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ビヨンド・ザ・ソーシャルディスタンス with 藤田一照「死について」

ビヨンド・ザ・ソーシャルディスタンス Zoom対談
対談 禅僧 藤田一照&システマ東京 北川貴英
2020年4月9日配信分からのテキスト化
動画アーカイブは無料公開中

この状況を活かすには

藤田 北川さん、今日は、オンライン・ダブルヘッダーですね。
北川 そうです。たまたま甲野(善紀)先生も今日で。※
※当日昼に北川が甲野善紀師と対談。その模様の動画は無料公開中
藤田 あのあと、甲野先生のところから帰ってきたんですか。お疲れさまです。
北川 帰ってきました。甲野先生の技を受けて。お話をして。
藤田 僕も拝見しましたが、すごく盛り上がっていましたね。
北川 そうですね。甲野先生もいろんな用事がなくなったりして、久々によく知っている人と稽古されたみたいで。
藤田 甲野先生の技ってオンラインで見ただけではちょっとわからないですよね。実際にからだに触れて、崩されるとか、外されるとかしてみないと。
北川 そうなんですよね。今日は面白かったですね。
藤田 北川さんは直接、リアルで、ダイレクトにやっているから、そりゃ面白いでしょうよ(笑)。
北川 そうなんですよね。リモートの機会が増えて直接触れることができない、やりづらいって状況になっているじゃないですか。その中で体を扱ったりする人に、どういうことができるのかなっていうのを色んな人に聞いてみたいっていうのがそもそも最初の意図なんですよ。あの和葉さん(小笠原和葉さん)とか、魔女トレの西園さん(西園美彌さん)とかに話を聞いてみて。
2人 ふふふ(笑い)
藤田 僕はオンライン上のお寺っていうのを、2年ぐらい前からやっています。まあ別に、こういう外出自粛の事態を見越して始めた訳じゃないですけどね。実際は、僕が始めたっていうよりは、距離が遠くて直接会えない人にも禅を伝えるためには、オンラインサロンっていうシステムがあるから、オンライン上でお寺作ってみてはどうかっていうふうに、まあ尻を叩かれて、じゃあやるかなって始めたものなんです。僕の今までのティーチング・スタイルというのは、対面重視で、禅では、面々授受(めんめんじゅじゅ)といって、フェイストゥフェイスって英語では訳すんだけど、それこそ、唾が飛び交うぐらいの距離で、指導者と修行者が生活を共にして、毛穴からじわっと染み込むように、頭ではなくて、肌を通して学ぶのを理想にしていました。僕が「オーガニックラーニング」って呼んでいるような、そういう親密な関係を通しての学び方が、僕のやってきた禅では伝統的にすごく大事にされてきています。そういう学び方からみれば、教室でやるような学校教育なんかでも、まだ水臭いように見える。それこそ濃厚接触による伝授っていうのは、禅だけじゃなくて、家元制度とか職人の仕込み方とか武術など、日本の文化の基盤のなしているようないろいろな道で重視されていて、学校的じゃない生活ぐるみの学び方っていうのを僕は素晴らしいなと思ってきたました。僕自身が、大学院まで行って学校的な学びをやっていたところから、禅道場に住み込んでの修行という、そういう濃厚接触による、知らない間に日常から学んでいるような、毛穴から何かが知らないうちに染み込むような感じの学び方に切り替えた人間だったんです。接触感染みたいな学び方ですね(笑)。ですから、それとは対照的なオンラインなんかでいったい何が伝わるんだろう、たいしたことはできないんじゃないか、リアルにはとうていかなわないみたいな、オンラインに関しては半信半疑というかあんまり期待していなかったところがあったんですよ。でも、実際、半強制的な形でやらされてみると、リアルな坐禅会も並行してやっているんですけど、リアルよりもオンラインの方が出会いの裾野が格段に広がるなっていう印象を持ちました。オンラインがなければ袖すり合う他生の縁もクソもなかったような人たちがつながって、それを契機にリアルに会ったりするという展開が生まれてきました。本当は、今月末は京都にある、道元さんが最初に造ったお寺で坐禅合宿を、十数人とする予定だったんですけど、新型コロナでダメになりました。もともとは、オンラインで広く縁をつくって、さらに縁の濃い人たちとリアルに会って、という流れを考えていたですけど、今のような状態では、リアルへという流れがちょっと阻まれていますよね。だから、オンラインを工夫してさらにリアルに肉迫するような方向に変わっていく必要性が出てきている。今は、他のいろんな分野の友人たちと、北川さんも含めてだけど、リアルではできないけどオンラインならできることは何かっていう方向に、積極的に考えだしている。つまり、始めの頃は、オンラインを、消極的に、リアルへの助走とかウォーミングアップみたいに思っていた。リアルが一次で主、オンラインは二次的で従という感じだった。まあ、それはそれでもいいんだけどね。今の状況下で、もっと積極的に、ポジティブなオンラインの意義を考えていかなきゃいけないなっていうふう思うようになりました。僕の考えもこの状況の影響でそういうように変わってきているんですよ。
北川 この状況をむしろ生かしていく、みたいな。
藤田 そうですね。こうなったらオンラインというツールをフルに生かすしかないですよね。この新型コロナ・ウィルス状況というのは僕らが別に望んでつくった訳じゃなくて、図らずもこうなってしまった。まあ、こういう状況に投げ込まれてしまったというのも、考えようによってはひとつ面白いテーマかなとは思っています。やっぱりこういう状況になってしまうような社会というか、システムを僕らがいつの間にか作っていたからですよ。そういう社会の構えの隙のところにウィルスが入ってきて、弱いところがボロボロ露呈しているみたいな感じです。しっかりできていると思っていたものが結構脆弱なんだなっていうのを思い知らされている。僕ら一人一人もうわー、どうしようってあたふたしている。

重層的な観点を

北川 さっきも甲野先生も言ってましたけど、あんまり騒がなければ質の悪い風邪で済んだんじゃないかっていう。
藤田 そうですねえ。昔は歳を取ったらあちこち痛くなっても具合が悪くなっても、別に寿命だから仕方ないねってあきらめて、そううろたえはしなかったけど、今は癌だったり心臓病だったり、何でも病名がついて、要するに自然な老化じゃなくて、治療すべき病気で死にそうになっているんだっていうふうにみるようになったので、そのまま受け入れるんじゃなくて、なんとかしなきゃってことになる。昔は60や70で死んでも、そんなもんだ、まあよく生きた方だという感じだった。老衰だから天寿まっとうということで、別に死因をことさらに問わなかった。今は死因は〇〇でしたって言われるけど、本当にそれが原因で死んでいるのか怪しいもんじゃないですか?最後はそれがきっかけで死んでいるかもしれないけど、死ぬプロセスはもう生を受けたときから始まってるじゃないですか。だから本当の死因なんてわからない。光岡(英稔)先生がよく言ってましたよ。韓氏意拳の先生の言葉らしいけど、「生因もわからないのに死因がわかるわけない」って。生きているってことがよくわかっていないんだから死ぬってこともよくわかるはずがありません。新型コロナウィルスによる死亡って言ってるけど、本当にウィルスのせいで死んでいるのかどうか。ウィルスにかかっても死ぬ人と回復する人がいるとしたら、それはその人の条件てものを考えなきゃおかしいですよ。僕は、そう考えるので、ウィルスに殺されたというのは偏った見方になるなって感じがするんです。だから、本当はウィルスに殺されたとか言うのではなくて、原因はわからないけどただ死んだとしか言えない。でも僕らはどうしても何かのせいにしたい。事故死だってそう。僕らには、納得のいくような悪者を見つけて、加害者・被害者みたいなわかりやすいストーリーを作りたいけど、それって本当の本当はどうなのかっていうのは実際わからないよね。1人の死とか病気とかは、どういう観点から見るかによって、その描き方っていうのがいくつも可能になって来るんですよ。そのぐらいのことは考えておいた方がいいかもしれないですね。見方が1つしかないのって、すごく不自由じゃないですか。新型コロナウィルスにかかって、そのせいで肺炎になって死んだって、死亡届にはそう書かれるかもしれないけど、ちょっと突っ込んだ、その下の層の物語みたいなのを見ることができたら、もっともっといろんなファクターがバーっと絡んでたはずなんですよ。
北川 そうですね。たまたま失恋で心を病んで死んだけど、肺炎が見つかったってなったら、肺炎で死んだってことになっちゃいますからね。
藤田 そうそう。そうなんです。
北川 振られちゃった、パタ。肺炎だった。
藤田 だからそういう、単純な見方じゃなくて、多重っていうか、多層の見方っていうのができるような、なんだっけ、柔軟さっていうのか、奥行きのあるものの見方っていうのが、今まさに必要なんじゃないかと思うんですよ。いよいよやばいぞと、耳に入ってくる、あるいは目にする1つのストーリーだけで現実を理解して、その一面的な理解に基づいて、それが現実のすべてだと思い込んで慌てふためいたり、落ち込んだりしているっていうのが、今までだった。今まではそうだったんだけど、もうこれからはそれだと多分立ち行かなくなる感じがしているんですよ。今までだって本当は立ち行ってなかったんだけど、それでも運よくまあまあ進んでこれたけど、これからのように状況の過酷さの度合いが、ちょっとレベルが上がると、過酷さっていうのも1つの言い方でしかないですけどね、もうそうはうまくいかなくなるんじゃないか。今後の状況って多分、柔軟で多層的なものの見方とか応答の仕方が今までよりももっと必要になってくると思います。
北川 ちょっと前に、沖縄に行って。今の話、要は奥行きのある見方をしたいみたいなのがあるじゃないですか。沖縄に何十年かぶりに行って、あそこは不思議な場所だなと思ったのが、あそこは街灯が非常に少ないですね。国際通りでも暗くて。結構、僕は初めてのところ、馴染みのない土地に行くと、とりあえず歩き回るんですよ、わーって。そうすると、あそこは小さい石のお守りみたいなのとか、シーサーとかいろいろあるわけですね。そういうのを見て歩いていると、ポケモンGOみたいな気分になってきて、普通の現実の世界ともうひとつ、別のレイヤーの世界っていうのが、結構存在感が色濃く残っているんだなここはとおもって。
藤田 はいはい、都市というよりは森に近い。多分、情報量がすごく豊かで多い環境ということじゃないですかね。何世代にもわたって人々によって生きられてきた空間っていうのは、多分情報量がめちゃくちゃ豊富なんでしょうね。たとえ物がいっぱいあったとしても、情報量としては予測が効くっていうか、単純っていうか、僕らがすでに知っている知識とか概念で容易に整理できるから、都市のような環境は情報量が貧弱。でも、沖縄のそういう場所とか自然の森に行くと、未知の情報が多すぎて、整理しきれない感じがする。単調な音がただ聞こえるんじゃなくて、多種多様な音がまわり中から聞こえてくる。そういう刺激が不思議な感覚を生むんじゃないかなって思うんです。
北川 そこから東京に戻ってくると、なんて平坦な世界なんだって感じが、一時期すごいあって。
藤田 なんとものっぺりしているよね。平板っていうのかな。道だって、真っ平らで、山道のようにでこぼこがない。石ころなんか転がってないし。道だって曲がりくねってなくて直線まっすぐだからね。自然の道ってこういうふうに(なみなみの動作)なっているじゃない。だから体としては、こけないようにシャキッとさせられるというか、いつも一歩一歩を新鮮に踏み出さざるを得ない。道がまっすぐだと、点と点をつなぐみたいなもんで別によく見なくたって危なくない。いろいろなものが不意に飛び出していたり、何かがあちこちに落ちていたりすると、その都度気をつけるっていうのかな。そういう気づきが、環境から強いられるっていうんですかね。別に当人は、気をつけているつもりはないけど、感覚が目覚めてくるっていうか、フル稼働するみたいなことになる。ポテンシャルが発揮される。あんまり、それが限度を超えて極端になりすぎると、多分、恐怖感と危険信号とかになるけど、適度な量だと、体にはいいんじゃないですかね。なんだかウキウキしてきて喜ぶんじゃないか。
北川 ストレスがないと死んじゃうんじゃないかなって気がしますよね。だらーって、やることないし、気持ちもないしって。
藤田 そうだね。だから、こういうふうに強制的に外出を自粛させられているというのは、思いがけなさっていうのか、突発事故っていうのか、今までなかったことが起きちゃってるわけですよ。今までだったら分刻みでちょこまか動き回っていたのに、それができなくなって、ポカーンと間が空いちゃってる。
北川 そうですね。
藤田 そうすると嫌でも、これまでの暮らし方の単調さっていうか、平板さみたいなものが浮彫になってきている。
北川 実はいらなかったいろんなことが浮き彫りになって。
藤田 そう。長い歴史でいえば、多分、こういうコロナ的状況だってでこぼこの1つに過ぎない。今まで何も考えずにいた、人との距離の問題だってもっとまともに考えるようになるかもしれない。
北川 そうですね。

風邪の効用

藤田 人との距離にビクつくんじゃなくて、それすら、なんだっけ、自分の探究課題にするっていうか。武術の生き死にのかかった間合いの問題ぐらい真剣に考えてみる。だから、マーシャルアーツ感覚のソーシャル・ディスタンスのスキルを身につける。今までぬるま湯に浸かっていたような甘い生き方を反省して、生きることに関する危機感の感度をあげるみたいなことになるかもしれない。ソーシャルディスタンスというのは間合いの話ですからね。
北川 そうですね。社会的。ただ、僕の周り見ているとちゃんと練習できているとか、そんな感じの。特に甲野先生とかそうだったんですけど。そもそも罹る前提で考えているっていうのはありましたね。共通しているなと思って。
藤田 そうだね。僕もうちで、野口整体の学びの会を毎月やっているんですけど、その先生が言うには、罹らないように、罹らないようにって、神経症的にビクビクと防衛することばかり考えると、ネガティブな想像とかも加わって、負のスパイラル、悪循環に陥って不安、恐怖とかが増大して、心も体もどんどんかじかんでくる。そうするとウィルスに罹りやすい体になっちゃう。それとは逆に、どうせ罹るんだったらなるべく早く罹ってうまく経過させてやろうみたいな、どんとこい的な態度がある。野口整体創始者の野口晴哉さんは『風邪の効用』って本を書いているんで読んでもらいたいんですけど、新型コロナウィルスも広く言えば風邪ですよね。そのコロナウィルスと細胞のやりとりを見ていると、むしろ細胞の方がウィルスを取り込んでいるって見えなくもない。要するに必要があって体の方が風邪を引き込んでいるんだとみるわけですよ。catch coldって英語でいうじゃないですか。自力では体のアンバランスを治せなくなったから、リソースとして外にあるウィルスなり、細菌なりを積極的にキャッチして、取り込んで、熱なり、下痢なり、痛みなり何なり、僕らが症状と呼んでいるような現象を起こそうとする。だから、症状というのは病気の証拠じゃなくては実は体が自らを治すために、体に喝を入れているようなもんで、健康である証拠なんだと言うわけです。熱や咳そのものにビビらないで、ちゃんとその風邪のプロセス、体が自分でバランスを回復するプロセスを助けてあげれば、うまく経過して前よりも元気になる、命がいきいきしてくるっていうのが風邪の効用です。僕は大学の時、『風邪の効用』を友人から教えられて読んだんですが、まさに目から鱗でしたね。今まで風邪ひかないように、ひかないようにって周りから言われてた。僕のおふくろは看護師だったんでね。なおさらのこと、風邪ひかないように、ひかないようにって言われてたんだけど、この本を読んだら、風邪ひいたら喜ばなきゃ、熱が出たほうがいいんだ。そんなに高い熱が出せるほど、元気なんだ、いいぞっていうわけですよ。なんだ、お前は熱も出せないのか、風邪もろくにひけない鈍い体してんのかっていうふうに、僕が信じ込んでいたストーリーとは全然違うストーリーが、野口整体をやっている人たちなんかでは流通しているんですよ。
北川 そうですね。野口整体、そうですね。効用ですからね。
藤田 だから、そういうことを知っているだけでも、同じ熱が出ても対処の仕方がずいぶん違ってくる。風邪をひくことは悪いことじゃなくて、グッドチャンス、体をリセットして元気になるチャンス到来みたいな。慌てふためかず、こじれないようようにうまく経過させるように、体の働きを援助する方法があるんです。熱がでたら蒸しタオルで後頭部を温めるとか、足湯するとか、いろいろ。今はテレビでも時々足湯とか言われていますね。足湯バケツなんてものも売っている。熱が出たからって慌てて医者にダッシュして駆け込むよりも、少なくとも3日、4日休んで様子を見ていればほとんどの病気は自力で治るわけですよ。自然治癒力ってものがあるんだから。僕らは、アメリカにいた時、辺鄙な林の中で暮らしていたんですが、家族が熱を出しても保険に入ってないので病院に治療費が払えないとか、そこまでの距離が遠いとかの理由もあったけど、何よりもそういう野口整体的な考えがあったからか、3日ほど水は十分に飲ませて寝かして汗をたっぷりかかせて、汗を内攻(ないこう)しないようによく拭いてといった世話をちゃんとやっていれば、大抵は時間が治してくれましたね。で、前より元気になるわけです。
北川 本当に肌がきれいになったりしますからね。
藤田 そう、その通り。うちの上の子は二十歳越してから、大学生のときに水ぼうそうになってね。北海道で。
北川 大学生で?
藤田 そう成人してから水ぼうそうになったんです。すごい顔になったのだけど整体の先生に連絡したら、そのまま3日ほど我慢してたら治りますって言われて。
北川 ははは(笑い)
藤田 治ったらほんとに顔がツルツルになったと言っていました。野口整体ではそういう病気ってみんな、体が子どもから大人になる段階でかかるんだって。だから、お祝いしてもいいくらいだっていいます。だから、そういう常識に対抗するような見方を持っておくといいんじゃないですかね。もちろん、それを他人に強要したら、その人にその考えを受け入れる素地がないのに、それを強要したらまずいですけど。本人がそれを、そうかもしれない、あるいは、ほんとにそうだなっていうふうに受けとめていたら、同じ状況でもちょっと違うストーリーとしてみることができる余地があります。そっちの方が、強いというか、たくましいというか、余計な心配をしなくなる。うちの子たちは、何回かそういう経験を経ているからね。普通だったら病院に走るやつを、とりあえずは走らないで家でできる手当てをして様子を見る。要するに、自分で治したってことを経験するのが大事ですからね。外の権威に頼らないで。だいたいうちの子達は二人とも生まれるときも自然出産で、重力に引っ張られて落ちるようにして生まれてきてますからね。
北川 そうなんですか。自宅。
藤田 周り中から、危ないとか、もしものときどうするんだって脅されたけど、なんの問題もありませんでした。
北川 うちの子も自宅出産で。あんまり言わなかったですけどね、周りに。言うと何か言われそうだなと思って。
藤田 おふくろは看護師だったし、やっぱりあの世代、昭和の初め、戦争中に青春時代を送った人たちって、医者信仰が強いよね。その前の世代はそうでもないんだろうけど。もっと自立していたんじゃないかと思うけど、両親たちはやっぱり権威への依存みたいなものを教え込まれたっていうか、刷り込まれてるんだよね。なんでも専門家に頼らないといけない、らちがあかない、危ないって。自分よりよく知っている人とか、ちゃんとした学校出た人とか資格を持っている人とか。そういう人だって中身なんて怪しいもんなんだけどね、本当は。だから、僕らの考えのベースの中に、わざわざ自分が本来持っている力を、なんていうのかな、弱めるような、信じないような、他者依存的な考え方みたいなのが、知らない間に入っているんじゃないかなって思うんですよ。それが結構、大きな問題なんじゃないかなって思います。自分の体の中にある自然治癒力を信じないで、全部薬とか、手術とか、外にある手段に頼ってしまう。

「死」について

北川 そうですね。それと関連するか分からないですけど。この間、小笠原和葉さん(4月7日配信回)との話のときに、一照さんとの対談のときにぜひ「死」について聴いてみたいって話になって。僕がそれについてちょっと思ったのが、今日は、このコロナウィルスでもって、多分、全人類の、それによって死ぬ確率が、0.00001%くらい増えたかもしれないなって思って。そんなもんじゃんないですか。だけど、そのくらい増えたとしても、でも本当にそれって、ただ死ぬことを恐れているような気がしないんですよね。なんか見ていて。なんでかって言うと、そもそも「死ぬ」っていうことがリアルじゃないから。死体とか見ないし、そもそも自分死んだことないっていうのもあるし。特に、「死ぬ」っていうことがものすごいリアルじゃない状況で、「死」を恐れているっていうのは、考えてみれば不思議だなと思って。だって、あなた「死」っていうものをリアルに感じてなくて、なに恐れているのっていう。
藤田 僕は、『生きる稽古、死ぬ稽古』っていう対談本を出しているんですけど、その中でも言っているんだけど、僕らが知っている「死」っていうのは、全部他人の死ですよね。身近な人、あるいは新聞で見るような知らない人の死。あれは自分の死じゃない。自分の死っていうのは、死んでみないとわからないんだけど、死ぬときには、僕そのものが死ぬので、僕の死っていうのは実は経験できないわけですよ。もし、自分の死を経験できる何かが生きているんなら、たとえば、魂(たましい)みたいな感じで生き残っているとしたら、それは死んでないってことでしょ。
北川 つながっていますからね。
藤田 僕が死んだらどうなるかっていうのは、そもそも絶対にわからないっていうのが死というもののポイントだと思います。わからないものに名前をつけてるんですね。死んでも何かあるか、死んで何もないか、それを決定する条件が生きている間にはない。だから死って完全なクエスチョンマークですよ。不可知である。死ぬのは人生の最後に待っていることだって思っているけど、実は今も死に続けているわけです。生まれたときは行き始めだけど同時に死に始めでもあるんです。生きているということは同時に死へ向かって刻々進んでいることでもある。一歩一歩死につつ生きている。死に向かって生きているわけです。今この瞬間もそうですね。生きている間にやる呼吸の総数があるとすると、だれも予め知ることはできないけど、必ず最後の息っていうのがあるわけで、それに向かってひとつひとつ、カチンカチンってデジタルな数字が減っていく。だから、生と死っていうのは、僕の感じでは裏表にいつでも一緒にある。生の裏側が死っていう感じです。しかも、それは絶対こっちの生の側からは覗けない。そういう、まったく僕らには体験も理解もできない、完全な暗闇が、この明るいところに一緒にあるんだっていうすごい話なんですよ。だから、こうやって存在していること自体が不思議でしょうがない。そもそも無であっていいのに何で在るんだろうっていう、驚きみたいなのがありませんか。それは答えじゃないんですよ。驚きというか、答えが期待できない問いと言うしかない。驚愕、存在驚愕って哲学畑の人は言うわけですけどね。存在驚愕、その反対は、死への驚愕。生と死は同時です。禅は生死一如と言いますけど、それは生と死が別々にあってその二つが一緒になるというんじゃなくて、生と死が裏表で一枚の紙だっていう一如なんですが、それはもっと驚愕的ですよ。わけがわからない。だから、死のリアルさっていうのは、頭でわかっただけならリアルではなくって、驚愕して体が震えるみたいな、理解をはるかに超えたものを目の前にしたときの、震え、おののきみたいなものが生きている間にできるもっともリアルな死の想像の仕方でしょうね。でもそれでもあくまでも想像で、リアルな死ではない。リアルな死は僕らにはどこまでも未知なままです。
北川 驚愕、驚き。
藤田 そう、生死の不思議さにびっくりしちゃうこと。究極的に理解できないものが、僕らの人生のなかに不可避的に組み込まれている。いつでもどこにでもあるっていう不気味さ、それがこの明るさの裏側にある。たとえば後ろにはいつでも暗闇がある。前は明るいけど、いつでも後ろに暗闇がある。僕が子どものときにね、見えない後ろには本当は何もないんじゃないかっていう恐怖が、一時期あったときがあるんですよ。前は明るくて何かが確かにあるけど、後ろはどうなんだ、何にもないんじゃないか。振り向いたらその時にはあらわれるけど、前はなかったんじゃないか。また元の方向を向いたら、さっきあったものがなくなっているんじゃないか、後ろにも世界が確かにあるってどうやったらわかるんだろうっていう妄想みたいなことを一生懸命に考えている時期がありました。それを考えるとしばらく怖かったことがあります。そういうふうに後ろ側って絶対見えない。見えないのが後ろ側なんだから、努力したらわかるとか、悟ったらわかるっていうんじゃなくて、どうやったってわからないものを抱えて生きているんです。それを受け入れる方が自分の、第一人称のリアルな死に対する誠実な態度なんじゃないかな。それに耐えられないと、死ってこういうものだぞっていう誰か権威のある人とか、あるいは自分が納得できる説を鵜呑みにして、それを自分のポケットに入れて、それにすがっている、しがみついているっていう感じがあって、僕としてはそういうことはやりたくない。宗教って割とそういう気休めの答えを出すことを期待されている。ある意味、慰めのための、慰安の宗教って言うんですかね。人生や死の訳のわからなさや不条理さみたいなものに直面した時、耐えられない気持ちを答えをくれて慰めてくれる。一時的な杖というか支えとでも言うんですかね、すがるものを与えようとするタイプの宗教があるけど、僕は、それは買わないですね。買えない。買える人は買えばいいけど、僕は買えないですね。最初から無駄だって見え透いてるって言うか。

自分の足で立つ、ということ

北川 それは仏教的な教えということなんですかね。
藤田 うーん、同じ仏教といっても、慰めるやつと慰めないやつが両端にあってその間に幅があるように思います。仏教にもいろいろあってバラエティに富んでいるんですよ。異なる複数の伝統がいっぱいある。だから、たまたま僕は禅に出会って、禅の道、俺はこれだなって思ったんで今に至っている。禅の世界に入って思ったのは、やっぱり僕は中途半端な答えでは気が済まないので、とことん問い詰めていく方が好みなんです。出来合いの答えじゃなくて、問い方のシャープさを研ぐみたいなものが大事にされているのが禅なので、運がよかったなって思っています。
北川 結構その問い続けるっていうのは、案外、体力かなと思っていて。
藤田 そうですね。スタミナが要ります。
北川 体力がないと、安易な結論をキャッチして、もう考えなくていいやみたいになるような傾向があるんじゃないでしょうか。
藤田 そうですね。僕は修行者の理想的イメージとしては、自分の足でしっかり立つ人なので、何かに寄りかかるのはどうも。
北川 足で。
藤田 自分の足でしゃんと立つ。何かに頼っていたら、それが外れたりするじゃないですか。当てが外れるみたいな。自分はうたぐり深いって言った方がいいのかな。つっかえ棒を信用してない。支えっていうんならやっぱり、横じゃなくて下にある大地を踏まえてそれを支えにするっていうのがいいな。横の支えじゃなくて、下にある、この大地を支えにする。多分、僕の魂の好みみたいなのがあって、自分でも無意識にそういう方向を選んできているのかなと思う。だから、今やっている坐禅も何にももたれないで、じっとこうやって大地の上にまっすぐ坐る営みですよね。
北川 そうですね。
藤田 僕はスラックラインという綱渡りみたいなことをして遊んでいるんだけど、あれは要するに、立ち方を精妙にするために、揺れの中で立つ稽古をやっているんです。揺れるラインの上で立ったり、歩いたりしながら、下からの支えをどういうふうに自分の中に迎え入れるかという練習です。
北川 立つ。結構あの、禅のなかでも臨済宗でしたっけ。歩きながらの禅とか、ありますよね、たしか。
藤田 そうです。立つ、坐る、歩く、横になるっていうのが4つの代表的な動作で四威儀と言われるものです。あとの運動はこの四つの動作の組み合わせのバリエーションみたいなものです。そういった動作をみんな、坐禅のクオリティでやるっていうのが修行の眼目です。でもやっぱり禅は、その四威儀の中で特に坐るっていうのを選んで、坐禅をしてそこで練られていくクオリティを育成していくことを中心するという道を選んでいる。坐禅が仏道に入る正門だということになっています。でも、それだけじゃなくて、日常生活万般に坐禅のクオリティが波及していくというのが大切なんです。何をやるにしても、行為である限りは体でやることでしょ。だから、身体の運用法ってものにすごく興味があるんですよ。武術にも興味があるし、故障のある体を立て直す手助けをするボディワークにも興味がある。禅とは違う分野で培われてきたような洞察とか、実践の技法みたいなのは非常に参考になります。それを禅の方に輸入しようとしているわけです。そういうことやっている人はあんまりいないから自分で細々やるしかない。
北川 一度だけ、坐禅会にお邪魔したときにも、みんなでスラックラインやりましたね。覚えてます、木の間を渡したゴムベルトの上を歩いて。
藤田 そうです。あれは非常にベーシックでシンプルな稽古ですね。ロープというかベルトの上を落ちないように歩くだけですからね。でも、普段の歩き方では、上に立つことすらできないわけですよ。ゼロから謙虚にやり直して、もっと精妙に立ったり歩いたりしないといけない。精妙にしようとすると、たいていは頭で考えて意志でうまいことやろうとする。自分を振り付けするみたいに。そうすると落ちちゃう。
北川 コントロールしちゃう。
藤田 そう。あれこれ考えて、こうしたらできるだろうみたいに思うんですけど、それでは全然だめなんですよ。そういういつもやっているやり方をいったん放棄しないと始まらない。ベルトをコントロールしようとするんじゃなくて、ベルトに乗せてもらうって感じにならないといけません。なぜかって言うと、意志でコントロールするやり方でやると、必ず意志が操作できる随意筋が働くんですよ。外側の表層筋が。随意筋は働かせると縮むじゃないですか。縮むと体が固まってしまうんです。固まってしまうとあんな細いベルトの上にはいられなくてポロっと落ちちゃう。むしろ、逆に表層筋をなるべく緩めて、液体的にならないと、あのブラブラ揺れるのについていけない。その都度、いろんな形でベルトの上にいられる形をその都度その都度、即座に即興的に見出だしていかないとダメなんです。「あっ〜落ちる〜」って思って、落ちまいとして緊張すると固まって、パタって落ちちゃう。反射的に僕らはそうなるようになっているんだけど、落ちそうと思ったら、もっとふにゃっとならないといけない。そういうことは、考えたらダメなんですよ。考えてやったんじゃ間にあいません。
北川 遅くなっちゃうってことですよね。
藤田 システマも似ているじゃないですか。殴られるのに対して、ガンって体を固めるんじゃなくて、プハーって呼吸して液体的になれっていうでしょ。
北川 そうですね。
藤田 でも普通は、怖いんでグって固まって受け止めちゃうじゃないですか。そういうリアクションを手放さないといけない。その点でよく似ているんですよ。
北川 システマも、本当にちゃんと真面目にやっていくと、立って、歩いて、坐って、寝てってやつを、クオリティを上げていくと全部できちゃうよっていうことになっちゃうんですよね。
藤田 この間、北川さんに招待していただいて、ヴラディミア・ヴァシリエフさんのクラスに出席させていただいたんですけど、あの時、彼も同じようなことを言ってましたよね。歩いているだけだって。歩いている動作の一部としてストライクするんだって。
北川 歩くように打てって。
藤田 そういうパンチは体験したことがないじゃないですか。普通に歩いてくるなと思ったらいきなり、予備動作なしでパンチが飛んできて、ボーンと殴られるから、防ぎようがない感じですよね。先生、何度も強調してましたね。まずはちゃんと立つことや歩くことが始まりだって。まさに、今僕が言っているようなことと重なります。
北川 はー、すごい、禅だったんですね。
藤田 実際のところ、僕らはろくに歩けていない、ろくに立てていないのに、その上でパンチを出したりするから、バラバラな動作になってダメなんですよ。いざとなったら使い物にはならない。
北川 いやー、もう、ホントその通りなんです、システマ。
藤田 理屈聞いたらなるほどそうだと思うくらいだけど、ホントにそれができてる人を目の当たりに見るとホントにホントなんだと、思わず唸ってしまいますよね。
北川 そうですね。

公案を身体で解く

藤田 実物がいるのってすごい。頭でわかるのと実際できるのは全然違うもん。今日、甲野先生も言ってなかった?あ、違う、今日じゃないか。いつだったか、本人は全く殴るつもりはないんだけど殴るっていう行為が起きちゃうんだ、みたいなこと。僕が意志を使って殴ってるんじゃないんだみたいな。
北川 そうですね。我ならざる我っていうふうに言っていましたね。
藤田 それを必要な時に、必要なようにいつでも呼び出せるようになるっていうのが、稽古だよね。それを意志でやったらできないというすごいパラドックスがそこにあるわけですよ。やろうとしたらだめでしょ。我ならざる我を僕がやろうとしているからダメなんですよ。でも何もしないとないも起こらない。じゃあどうするのか。これ禅の基本的な公案の構造なんですよ。甲野先生の稽古って、公案を動きで解いているようなものなんじゃないですかね。
北川 そうなんですか。
藤田 何をしても全部だめ。しなくてもだめ。さあ、どうする?
北川 はあ。
藤田 このレベルでは何をしてもだめ、でも何もしなくてもだめ。じゃあ何をどうするのかっていうようなのが、公案の1つの、いろんな公案があるけど、ギューっと煮詰めていくとそういうふう骨組みになるんですよ。しゃべってはだめ。しゃべらなくてもだめ、さあ何か言ってみろみたいな。ダブルバインド状況なんだけど、それでもその状況に何らかの応答をしなければならない。手をこまねいて、どうしてもできませんって手挙げたら、喝を入れられたり、棒で叩かれたり、蹴飛ばされたりするわけですよ。さあ、何かやってみろって。状況っていつもそうですよ。僕らに何かを要求してくる。500円渡されて、マスクは今どこでも売り切れてるけど、マスク買ってこいと言われるみたいな、無理難題が降りかかってくるでしょ。
北川 マスクないですね。
藤田 500円渡されてね、マスク、例えば寝たきりの老人がお願いだからわしのためにマスクを買ってきてくれって、ないマスクを買ってこいっていうのがまさに公案。
北川 ダブルバインド。
藤田 買えませんって言ったらその老人の願いを否定することになる。かといって店に行っても売ってない。じゃあどうするんだっていう問題。
北川 結構、公案っていうのはそういうふうに考えると日常なんですね。
藤田 そうですよ。問題意識のある人にとっては日常は公案の連続。個々の具体的な無理難題はその深いところではもっと本質的な普遍的な人生の問題に連なっているものです。公案って公(おおやけ)の案(案件)じゃないですか。公っていうのはuniversalっていうかpublicという意味ですよね。個人を超えた、誰にでも共通する問題ということ。
北川 公け、パブリック、広い
藤田 でも当座問題になっているのは、僕に向かって起きてきたプライベートな問題です。一照さん、お願いだからマスクを買ってきておくれって言って、なけなしの金渡されて、店に行っても売り切れて、どこにもない。でも、それを言ってもおばあちゃんを悲しませたり、怖がらせるだけ。じゃあ、どうすればいい?無理だよ、売ってないよって言うのもだめだし、でも店に行っても買えないんだから、この場合どうするのがベストなのかという問題に直面している。これは僕個人のプライベートな問題だけど、実はそれはユニバーサルな、パブリックな公共の問題につながっているっていうことが洞察できたら、それは公案になるんですよ。私個人の困ったトラブルっていうのはいわば「私案」、個人の困りごとなんだけど、実は同時にユニバーサルな公の問題でもある。こういう状況っていうのは誰でも遭遇している。だから、僕の問題を解く鍵を見つけたら、それはみんなの問題を解く鍵でもある。僕の問題はみんなの問題の僕バージョンなんだ。そういう洞察こそが、宗教的な感性なんじゃないかな。単に僕一人が解決してめでたしめでたし、はい終わりでは済まさないで、万人の問題がここに具体的に出てきているんだっていう受け取り方がある。さっき話した、僕の個人的なスモール・ストーリーが人類のビッグ・ストーリーの中に位置付けられるみたいな感じ。スモール・ストーリーの奥にビッグ・ストーリーが透視できる。それができたら、多分、適当にちゃっちゃと片づけて早く先に行こうといういい加減な取り組みじゃなくて、腰を据えてじっくり取り組めるような態度が生まれてくるんじゃないですか。それが宗教心。
北川 マーシャルアーツ、武術とかがそれを切り結んでなんちゃらっていう技術じゃなくて、それを対人のメタファーとして、受け取れるのかどうかで中身が変わってくる。
藤田 だから、武術のああいうやり取りって、勝つか負けるかというコンフリクト、葛藤の乗り越え方を実地に訓練をしてるんでしょうね。いわば、身体的な公案のワークをやっている。単にこう攻めてきたらこう守るとかいうレベルの話ではなくて、その奥にある場のコンフリクト解消の稽古をやっている。どっちが勝つか負けるかとは違う話がそこにあって、それを見通せている人は多分、単なる殺傷技術の習得を超えた深い探究の仕方がそこで出てくるんじゃないですか。もうそうなったら宗教的な修行と区別がつかなくなってきて、稽古がもっと面白くなると思います。

NON-DESTRUCTION≒アヒンサー

北川 システマの話になってしまうんですけど、この、ここ(着ているTシャツ)にも書いてあるんですが、NON-DESTRUCTIONって書いてあって。ロシア発のマーシャルアーツと言いながら、非破壊、破壊の否定。これも公案そのものなのかなって、今話をきいて思っちゃったんですけど。
藤田 おお、まさに、そうですよ。どうしてその言葉をTシャツのデザインに取ったんですか。
北川 それは、ミカエルがそういうふうに言っていたっていうのが、トロント本部のWebサイトに書いてあって。それが、システマの最も大事なコンセプトっていうふうに。
藤田 あのミカエルさんがノンディストラクション(大笑い)
北川 ノンディストラクション。非破壊。
藤田 なんとまあ。仏教の最も基本は何ですかって言われたら、「ノーハーム」っていうのが答えですよ。
北川 ノーハームっていうのは。
藤田 ハームっていうのは、傷つけるっていう意味です。ノーハームは自分も他人も傷つけないということ。だからNON-DISTRUCTIONとすごく近い。
北川 殺生しないみたいな。
藤田 殺生もあるけど、言葉でも傷つけないということも含まれるからもっと広い。傷つけることの究極が殺生になりますかね。もっといえば、調和を乱さないっていうことも含むでしょうね。ハームっていうのは、もちろん文字通りには、切ったり殴ったりすることで、それこそ破壊行為ですよ。
北川 ノーハームですね、このNON-DISTRUCTIONて。
藤田 いやー本当ですね。なんという偶然の一致!サンスクリットだと、アヒンサーって言うんですよ。ガンジーのモットーの「非暴力」ですね、まさに。すごい言葉だね、それ。あんなボコボコ殴り合いしながら、ノーディストラクションが合言葉(笑い)。それによく見たら「ノー」じゃなくて「ノン」なんですね、それ。
北川 ノンなんですよ。これ。「ノー」と「ノン」て、どう違うんですかね。
藤田 「ノン」は「ノー」と否定するより、上のレベルに超越するっていうニュアンスがある。ディストラクションの反対語はノーディストラクション。でも、ノンっていうと、壊す、壊さない、のどっちかという二元論の話じゃなくて、その土俵を超えてもはや壊しようがないところに超えていけみたいな感じかなあ。ディストラクションっていうことがすでに問題にならないところ。壊す―壊さないはまだ壊すことを問題にしているじゃないですか。そこにテンションがあるけど、ノンデストラクションは壊すとか壊さないという言葉がもう使えないというか用無しになっている世界。
北川 正、反、合的な感じになるわけですね。
藤田 そういうふうに言ってもいいかな。でも弁証法の論理もちょっと単純すぎて、合で終わりじゃないですか。そこから先の展開がない感じ。
北川 そうですね。正、反、合で、めでたしっていうふうに。
藤田 そう、それじゃないんだよ。超え続けていかなきゃいけない。
北川 方向性
藤田 ノーはデストラクションを否定すれば終わりだけど、ノンってなるとクオリティというか次元が変わってしまうからね。

ゴールを目指すという神経症

北川 前、朝カルの横浜で対談をさせてもらったときに、一照さんのおっしゃっていたことで、悟りについてお話いただいたのがすごい印象に残っていて。悟ったっていうふうに、到達したっていうふうに思われているけど、実はそれってもう嘘だと。到達しちゃっているってことは止まているってことだから、それはどん詰まりってことじゃないかっておっしゃっていて。
藤田 そうですね。
北川 あれ、すごい僕は印象に残ってます。
藤田 悟りってゴールじゃないんですよ。僕らはゴールを目指して頑張るっていう構えで修行を見てしまう。そうすると、この道の途中はいつでもゴールの手前で、まだ未到。未到っていうのはまだ到達していないって意味です。だから未到の人はね、俺、まだだ、まだだってそのうち神経症になるわけですよ。早くゴールについてテープを切りたいという構えでいると結局、自分自身や他人と競争することになる。昨日の自分と競争して今日はもっと良くなったとか悪くなったと言って、いつでも進歩したかしないか、どのくらい進んだか、あとどのくらい行けばいいんだみたいなことばかりが関心事になる。ほとんどの場合そうなってしまいますよね。あるいは、他の人はどこにいるんだみたいな、俺より先なのか後なのかみたいな。そんなふうによそ見ばっかりしちゃう、この構えだと。だから、そういうのを神経症というわけです。比較が気になってしょうがないのが神経症の特徴でしょ。きれいか汚いかが気になってずっと手を洗い続けるみたいな。
北川 神経症。
藤田 で、俺はついに到達したぞと思った人はそれで自己満足してしまい、そこで進歩が止まってしまうし、あいつら遅いな、まだ着かないのか、俺は偉いだろうみたいな慢心が起こる。これも神経症ですよね。この理想のゴールを目指して頑張るってメンタリティは、下手をすると、ほとんどの場合、神経症患者をつくってしまうんですよ。そうじゃない別の努力の仕方を見つけないと、到達した人もそうでない人も幸せにはなれない。愉快になれないっていうのが僕の今の考えなんです。稽古もそうだし、勉強もそうだし、修行もそういう問題意識で考えてます。
北川 はい。

藤田一照から見たシステマ

藤田 システマは僕の考えと近いんじゃないかって、先生たちの指導とかみなさんの動きとか見ていてそう思うんですよ。もちろん、ミカエル・リャブコさんとかヴラッドさんに憧れるのはいいけど、稽古体系の中にそういう神経症的メンタリティが見られないんじゃないかな。
北川 そうですね。ミカエルが、そういうのは結構きっちりと自分はまだまだだしみたいな感じで。ミカエルがこう、ブルース・リーじゃないですけど、指をさして、俺は指をさしているんだぞっていう態度をすごい出すんですよね。俺の指じゃなくて、俺が指している月の方にいくんだっていう。けっこう多くの人が師匠を目指すという一般的な武術にありがちなフォーマットのまま来ちゃうから、ついミカエル目指しちゃうんですけど。多分それは、ミカエルは良しとしなくて。
藤田 だって、師匠と弟子の関係にあるミカエルさんとブラッドさん、全然タイプ違うじゃない。体型だって全く違ってる(笑)。
北川 違いますね。
藤田 だからね、僕らが見なきゃいけないのは、もちろんパンチの出し方とかそういう目に見える形じゃなくて、その見えてない、見えない何かですよね。彼らが、なんでああいうことができているのかっていう内なる働きですよ。その無形の働きが、ミカエルさんの体つきと個性ではああいうふうに表現されてるし、ブラッドさんの体つきとパーソナリティとかだとまた別のああいうふうに出てくるっていうふうにみないと、形態模写になってしまいますよね。僕はそういう無形の働きの秘密に興味があるんですよ。システマの練習法だってすごく面白いと思うんです。あれは、体のインテリジェンス、IQを上げているように見えます。知識じゃなくて知能そのものを磨いている。インテリジェンスっていうのは、個々の状況のなかでいくらでも答えをフレッシュに産出できる何かの働き。出てきた答えじゃなくて、必要に応じていつでも自由に答えを算出できる能力っていうのかな。それを育てようとして、壁を使ったり、みんなが押しくらまんじゅうみたいになったり、あんなのいちいち「こう来たらこう」みたいに考えてやってたら、とてもできないですよね。予測している通りになんか起きないんだから。それでもあそこでなんとか生き延びるっていうか、怪我しないでやっていくには、考えたことじゃなくて何か別な知恵みたいなのが必要で、みんなそれを持ってるということを多分信じてやっているんだと思う。ああいうふうにやばい、今まで経験したことのない状況をわざわざ作って、そこにいきなり投げ込んで、素人もそれから何年もやっている人も同じところに投げ込んで、うわーっとやってるじゃないですか。
北川 やりますね。
藤田 ああいう練習方法は他にはあまりないよね、多分。システマの練習方法を見たときに、すごく面白いなと思いましたね。型を覚えるってことがないし。
北川 小笠原和葉さんからコメントが。「刀を振り下ろすことを、『地球に持ってもらう』という風におっしゃっていました。甲野先生が」。
藤田 なるほどね。宇宙を味方にしているわけだから最強で、負けるわけがない。
北川 宇宙を味方にしちゃいます。宇宙をスポンサーにしちゃいましたね。
藤田 多分、そういうストーリーを、自分の身に受肉できたら、多分、体の運用も出力もガラッと変わるでしょうね。よくあの、格闘技漫画でも、自分を暗示にかけて虎になりきるみたいなシーンが出てきますよね。たとえば、中国拳法でも虎になりきって動いたりするのあるじゃないですか。

他力であり自力であり他力

北川 これって仏教的な、他力っていうことになるんですかね、ざっくりと。
藤田 それは、他といえば他ですね。でも他といっても自分と離れて、向こう側にあるわけじゃない。間違いなく自分の中で働いている。でも日常目線からすると、どうしても他から来ているようにしか思えないっていうのはある。それをとりえず他と呼んだんだと思いますけど。でも実はそれこそが本当の自なんじゃないのか。普通は他と自はお互いに否定し合うんだけど、同じ一つのものを他と呼んだり、自と呼んだりしているのかもしれない。だから、別々に2つが存在するのとは違う。便宜的説明のために分けて言っているだけで、その一つのものがわかった人には自といおうが、他といおうが、どちらでもいい。だから自といえば他じゃない、他といえば自じゃないみたいな二元論のレベルで、自と他を使っている人からすると、自というか他というかは大問題だけど、言葉の指しているものを本当に会得できている人からすると、自も他も、それこそ月を指す指の違いにすぎず、その時に応じて、自に囚われている人には他といって揺さぶり、他に囚われている人には自と言って揺さぶる。人を言葉への囚われから解放するために言葉を自由自在に使えるようになる。だから、何を言うかよりも、何を指しているかが大事です。だから、今のような、和葉さんが言ったような表現も、決して大げさじゃなくて多分正直な感じを表現しているのでしょう。甲野先生、そういう言い方を自分でどんどん編み出して喜んでいるっていうか、楽しんでいるというか。
北川 ははは(笑い)

言語化の役割

藤田 甲野先生の技の名前の付け方とか体感の表わし方ってすごく粋ですもんね。
北川 そうですね。名前つけるの好きですね。何か他に質問があれば。
藤田 あの命名法ってなんとなく体感でわかっているものを、言葉にして、定着させたいっていうのがあるんじゃないですかね。フォーカシングっていう、心理療法の一つの技法があるんですよ。例えば、お腹あたりになんとなく重たい感覚があるとか。胸が詰まる、息苦しい感じみたいな。確かに身体感覚なんだけど、何か私に告げ知らせようとしているような心とも言えるような感じ。“フェルトセンス”って言うんですけど。フォーカシングで何をするかというと、フェルトセンスとじっくり対話して、それを言語化していくことを一人でやったり、セラピストの人と一緒にやったりするんですよ。自分の人生の停滞状態がそういう感覚になっているので、自分一人かあるいはセラピストと一緒に、フェルトセンスと対話していくうちに、それにぴったりした言葉が見つかると、堰を切ったみたいにダーっと停滞が解けて流れだすという現象が起こるんです。こういうことを基にしていろいろな技法が開発されているんですが、やっぱりわれわれは曰く言いがたいものを言語化する努力をする必要がある。借り物の言葉じゃなくて、たとえば「そう、その音だ!」みたいな感じの擬態語でもいいんですよ。ぴったりした感じの表現が見つかると、整理ができて、先に進んで行ける、ほんの一歩かもしれないけど。甲野先生のユニークな表現法ってそれに近いのかなと思っていつも聞いています。うまい表現法が見つかったらすごく嬉しいわけですよ。霧が晴れるみたいな。
北川 例えとか。
藤田 そうそう。しかも、それがたまたま古い伝書の中にあったりしたら、もっと嬉しいんじゃないですか。昔の達人が俺に近い表現していた!みたいな発見。自分で苦労して見つけたものが偶然一致していた。
北川 これわかる~みたいな、そういう感じが。
藤田 遠い過去に仲間を見つけた喜びみたいなのがあるんじゃないですかね。
北川 他に誰か、どなたか、視聴者のみなさん、質問のある方がいたら。
藤田 はや!もう一時間経ったんですね。
北川 チャットかQ&Aのところにお寄せいただければ。藤田一照さんが何でも答えてくれますよ。返って悩みが深くなるかもしれないですけど。
藤田 そうですね。訳のわからんことばかり言ってすみません。さっき、甲野先生が独特の比喩とか、技の名前の命名みたいなのを発明して楽しんでいるって言いましたけど、僕もそういうとこあるんですよ。僕はこういうおもちゃ(実物を見せて)みたいなのを見つけるとね、嬉しいんですよ。自分のアイデアと完璧にぴったりじゃないけど、けっこううまく表現してくれるおもちゃね。別にそのために作られたものじゃないけど、僕の言いたいことのたとえとしてうまく使えそうなやつ。たとえばこれホーバーマン・スフィアというんですけど、僕の話の中でよく使っているおもちゃです。こうやって一箇所を動かすと、こういうふうに他もいっせいに動きます。こういうのを見つけたときに、あ、これであのことが言えそう!って嬉しくなる。

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言いたいことがうまく言えないで困ってるときに、パっとぴったりの言葉とか表現が浮かぶみたいな感じで、おもちゃとか道具が目に入ってくるときがあります。あ、これ使えそう!って。禅でも公案の答えを師匠に言った時、それに著語(じゃくご)をつけてみろと言われるんですよ。お前が今言ったことをピタリと表している歌を一つたとえば古今和歌集の中から探してこいとかね。僕だったらね、まどみちおの詩の中から探してこいとか、谷川俊太郎の詩集の中でぴったりのを探してこいとかいうでしょうね。中島みゆきの歌の中から探してこいとか。それと同じで、おもちゃ屋さんに並んでいるアイテムでぴったりのを探してくるみたいなことをやっているわけです。言葉じゃなくても物であってもいいわけでしょ。そういう連想ゲームみたいなことを趣味にしているんですよ。あの言葉だなとか、中島みゆきのあの歌だとか、おもちゃのこの感じだとか。
北川 ちなみに、そのおもちゃはどういう感じの例えに?
藤田 これはね、すべての頂点が関節でつながっているおもちゃです。これでいろんな例えができるんですよ。全てがつながっているという縁起の話をするときとか、全身が連動して動く時のたとえとか、一箇所が動かないのはそこが原因じゃなくて、別なところの緊張が原因だというような話の例にしたり。
北川 おおお。
藤田 あなたはこういう閉じたトゲトゲの状態でいたいですか、それともこうやってひらいて周りとつながりながら風通しの良い自分でいたいですか?って、こいつを閉じたり開いたりしながら質問したりするんですよ。これは材料は同じでも、かじかんだちっちゃな形にもなりますし、大きく開いてスケスケの形にもなれますよってね。緊張とリラックスという体の状態の比喩になります。これがさっきのキューって緊張している状態ですよ。
北川 キューってなって、トゲトゲしちゃって。
藤田 ウィルスなんて絶対に入れないぞっていう構えをヴィジュアルにしたのがこれです。イメージとしてわかりやすいでしょ。
北川 コロナウィルスみたいな形ですね。
藤田 こうやって閉じて、外部から不確定要素を入れないようにしているわけですよ。こういうのを強いっていうのか、それとも、これ(おもちゃを広げて)もありです。これ、外部のものがスカスカ入るんですよ。出ていくこともできる。
北川 通り抜けちゃう。
藤田 そう、通り抜けていく。こうなったらね、外部と内部、境界がわからない。未知のものとか、不確定なものが入っていって、どんどん変化して、豊かになっていく。これだと(おもちゃを閉じて)もう変化しようがないんですよ。状態が全然違うでしょ。仏教が言おうとしているのは、これ(おもちゃを閉じた状態)はしんどいよ。しんどいっていうか、愉快じゃないって言った方がいいかな。開いたほうがいいよって勧めている。それを言うのに、このおもちゃは使えるなと思ったんです。もちろんそのために造ったものじゃないんだけど、僕の言いたかったこととこのおもちゃがぱちっとつながる。武術のコンセプトを禅に輸入するっていうのもそう言う感じです。本質的なことって、武術の世界だけで通用するんじゃなくて、もっと汎用性がある。逆に禅や仏教の世界で長年実践されてきたことは仏教のなかだけでは納まらないですよ。それこそパブリックで、ユニバーサルな原理原則がそこにはあって、もっと広く知られるべきだと思います。武術も仏教もこういう(おもちゃを広げた)状態で相互に交流しあっていけばいい。仏教にもこういう(おもちゃを閉じた)状態のものもあるけど、こういう(おもちゃを広げた)仏教の在り方だったら、武術、ボディーワーク、科学や哲学、芸術といろいろな分野とつながって豊かになれる。同じ仏教やるなら、こっち(閉じる)の方向じゃなくて、こっち(広げる)の方向の方がやってて愉快だなと思っているんです。だから、節操なくいろんな人に習っているわけですよ(笑い)。

曰く言い難しの言語化

北川 それでこんなZoomにもお付き合いいただいて(笑)。チャットのところに質問がありますね。「言葉にするのは良くないという考えについてはどう思いますか」って。これは、動作の言語化に対してよくある反論だと思うんですけど。
藤田 これね、言語化してそこに止まっちゃだめなんですよ。言語化したらそれを奪う、奪うっていうか捨てていく、またもっと良い言語化を探していく、僕はそうすればいいと思ってます。言語化すらもできないのは怠慢なんじゃないですか。質問者さんの言うように、言語化するなっていう立場もよくわかりますよ。言葉にとらわれるからね、当然。あえてこと(言)上げしないっていうのが今までの日本の伝統で、僕みたいにべらべらしゃべる奴っていうのはダメなんです。僕の場合は、アメリカに行って、それと全く逆の文化のところに行ったわけですよ。知ってる奴は言わないという文化から、言わない奴は知らないんだって文化へ入っていった。
北川 言語化すると戒められる。自分の思考が言葉に引きずられて固定化されるから戒めるってことですね。
藤田 そういう面も確かにあります。言葉にとらわれる。でも、言葉にとらわれた人をどうやって解放するかっていうと、やっぱり言葉によると思うんですよ。言葉に触れたらとらわれてしまうような言葉との関係しか知らないのはまずい。人間は言葉を使う動物なんだから、言葉にとらわれないで言葉を使えるようになる必要がある。禅では、まず言葉を徹底的取り上げていく段階とそれから言葉によって徹底的に表現させる段階があるんです。最初の段階は、言葉を取り上げていくんですよ。何も言っても否定される。口を開こうとしただけでもうペケっていうくらい、全部取り上げるんですよ。言葉を通さないで、リアリティ、実物そのものに直接触れさせるんですけど、その後は、それを言葉で表現させようとする。それはなぜかというと、衆生済度といって、言葉にとらわれている人たちの中に出ていかなきゃならない。山のてっぺんにとどまっているならそれでいいけど、そこから降りてきて、言葉にとらわれている人たちの中に帰っていくので、言葉が自由自在に適切に使えるようになっていないといけない。
北川 あー。
藤田 そういうのが1つと、もう1つはね。こういうふうに山に上がっていって、頂点にたったら、その後は降りてきていいって多くの人は言うんです。だから、頂点行くまではしゃべるなってことになるんだけど、それはちょっと機械的というか図式的すぎるんじゃないかと思ってます。これだと、上がるのと下がるのを別なフェーズが二つあることになりますが、実際は上がるのと、下がるのを同時にやっていないといけないんじゃないか。上がった後じゃないとしゃべれないとなると、しゃべる日なんかきっと来ないですよね。
北川 そうですね。
藤田 僕は、言語の、人を縛る危険性と人を解放する力っていう二面性を見ていかないといけないと思っています。だからもっと自由自在に、なんていうんだろう、言っては否定し、また言っては否定しみたいな、いつでも居着かないで動いてればいいんだと思う。言語表現は停滞しちゃいけない。言語はどこまでいっても常に近似値でしかない。言い切ることなんかできないから、言い続ければいいって、道元さんなんかはそういう立場ですね。
北川 言い切れないとわかってて言い続けるっていう。
藤田 そうそうそう。どこまでも肉迫していくっていうこと。日本の場合は、「曰く言い難し」って早く言いすぎるって思います。「曰く言い難し」という逃げ口上をなるべく言わないようにして、一鍬でも掘り下げた表現を探求し続ける。僕なんかはそっちの方が好きですね。
北川 しゃべっていい方が。
藤田 ご存知のように、僕はこういう感じでしゃべりまくるので、禅僧らしくないって言われる。こうやってとにかくしゃべってるとね、思いがけない発見があるんですよ。しゃべったことにこだわるってことはあんまりないです。間違ってるって言われて、そうだと思ったら、潔くそうですかって引っ込めて、じゃあまた別の言い方で言いますってなります。

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