歴史修正もここまでくると異常だ。
先日、ウクライナ政府が作ったロシアの横暴を訴える動画の中で、
全体主義やナチズムは1945年に打ち負かされた、という言葉とともに、
ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニ、
そして日本の昭和天皇の写真が出てきました。
それを見た様々な日本人が(政治家も一般人も)これに抗議し、
ウクライナ政府は謝罪をした上で急遽、動画を修正しました。
そこには同じ言葉が添えられた上で、
ヒトラーとムッソリーニの二人だけが写っていました。
もちろん、私たちにとって身近に感じる裕仁天皇が、
よく映像などで見ることはあっても決して身近ではなく、
しかもいいイメージで語られることの一切ない
ヒトラーやムッソリーニと同列に並ぶことはショッキングです。
私自身もショッキングでした。
でも、それは受け入れるべきショックなのであって、
決して蓋をしてはいけないものだと思うのですが、
皆さんはどうお感じになるでしょうか。
※
歴史修正主義とか、歴史修正主義者という人たちがいます。
いま、一般的に言われている歴史を、
「本当はこうだったのだ」と主張する人たちの中でも、
第二次世界大戦、太平洋戦争の正当性を語る人を
主にこのように呼んでいると思います。
彼らの多くは太平洋戦争を大東亜戦争と呼び、
その正当性を訴えますし、戦後の日本の歴史観を、
敗戦国としてGHQに押し付けられたものとして批判し
それを「東京裁判史観」と呼んでいます。
私は、どちらの意見が正しい、ということは思っていません。
東京裁判史観は実際に存在するだろうし、
時間が経てば歴史的な事実がわかってくるということは
あって当たり前です。
歴史というのは、その事象を見つめる人の人数分の解釈があって、
戦でいうなら、勝った側、負けた側の歴史があり、
戦った側、戦わされた側、犠牲になった側のそれぞれの視点がある。
それらはすべてが総合されて、ひとつの戦争という事象なのだと思います。
だから、いろんな意見があるのは当たり前で、
そのうちのどれかひとつが正しいのである、というスタンスは
基本的に誤った道へ進む原因となるでしょう。
例えば、日本の戦争ひとつとってみても、
天皇の立場もあれば、当時の政治家の立場、
高級軍人の立場、実際に戦地に向かった兵士の立場、
指揮官の立場、我が子を兵隊に取られた母親の立場など、
すべての意見はちがうし、それらはすべて一次情報だからといって、
その人が言ったことで戦争全てを語るなんてできない。
できるはずもないのです。
東京裁判史観がまちがいだというなら、司馬史観はどうなのか?
薩長史観はどうなのか?
すべてが誰かの主観的な意見でしかないのです。
明治維新で江戸幕府を倒し、明治政府のつくった日本社会が
今もつづいているという正当性を主張する薩長史観があるというなら、
世界大戦に敗れ、敗戦国となった立場から築き上げた社会、
東京裁判史観を正当と思う史観があってもいいはずです。
もっと言えば、明治以降の日本は
江戸幕府時代の人々の意見を封印してきたわけですから、
東京裁判史観を否定するなら、薩長史観も否定して、
江戸幕府の立場の人々の意見だって聞かなければいけない。
そうですよね?
そう考えると、唯一の歴史解釈なんてものは存在しておらず
いろんな解釈が存在することを認めあうしかないのだと気づくのです。
※
東京裁判史観に異議を唱える歴史修正派の人々の主張に、
同意できる部分だってあるのです。
でも、賛同できる部分があったとしても、
そのすべてを受け入れるというのは
不自然だと感じるわけですね。
例えば、あの戦争は避けることができなかったとしましょう。
避けることができなかったから、日本は正しい、
ということにはなりません。
避けることができなかったから、
日本は全体主義ではなかった、なんて言えません。
それとこれとはまったく別のことだからです。
仮に太平洋戦争はハルノートによる最後通告を受け、
アメリカを中心としたABCD包囲網に
より追い詰められたことが原因だったとしましょう。
おそらくそうなのだと思います。
また、アメリカでは、戦争参加に反対する世論と、
イギリスからヨーロッパ戦線に参加して欲しいという要望の間で、
ルーズベルトは戦争参加の理由を探していたわけで、
そういう意味で、
日本に意図的にどこかを攻撃させて国民世論を好戦的にし、
それを受けて大戦に参戦するという筋書きはあったのでしょう。
真珠湾攻撃は事前にバレていたという証拠が残っているわけですしね。
日本ははめられたといえば、はめられたのです。
でも、その前から中国には侵攻していましたからね。
太平洋戦争は「やむにやまれぬ」だったかも知れないですが、
でも、そのことと、戦前の日本の体制がどんなものであったか、
ということや、旧日本軍がアジアを中心にどんな戦い方をしたか、
ということは無関係なのですよ。
日本軍は天皇の皇軍だから、戦地でもおかしなことは一切しないなんて、
そんな聖人だったらそもそも戦争をしないでしょう。
朝日新聞の従軍慰安婦の記事そのものは事実に即していなかったとしても、
それで「従軍慰安婦はいなかった」ということにはならない。
戦地に赴いた兵士だって、ひとりひとり別の人間です。
喜んで行った人もいれば、嫌だった人もいる。
虐殺を行った人もいれば、そんなことはしなかった人もいる。
その中のたった一人の意見で、すべてがそうだったなんて言えないのです。
戦後、朝鮮戦争に絡んでダグラス・マッカーサーは
日本は防衛のために戦ったと議会で証言しています。
その記録も残っているわけです。
でも、この一人の人間の一言の証言だけで、
あの戦争のすべてを決めることなどできないのです。
マッカーサーにはマッカーサーの思惑だってあるのですからね。
「そんなこと言ったらきりがないだろ!」と思いますか?
そうです。きりがないのが現実なですよ。
そこを無視してはいけないのです。
戦争が避けられなかったからといって、
沖縄戦で軍人が民間人を殺していい、ということにはならないし、
国の命令で特攻をする、という戦い方や、
ろくに兵糧もなく地獄の進軍をさせられたインパールなどは、
絶対に肯定されないと思うんですね。
「避けられなかった=正しい」では決してないのです。
その辺りは、しっかり切り分けて考えるべきじゃないでしょうか。
※
先日、ジョージ・オーウェルが書いた「一九八四年」を読みました。
今更、という感じですが。
気になって、買って、ずっと手元にあったのですが、
重苦しい雰囲気を感じて、読んでいなかったのです。
しかし、ロシアで、この本をただで配布している男性が逮捕された、
というニュースを聞いて、今読まなければ、と思って読みました。
その話の主人公、ウィンストン・スミスは、独裁国家の党に属し、
書物、写真、映像など、あらゆるメディア情報などについて、
党に都合のいいように過去の歴史を
どんどん修正・改ざんするという仕事をしています。
あった出来事を最初からなかったことにしたり、
存在したはずの人物を最初から存在しなかったことにしたり。
そういう作業をするわけです。
恐ろしいことですが、先ほどのウクライナ政府がつくった動画の件、
同じことが起きていると思いませんか?
私がかなり危惧を感じたのは、この件についての磯崎官房副長官の会見で、
産経新聞の記者が質問をしたのですが、
その内容が看過できないものだったのです。
「今回の件で先の大戦をめぐりまして、日本がナチズムですとか、
全体主義国家だったという、誤った認識が
国際社会に未だ根深いことが証明されたと思うのですが(以下続く)」
この質問はどういうことなのでしょう。
また、ニコニコの記者の同様の質問に対して、磯崎官房副長官は、
「ヒトラーとムッソリーニと昭和天皇を同列に扱うということは
まったく不適切であり、極めて遺憾と考えている」と答えました。
仮にあの戦争は避けられなかったとしても、
戦争に負けるまでの日本が全体主義の国だったことは明白であって、
しかも「大日本帝国」と名乗っているのです。
帝国とは、外国に侵攻し植民地化する国のことを指す名前です。
もちろん当時はそれがいけないこととは思われていなかったから
堂々と名乗っていたわけですが、
私たちの国は「大日本帝国」を名乗って、大陸の国々を
手中に入れようとしたことはまちがいないわけですよね。
もちろん、いろいろな美辞麗句による言い訳はするでしょう。
でも、時代的に帝国主義は珍しいものではなかったわけなので、
そこを否定することはできません。否定しなくてもいいのです。
また全体主義の反対は個人主義ですが、
戦前の日本には基本的人権という概念は存在していないし、
女性に関しては人権がゼロだったという事実をふまえても、
決して民主国家ではなかったわけだし、
日本軍の戦いかた、戦わせ方などを見ても、全体主義だったことは明らかで、
だからこそ良し悪しは別としても戦後の平和国家社会の中では
全体主義は嫌悪されてきたわけですよね。
ですから「普通に」考えて、全体主義が誤った認識だなんて、
そんなことはありえないでしょう。
こういうのを「一九八四年」的な歴史修正主義というのだと思います。
実際にあったことまでもを「なかった」とする。
しかも自分に耳障りの悪いことは大嫌いな現代日本人です。
都合のいいことだけを信じたい現代日本人です。
へたすると、こんな言説を信じてしまいかねません。
あの戦争が仕組まれていて、避けられなかったものだったとしても、
日本はドイツ、イタリアと三国同盟を締結していた。
この歴史的事実は変えられません。
第二次大戦は、その後の東西冷戦とちがって、
資本主義と社会主義のイデオロギーの戦いではなく、
民主主義と全体主義の戦いという様相があったわけです。
だから負けた後、民主化されたわけですよね。
第二次大戦中、社会主義や共産主義は「経済の対立軸」ではあっても、
アメリカの中にだって存在していたのです。
対立軸はそこじゃなかったんですね。
だからこそ米英仏ソが連合軍側だったわけじゃないですか。
そして日独伊という3つの独裁国家は、連合軍からみて枢軸国と呼ばれ、
そこには全体主義(ファシズムですね)を標榜するリーダーとして、
ヒトラー、ムッソリーニ、ヒロヒトは世界で並び立っていたのです。
すくなくとも、のちに戦勝国となるそれらの国々からはそう見えていた。
天皇の戦争責任はなかった、ということにしたのは、
戦後統治をやりやすくするためのマッカーサーの戦略であって、
本当に責任がなかったなんて、ありえないわけです。
だって、唯一の主権者だったわけですからね。
たとえ本人は個人的には戦争に反対だったとしても、
そんなことは関係ない。
責任者というのは責任を持っているから責任者なのです。
私たちがくらすこの日本は、全体主義チームの一員として
国際社会と戦い、他の国が敗北してもなお、
一億総玉砕をかかげて全世界を敵に回して最後まで抵抗し、
その結果、今でも国連の敵国条項を破棄されていないのです。
これは修正しようのない現実です。
そもそも一億総玉砕、なんて、全体主義だと言っているのと同じです。
もちろん、戦争には複数の視点がありますから、
日本から見た景色というものはあります。
しかし連合軍から見た景色もあって、
それを「嘘」とはいえるはずがないのです。
※
私が危惧するのは、このような事態を放置していると、
そのうち日本は「敗戦」そのものさえ否定しかねない、ということです。
私たちが生きる世界は、言語、言葉でできている「概念」です。
日本が戦争に負け、ポツダム宣言を受け入れたこと。
そういう証拠は世界中に残っているでしょう。
しかし、そんなものは嘘なのだと政府が言い、
国民がそれを信じたならば、少なくとも日本の中では、
「敗戦などしていない」ということにはできるのです。
実際、そのようなことがここ10年ほどで、たくさん起きてきています。
大きな嘘は、つきつづければ本当になります。
なぜなら過去は記憶の中だけに存在し、
その部分が改ざんされれば、それが本当になってしまうのです。
中国で1989年に起きた天安門事件は、
中国の中では一切なかったことになっています。
一切のメディア情報から削除され、
そのことの言論そのものが許されていません。
今は「そういうことがあった」という人がまだ生きていますが、
そういう人が死んでいけば、脳の中の物理的な記憶情報は消えます。
その他の情報は改ざん、隠ぺいされれば、そのうち消えていくのです。
サンタ・クロースは本当にいるのか? という問題は、
「いるということにしておこう」という暗黙の取り決めによって、
我々の脳内だけで判断されています。
それと同様に、天安門事件はあったのか?も、
「なかったことにしておこう」と暗黙で決めれば、
しかもそこに手をつけると命が危ない、ということになれば、
皆、そこからは目をそらし、そして時の流れの中で
「どうでもいいこと」になっていくのです。
大人にとって、サンタ・クロースがどうでもいいことのように。
※
日本の歴史修正主義は、かなり恐ろしいフェーズまで来ています。
放置すれば、愚かな道を再び歩み始める可能性があります。
なぜなら、彼らは、かつてのその道を
「愚かな道」とは思っていないからです。
日本は「神話」という壮大なフィクション、
つまり歴史修正に根源を求めて来た国です。
だから、ろくに遺跡の発掘調査もできないほど闇が多い。
このことを、現代を生きる私たちはどう捉えるべきでしょうか。
私は、フィクションをフィクションだとわかりながら、
大切にするというスタンスはありだと思っています。
神話は信じていないが、
かつて信じていたということを認識する、という意味です。
それにしても、この国は闇が深く、
そしてその闇に当の日本人が無関心である、という
本当に不思議な国だと思います。
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