職親(しょくおや) 原稿用紙三枚の“記憶”
職親
営業会議は滞りなく進行し、総括の時間が近づいていた。いつもは厳しい責任追及の場だが、その月は営業部全員が目標を達成していたため、会議室は活気にあふれていた。
「気が緩んでいないか」。翌月に向けて積極的な意見が交わされる中、О部長の発言が、空気を一変させる。部長の鋭い視線は僕に向けられた。入社して三年、ようやく印刷営業として一人前になれたと自覚し始めた頃だった。部長は、僕の仕事に対する姿勢や心構えについてひとしきり罵倒した後、聞くに堪えない言葉を投げつけてきた。
誰かの代わりに、あるいは営業全員を代表して叱責される「怒られ役」を引き当てることが多かった僕は、多少の暴言は許容できる忍耐力を身に付けていた。だが部長の言葉は、僕の鍛えられた心さえも一撃で打ち砕くほど悪意に満ちていた。同僚が皆、通夜の参列者のような目でこっちを見る。俯いたまま唇を震わせ、僕は涙をこらえていた。
О部長は異業種から転職してきた僕に、印刷業界の心構えや立ち回り方を指導してくれた。あまりの厳しさに何度も音を上げそうになったが、困ったときには的確な助言をしてくれたり、冗談で場を和ませてくれたりと、面倒見の良い人でもあった。いつしか僕の中に、部長に対する畏敬と信頼が生まれていた。
しかしその日、僕の心は折れた。
「ここに僕の居場所はありません」。翌朝、部長に退職の意向を告げた。
「あれは言い過ぎだった。撤回して謝罪する」。部下に頭を下げる部長の姿を、その時初めて見た。部長の目が涙ぐんでいることに気づいたが、僕の決心は変わらなかった。
広告代理店への再就職が決まった時、誰よりも喜んでくれたのがО部長だった。「お前ならやっていける」と、温かいエールも送ってくれた。その後、いくつかの広告会社を渡り歩いた僕は六年前に起業し、広告制作や情報誌の取材、編集を生業としている。
数か月前、「職親」という言葉を知った。仕事の上で自分を育ててくれた、親のような人のことをそう呼ぶ。О部長が頭に浮かんだ。部長は数年前に転職し、不動産会社の広告担当として活躍していると人伝に聞いた。消さずに残していた部長の番号に電話をかけてみたが、留守番電話に切り換わった。後味の悪い辞め方をしただけに、部長も心穏やかではないのだろうと、僕はそのまま電話を切った。
一週間後、部長から着信があった。「どうしたんや」と尋ねるその声は、心なしか嬉しそうだった。僕は印刷営業として育ててもらった感謝を伝え、部長の真意を汲めず辞めてしまったことを詫びた。
「あの時は、お互い若かったよね」。しみじみ語る部長の声を聞いているうちに、再び分かり合えた喜びで涙があふれてきた。退職後の身の上を語る僕を諭すように部長は言った。
「元気でやっとるんなら、それでええんよ」。わが子の無事を願う父親のようだった。
中国新聞文化センターの講座「いい文章を書く 文の力で心をみがく」に提出した随筆です。(2017年5月執筆 テーマ「私が出会った人」)
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