おかゆと先入観

先週の1月7日におかゆを食べた。七草粥を食べようと思っていたのだけれど、七草がなくて結果的におかゆになってしまっただけなのだが、新年早々面白い経験だった。

簡単に言うと、数年ぶりに食べたおかゆはとても美味しかった、ということだけなんだけれど、ちょっとだけお付き合いいただきたい。

そもそも、「おかゆ」に対してどういうイメージを持っているだろうかと考えてみる。私にとってのおかゆは、「病気のときに食べるもの」というイメージ。体の調子が良くないときに、消化に負担をかけないように食べるのが、おかゆ。だから、そもそも普段食べるものでもないし、おいしさを求めて食べるものでもないと思っていた。だからここ数年食べた記憶がないし、そもそも食べようと思ったことすらない。

しかし、数年ぶりに食べたおかゆは、素朴でありながら、滋味深い味わいで、とても「おいしい」ものだった。なんでこれまで食べてこなかったのだろうと思った。もしかすると、年齢を重ねたことで味覚が変わり、おかゆの美味しさを感じることができるようになったからなのかもしれない。それもあるのかもしれないけれど、問題は「先入観」なんだと考えている。

「おかゆは病気のときに食べるもの」。この先入観が邪魔していた、そういうことなのではないか。

これは別におかゆの話に限らない。「○○は〜するもの」「○○は〜すべき」という形で表現される先入観はいたるところに転がっている。その先入観は新鮮な経験を邪魔していることが多いんじゃないか。もちろん、先入観から自由になることなんてできない。それでも、その先入観に気づき、それを俯瞰することはできるかもしれない。そうすれば、もっともっと新鮮な経験をすることができる。もう少し厳密に言えば、新鮮な経験それ自体をもとめるのではなく、日常のなんでもない経験から新鮮さを感じることができるようになる。そういうことではないか。

1月7日に七草粥を食べる理由。年末年始で疲れた胃腸を休ませるためだとよく言われる。でもそれだけじゃないと思う。年末年始の豪華な食事。それももちろんおいしい。しかし、非日常の食事ではない日常の食事も、負けず劣らずおいしい。そう、普段気づかない日常の新鮮さに気づくためにこそ、この風習はあるのではないか。きっとそうなんだと僕は思う。

来年の1月7日までに、また、おかゆを食べたい。

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