DSCF8843-2のコピー

滝巡り

檜原村。それは本土東京に残された最後の聖域、とまでいうと過言かもしれないが日光で見た色々な滝とは違った良さがあった。

滝に行って写真を撮ってくる休日の使い方は、これまでの自分の行動パターンを考えても何らおかしくはない。しかし今回は職場の人たちと行くという今までになかったパターン。

イベント的な集まりでも撮ってはいたけど、俺の中では少し立ち位置が違う。イベントで撮るのは副次的なもので、ガッツリ撮るための機材を持ち出していても撮る目的はスキルアップだ。作品と呼べるものを撮ろうという意識は微塵もない。

では自然と相対しているときはどうなるのか。間違いなく本気になっている。たぶん高校生の頃、ガラケーのカメラで空を撮るのが好きだったのがルーツになっていて、それが自然に対して特別な感情を抱かせているんだと思う。

そういうロケーションに他人と行くというのは、これまでの自分であればありえなかった。

他人が存在すると意識することは被写体への集中を削ぐ。本気で撮るべき被写体に、ましてや人智を超えたスケールを持つ自然に向き合う姿勢として、それは侮蔑であり今までの撮り方を、撮ってきた写真を否定することになる。

それをなぜ許容したのか。写真にのめり込んでいる自分を客観視したときに、「こいつ人生楽しんでるヤツみたいだな」と感じたことはあった。それが気づかないうちに現実のものになっていたんだろう。

本気で撮るべきロケーションに他者がいても、その過程を楽しめれば、それはそれで良いことじゃないか、と。もし撮れたものに納得できなければ、今度は一人で行ってリベンジすれば良い。

今度!全く同じ瞬間は二度とないと常に意識してファインダーを覗いてきたというのに!だがこの変化を俺は好意的に受け止めようと思う。

未だ積極的に生きようとは思えておらず、タバコもやめるつもりはない。それでも10年前に決めた寿命に達しようとしている今、もう少し生きていても良いかもしれないくらいには変化した。

自分のことはあまりしゃべらない。それは理解してもらえるとも思っていないし、理解してもらったところで何にもならないからだ。にも関わらず自分語りをして終電を逃すとは。

撮っているとき適度に放置してくれたのは大きい。それが無関心による放置ではないと何となく感じられたからか。こういう人たちと出会えたことは喜ばしいことなのだろう。

執着は写真に、依存はタバコにというスタンスは変えたくない。となると、どんな距離感が最適かを探すだけか。親友と呼べるまでになるのか、それはまだわからないがもう少し自分から歩み寄っても良いのではないかとは思う。

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