記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

映画「復讐するは我にあり」の「いいなぁ……」について

※ネタバレを多分に含みます※


「復讐するは我にあり」
原作:佐木隆三
監督:今村昌平
主演:緒形拳

映画を観たので感想を書きます。
1979年公開。実際に起きた連続殺人事件を本歌取りに、佐木隆三先生が執筆した小説を今村昌平監督が映画化した作品。リアリティが強い仕上がりで、映像から昭和初期の空気感がひしひしと伝わってくる。登場人物全員人間味が強いというか、演技がうまい。演技を演技と感じさせないくらい演技がうまい。すごい。
昭和の不幸がとんでもなく濃くて、昭和に生まれずに済んだ幸福を改めて噛み締めるなどしたのも、連続殺人犯榎津巌の振り切ったクズぶりが良いのも、敬虔なキリシタンであり榎津巌の父親榎津鎮雄が榎津巌に引けを取らないクズなのも、榎津巌の嫁榎津加津子が痛々しいほど官能的だったのもツイッターで言ったので、此処ではツイッターで言うのがちょっと憚られた「いいなぁ……」の話をします。
本編通して心地良い瞬間がほぼ無い中で私が「いいなぁ……」となったのは、浅野ハルが榎津巌に絞殺される一幕。浅野ハルは榎津巌が身を寄せる浜中の旅館の女将であり、殺人の前科がある浅野ひさ乃を母に持つ。前科者の娘というだけで虐げられレイプもされる、なのに大声で助けを呼ぶこともできない、弱くてかわいそうな娘。
浅野ハルは榎津巌に想いを寄せていて、榎津巌が殺人で指名手配をされていると知っても尚彼を匿う。そんなことしなきゃいいのに、榎津巌の人懐こい笑顔や優しい物腰は殺人犯という欠点を補って余りあったんだろう。大学教授の顔をした榎津巌は結構紳士なので……仕方ないな絆されちゃうよな……。
浅野ハルは榎津巌の子供を望むほど榎津巌に入れ込む。支配と凌辱と暴力の色しかないセックスばかりが展開されていた本作において、浅野ハルの「子供欲しい……」という囁き声とともに行われるセックスには愛のようなものがあった気がする。榎津巌がどう思っていたのかはさて置いて、浅野ハルはどうしようもなく榎津巌を愛していた。
子作りセックスをした次の幕で、榎津巌は浅野ハルの首を絞める。よくあるエンタメのセオリーだと浅野ハルの愛に榎津巌の凶暴性や邪悪性が浄化されて、榎津巌が二人で一緒に暮らしたいとか思ったりする流れだろうに、そうはいかない。榎津巌が浅野ハルの首を一度絞めて、一旦離し、二人が見つめ合う。泣きそうな顔をした榎津巌に、呼吸を取り戻した浅野ハルが「遠くへ」と囁く。そして榎津巌は浅野ハルに口付けながら、絞殺する。苦しそうに四肢をばたつかせた浅野ハルはやがて動かなくなる。榎津巌は自分の着物を脱いで浅野ハルの股のあたりを拭い、遺体を押し入れに隠す。
この幕、ここで殺されてしまう浅野ハルに、私は「いいなぁ……」と思った。「いいなぁ……」と言いながら泣いてしまった。愛した男にあんな風に殺されるのは本望じゃないか。愛した男の手で地獄から解放してもらえる、これ以上の幸せなんて無い。
榎津鎮雄は榎津巌を「恨みのなか人しか殺せん種類たい」と言った。事実、榎津巌が一番殺したい人間は榎津鎮雄であり結句殺せていない。榎津巌と同じく殺人をしたことがある浅野ひさ乃も、榎津巌はどうでもいい人間しか殺せないのだと看破していた。その理論だと、榎津巌は浅野ハルを何とも思っていなかったのかもしれない。何の思い入れもなくただそこに絞めて殺せそうな首があったから絞めただけなのかもしれない。榎津巌が人を殺す理由は本編通して語られない。
でも、どうでもいい人間を殺すというのにあんな切実な顔をするだろうか。リアリティを突き詰めた土臭い世界観の中で、この一幕だけ異様に美しいのに。
これは私の解釈に過ぎないのだけれど、榎津巌は浅野ハルを愛していたのではなかろうか。殺せなくなるほど愛せなくなってしまう前に、自分で浅野ハルを殺しておきたかったのではないか。人を殺すのは簡単で、結構誰にでもできる。虐げられやすい立ち位置にいる浅野ハルは尚更だ。
自分以外の誰かが、彼女の首を絞めてしまうのが、恐ろしかったのではないか。
あくまで仮説であり私の解釈だ。物語を通して軸足になっている榎津巌と榎津鎮雄の父子関係に注視したら、浅野ハルを殺した理由は自分に子供ができる恐怖や嫌悪故に見えるし、そもそも彼が理解の及ばない殺人鬼だと言ってしまえばそれまで。それは分かっている。

「復讐するは我にあり」は決して幸せな物語ではない。色濃い昭和臭が立ち込める舞台の根底には常に「この世は地獄だ」という価値観が流れている。この世が地獄なのは昭和に限ったことじゃなくて、平成だって令和だって形を変えて価値観を変えて地獄であり続けるんだろう。
この世から解放してくれる手段が死であるとして、死をもたらす殺人鬼は天使になり得るだろうか。破滅的な思考かもしれないが、少なくとも浅野ハルにとって、榎津巌は救済だったと思えてしまう。羨ましい限りだ。
いつか私に死をもたらす誰かも、死んだ私の粗相を自分の服で拭ってくれる人だと、いいなぁ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?