有の原発事故を経ても、
それでもあっという間に「何が本当に大切なのか」を
忘れてしまう日本の民に、
「人間の誠実さを無視した、いい加減な態度は許されないものだ」と
理解させるためなのだ、と。

もちろん、本当にはちがうと思いますが、
少なくとも日本人である我々は、そう解釈しなければいけないはずだ、と。

かなり多くの人が無邪気に楽しみにしていたオリンピックは、
パンデミックによって1年延期になりました。

そして1年後の今、やはり想定したことは
なにひとつできないカタチで、いま、開催されるに至りました。

あのとき、あの招致のとき、声高に語られたことは、
ただのひとつも実現しません。
高すぎる入場券を買った人も、子供たちも、
何の恩恵も受けられないことが決まりました。

原発はアンダーコントロールではないし、
日本の夏は温暖では決してなく、
アスリートがベストパフォーマンスができる理想的な季節でもない。

あの文章は安倍晋三が自分で考えたはずはなく、
誰かがオリンピックを日本で開くがために、
「本当ではないが嘘ではないだろう」という程度の想像で作った嘘の、
その化けの皮がどんどんはがれていっているわけです。

それどころか、日本人に「おもてなし精神」さえも存在しない。

ロゴ問題、国立競技場問題に始まり、
札幌での開催、水質汚染、
そして、開会式を目前にしたここ数日でさえ起こり続けた
たくさんの関係者の辞任劇。(死者も出ましたね)

私が思うに、これが今の日本の本当の姿なのです。

90年代以降の、平成の日本は、もうすべてが否定されているのです。
勢いに任せてテキトーにやってりゃなんとかなる、という時代は、
もうとっくに終わっているのです。

気づいていないのは、当の日本のオトナたちだけです。

先の戦争の後、できなかったことですが、
今度こそ、これをきっかけに、
日本人自身の手で自分たちを振り返り、総括し、
自分たちの未来を真剣に考えなければならないときです。

この腐りきったオリンピックをそのきっかけにできなかったら、
もう日本人にはチャンスはないでしょう。

最近、五輪を楽しみたいという人の意見として、
「自国開催の五輪は生涯で最後かも知れないから」
という言葉をよく目にします。

前回は1964年でしたから、2020年まで56年。
人生100年時代が本当なのなら、
多くの人にとって、これは最後の日本のオリンピックではないでしょう。

しかし、私は思うのです。
このあと、国の在り方を抜本的に変えることができない場合、
日本国民は、これからの五輪招致には全力で反対しなければならないと。

また、そうなるだろうと思います。

この緊急事態の中で、西村大臣が酒類を提供する店に
金融機関から(具体的には銀行から)、圧力をかけてもらうという
奇策を発表したことがありましたね。

国中からの大ブーイングを受け、実行はされませんでしたが、
金融機関そのものも賛成しなかったそうです。

その理由、わかりますか?

銀行は、人にお金を貸して、その利息で儲けています。
つまり、誰もお金を借りてくれなかったら、銀行は稼ぎがなくなる。

日本は今、30年つづくデフレを脱却するために、
異次元の金融緩和で日銀当座預金を増やし、
民間銀行がお金を貸し出せるように準備をしました。

でも、誰もお金を借りに来なかったのです。
それがアベノミクスの失敗のひとつなわけです。

では、なぜ日本人は銀行にお金を借りにこないのか?
もちろん、不景気でお金を返せる確証がないから、というのがひとつです。

しかし、もうひとつあります。
それはバブルとその崩壊のときの
「銀行のやり方」を経験しているからです。

あのバブルのとき、銀行は人にお金を貸したくて、
お金が必要ではない人に、無理にたくさんのお金を借りさせたのです。
そして土地を買わせた。それでバブルは起きた。

でも、日銀がバブルに歯止めをかけるために金利を上げると、
銀行は掌を返したように、貸した金の回収に走り(貸し剥がし)、
たくさんの中小企業が倒産し、たくさんの誠実な人が首を括ったわけです。

その実体験が、今の日本人にはある。

だから、普通の日本人が銀行から
お金を借りることはまだまだないでしょう。
「銀行のやり方」を知ってしまったのですから。

もうあんなことはしませんといくら言ったとしても、
怖くて信用できません。

お酒を提供するお店を経営する人たちは、
銀行にとって「お客様」なのです。

そんな中で圧力なんかかけたら、銀行の信頼は再び大きく損なわれます。
政府や官僚たちは、そんなこともわからない連中なのですね。
それは、彼らが「上から国民を統治する」という感覚で
行政に携わっているからです。

なぜバブル後の銀行の話を持ち出したかといえば、
今回の五輪で我々が日々体験していることは、
そういう「遺恨」なのです。

政府や、国や、自治体の「やり方」に対する遺恨です。

まだ、やっている側はそれを理解できていないでしょう。
なにしろ、今回は五輪貴族の本当の態度までもが明らかになりました。

これから2週間がすぎた後、この国がどうなっているのか。
日本人の精神レベルはよくわかりませんが、
もし少しでもまともな部分が残っているなら、
きっと日本でオリンピックが行われることは、
向こう70年くらいはないでしょう。

この数字は、先の戦争が終わってから、
市民の中から好戦論者が生まれるまでの時間から推測しています。

そういう意味では、今回の五輪が、
生涯最後の日本の五輪かも知れませんが、それでいいのです。

さて、それでも五輪は取り行われます。
私の気持ちとしては、
出場するアスリートは頑張るしかないから、頑張って欲しい。

現場で大会を支える人々、
決して自分の意志でやってるわけじゃないだろうし、
感染リスクもあるわけですから、やはり安全第一で頑張って欲しい。

けれど、五輪を決め、突き進んできた上層部には永遠に賛同しないし、
この五輪は今からでも中止すべきだ、というのが、私の意見です。

もちろん、観たい!楽しみ!という人の気持ちは否定しません。

それぞれの考えがあるべきです。

しかし少なくとも、この五輪によって、
五輪そのものの本質や日本という国のレベルが明らかになったと思うし、
現代を生き、未来を次の世代に手渡す義務のある我々は、
この社会の修復に対して課題が山積だ、という認識だけは、
すべてのオトナたちと握りたいとは思います。

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