【エッセイ】厨二病が治ってから学ぶ目のはなし

 高倉は目が悪い。視力は辛うじて0.1 あるかないかだ。小学生の頃から眼鏡をかけていて、目が良かった頃の記憶は無いに等しい。高倉の世界は常に、眼鏡で補正されなければはっきりした輪郭を持たない。
 しかし、それは視力に限った話だ。高倉は普通の人よりも視力こそ悪いが、普通の人には見えないものが見えているのだと、中学校の理科の授業を受けて以来確信している。

 草食動物と肉食動物では、目がついている位置が違う。シマウマやキリンといった草食動物は視野を広く持つ為に目が横についていて、ライオンやトラのような肉食動物は立体視野を得て狩りの精度を上げるために目が前側に並んでついているのだと、中学校の教科書は図説している。人間は肉食動物同様、目が顔の前面に並んで付いている。人間って肉食動物って言っていいのだろうか。縄文人はマンモスを狩っていたというし、その頃の名残だろうか。
 目が前面に並んで付いていることで立体視野を得ることができる、ということを実感するために、理科の先生がある実験を提案した。二人一組になって(学校生活においてこの工程ほど忌むべきものはない)、一人はペンを机に立てて持つ。一人は片目を隠して、もう一本用意したペンを握って手を上げる。そして、握ったペンの先が、机に立てられたペンの先に合わせるように下すのだ。立体視野がある状態、所謂奥行を認識できる視野があればペン先は簡単に合う。しかし片目を隠していては立体視野が失われているので、ペン先は見当違いの場所に振り下ろされる。
 これは再現性の高い実験だった。あちらこちらの席から「えー!ほんとに合わない!」「変なとこいくー!」「不思議ー!」と声が上がる。先生は満足げにニヨニヨ笑っている。片目では奥行を認識できない。
 しかし、高倉はこの限りではなかった。左目を隠して、右目だけで捉えた視界でも、振り下ろしたペン先はきちんとペン先に出会った。あまり者同士で組まされた男子の、名前はもう全然覚えていないが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔はいまだに覚えている。
 右目、左目、どちらを隠しても高倉の立体視野は失われなかった。否、立体視野が無くても奥行を検知できていた? 視界ではない何か別の要素でもって距離感を測った? 中学生の高倉には分からない。しかし、高倉が異質だということはしっかりと分かった。異質。特異。思春期真っただ中の中学生にとって、これほど自己肯定感が上がることはない。

 例えばこの時、自分の視界が異質だと信じ込む前に、教科書の言説は果たして本当に正しいのだろうか、と疑うことができていれば、高倉は今頃視覚研究者になっていたかもしれないと、マーク・チャンギージー著「ヒトの目、驚異の進化」を読みながら考えた。

 曰く、自然界に実在する単眼の動物はミジンコくらいだが、単眼視の視界は気軽に体験することができる。例えば、一人称単視点のシミュレーションゲームだ。液晶に映るのは、手に銃を持ちゾンビに立ち向かう兵士の視界だが、しかしそれは兵士の両眼視野でない。カメラはひとつだ。この時体験できるのが、単眼の視野。そして奥行は失われない。奥行が分からなければ、ゾンビが「迫ってきている」を認識できない筈だ。
 つまり立体視野を得るにあたって、両眼視は必須ではなかったのだ。今まで信じてきた常識が瓦解する。
 そして本は、両眼視野によって得られる透視能力について言及している。
 視界に入る筈の鼻が、しかし視界を全く邪魔しないのは、右目と左目がそれぞれ鼻の影になって見えない部分をカバーしているからであるらしい。確かに、片目を閉じれば鼻の影が見える。両目の感覚よりも狭いものであれば、両目がそれぞれ影の向こうを見透かしてくれるというのが、両眼視野の透視能力であるらしい。

 韓国のPOV映画「コンジアム」を思い出した。心霊スポットである森の中の廃病院を荒らしまわる愚かユーチューバーたちを題材にしたホラー映画だ。終盤、ハンドカムを片手に森の草木をかき分けて逃げ回るシーンがある。視界の殆どが草木に阻まれて、不安を掻き立ててくる。
 例えば高倉自身があの草むらをかき分けていたとしたら、草木はあんなに邪魔くさくなかったのだろう。両眼視野は細い草木を透視する。ハンドカムは単眼なので透視せず、あんなに視界が悪かったということだ。なるほど、なるほど!

 片目を瞑って、ペン立てのボールペンに向かってシャーペンを振り下ろす。やはりペン先はきちんとボールペンに当たった。奥行きが見えているのだから当然だ。だが、片目を閉じている所為で鼻の向こう側が見えない。当然だ。高倉の視界は人並みで、特異でも異質でもない。
 中学生の頃に拠り所とした個性を失った視界は、それでも広く、果てしない。

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