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一人の表現者として、完成形について考える

文学フリマ広島に行ってきた。

この数年足が遠のいていたが、今日は仕事が午前中で終わったこともあり、物見遊山のつもりで出かけた。

200近いブースに、出店者の作品が並ぶ。小説、随筆、詩、短歌、俳句、紀行文などジャンルは幅広い。これほど多様な文学作品、しかも同人誌が広島に集うのは、この日ぐらいではないだろうか。

日頃は同人誌に触れる機会がないのだが、実際に会場を歩いてみると、とても楽しい。筆者自身が作品について語ってくれる。無料配布のチラシや冊子を用意している作家も多い。そして何より、本という「完成形」に触れると、表現者の本能を刺激される。

 

私は「紙媒体の時代は終わった」と思っている。それは今も変わらない。新聞はデジタル版を読んでいるが、不便さを感じたことはない。

紙の本は、どうしても欲しいものだけ買う。それは、中身の情報よりも「本」という体裁が似合うと判断したものだけだ。情報だけが目的なら、紙媒体は買わないようにしている。

だが、今日の文学フリマで少し考えを改めた。
ここに並んでいる作品は文字情報だけでなく、それぞれの作家が表現手段として選んだ形なのだ。本という体裁で、自身の作品の完成形、最終形を表している。

 

写真は、印刷して展示して、誰かに見てもらったとき作品になる。
印刷と展示の間に、額装なりパネル貼りなりの仕上げがある。

文学も、印刷して製本して、誰かに読んでもらったとき、その瞬間に作品になると思う。
「本」も仕上げの一手段だろう。

私はKindkeで作品を発表しているけれど、まあそれもいいのだが、文芸の表現の形として、自分らしい「本」にしてみたいと思った。

Kindle出版は費用がかからないし、手間も僅かだ。本にするには、組版、校正、印刷、製本と、工程が多く、また費用もそれなりにかかる。
お金をかけるのだから、覚悟もいる。
本になった後は、誰かに読んでもらうための努力もいる。
そういった一つ一つの段階ごとに、表現者として試されているというか、磨かれていく気がする。

 

文学フリマで見た本は、書店に並んでいてもおかしくないほどの立派な装丁のものから、コピー用紙を綴じたシンプルなものまでさまざまだった。装丁が良い作品に惹かれるわけでもなく、作者の世界を表現しきれている本に心を動かされた。

「自分の本をつくってみたい」
素直にそう思える時間だった。

 

気になった本、波長が合うと感じた作家の本など、いくつか買い求めた。
後日、少しずつレビューしてみたい。

(この投稿はぶるぼん企画室「雑記帳」からの転載です)


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