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自分的なテーマ・スローガンを言語化してみる

記: 2024.1.23(FBより転載)

最近、自分のモチベーションの源泉って、どこにあるのかなーと考える機会が多かったんですよね。振り返りとして。

僕は、東日本大震災で目にした「人の善意の連鎖」を再現できるビジネスを作りたいと願って、Huber.を起業したんです。その背景経緯はこちらにまとまってます。(第3回まであるロングインタビューでした)
http://cogitoworks.com/hondana/interview/2017-04-13.htm

でもその要素だけだと、どーにもしっくりこないな、と感じるようになってて。言語化できないかなーと思ってたんです。

で、考えてたんですが…
・人と地域の可能性を解放する
・人や地域の可能性を諦めない


こんな言葉が、一番しっくりくるなと思いました。

僕は思うんですよね。
人はそれぞれ「偏りという個性」を持って生まれる。その偏りは「眺め方次第」で、意味を大きく変えるのだと。一見、デメリットにしか見えないような偏りでも、その偏りの反対側に、人の才能は育まれていく。逆もまたしかり。個性に良いも悪いもないのだ、と。

で、地域とは、そんな人が集まり、紡ぎ、積み上げてきた営みの上にあるもので。同じく「偏りという個性」を持ってる。それだって「眺め方次第」で価値になる。
そして不便な地域であるほど、その不便さが、"その地域らしさ"を守ってくれていたりします。
そしてそんな体験に触れることこそ、例えばインバウンド観光客の方々にとっては求めてるものだったりする。価値は届ける人によって変わるんです。面白いですよね。

観光って「光を観る」と書きます。
人や地域の中に眠る「個性という光」をみつけ出し、その可能性を解放していく。どんな大変な出来事があったとしても、その現実を捉え直し、価値に変えていく。僕にとっての「観光事業」とは、そういう営みなのだ、と、改めて腹落ちしました。

観光事業を通じて
一人でも多くの人や地域の可能性を解放し
笑顔溢れる持続可能な未来を創り上げたい


振り返りって大事ですね。

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2024.6.20 追記
太陽の塔で、自分の「魂の欲動」に
出逢えた、というお話

友人の薦めでドキュメンタリー映画「太陽の塔」を観て、芸術家 岡本太郎氏がそこに込めたメッセージに強い感銘を受けてから2年。念願叶って「太陽の塔」を訪れる事ができました。

そして僕は、芸術作品からインスピレーションを得るという、初めての体験をしました。言葉ではなく、存在そのものが、魂に直接語りかけてくるような体験。

太陽の塔は、僕に問いかけてきました。

"お前の欲動は何だ?"と。
"お前の剥き出しの欲動は何だ?"と。
"お前の醜くも美しい、魂の欲動は何だ?"と。

それは衝撃的な体験で。
全部を受け止めて貰えた気がしました。条件付きではなく、良いも悪いもなく…ただ自分という存在を受け止め、許して貰えた気がしました。

その瞬間、僕の心の、天の岩戸がヒラキマシタ。

清濁併せて1つ、物事は眺め方次第。
それは人間も同じく。清濁併せて人なのだ。

そんな風に思えるようになってから、2〜3年が経ちます。そして人の、その在り方、そのものが美しい。そう思えるようになったのは、ごく最近の話です。
その中庸に立てるようになってから、お陰様でだいぶ心穏やかに生きれるようになりました。けれど…僕は僕自身に対して、そういう見方をできてなかったと気付きました。

己の濁の部分…「自分本位な欲動を良くないもの」と思い込んでたことに気付きました。高尚な思想や在り方を善とし、自分本位な、矮小な欲動を悪として、ずっとフタをしてきてたんです。

自発的隷従、という強烈なメッセージが
映画「太陽の塔」には出てくるのですが
まさに僕はその価値観の奴隷になっていました。

けれどその欲動を、岡本太郎は「それこそが美しい、人間本来の姿だ」と言った。その意味が、その大切さが、太陽の塔に相対してようやくわかったんです。

そして、その呪縛から解放されました。
自分本位な欲動を持ってしまう自分を許せた。そして情けなくも強い自分本位な欲動と、冒頭にまとめたテーマ・スローガンは、表裏一体というか。根源は同じで、どちらかではなく、どちらも、僕の大切な一部なのだとわかりました。

シンクロ率100%

気分はそんな感じです。笑
スローガンを語る際にあった微妙な違和感は、すっかり消えました。今は100%の気持ちで、自分たちが成すべきことを伝えられます。

そりゃ、エヴァも強くなるわって思います。
心のモヤモヤが晴れた感じです。

道理の通らない態度や対応、何かを隠蔽してるような気持ち悪い話に出くわすと、腹を立てたり白黒を付けたくなる傾向が強い自分でしたが…今思えば無意識的に、他人に自分の観たくない部分を重ね、苛立っていたのかもしれません。


で、その欲動の正体は?

僕は人から必要とされたい人間です。
愛されたいし、居場所が欲しいって思ってる。

それは深層心理で自分自身を「弱く情けない」と思い続けているからだと、数年前コーチングを通じて気付きました。僕は愛される資格はない。無価値な人間だって。そう思うような原体験をしてきたからだと。

だから…僕は励ましたかった。自分自身を。
諦めるなって。がんばれ!って。どんな失敗だって、どんな不遇だって、諦めなきゃ逆転のチャンスはあるんだって。そうやって歯を食いしばって、頑張りました。で、いくつかの成功体験をした。生きていく自信を持てるようになりました。
だから同じような境遇に見える人や地域に対して「大丈夫、必ず道はある」って伝えたかった。だから僕は、今の生き方や仕事を選んだのだと思います。それはそれでいい。

けれど僕が見落としていたことは…
人や地域を応援しながら、同時に自分自身を励ましてたんだってこと。

あぁ俺は、人や地域のためだけでなく
俺自身のために、この仕事をしてたのだと。
人や地域を元気付けたいって気持ちと、自分自身を元気付けたいって気持ちは、繋がってたんだと。

この気付きは、一見大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、僕にとっては、過去3本の指に入るほどの大きな心の事件で。大きな変化が生まれてきてます。

経営者の心の状態と経営状況、組織は、まるで写し鏡のようにリンクします。心が荒めは社内も荒れるし、その逆も然り。心の器が整えば、事業は適切に伸びるものだと僕は思ってます。
だから今回の大きな変化が、自分の人生と、自分の分身である会社に、どんな影響を与えるのか?ここから先の我が社の未来が、楽しみで仕方ないのでした。

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