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【コラム】ふと、思ったこと⑦〜分断された世の中で

◇参議院選挙を終えて

意外な結果だった、と多くの人が呟いているように思う。しかし、その「意外さ」の中身は人によって異なる。

なぜ自民党が圧勝したのか
なぜ維新が躍進したのか
なぜ立民がこんなに支持されないのか
なぜれいわが議席を増やしたのか
なぜガーシーが当選したのか
なぜ参政党が早々と議席を獲得できたのか

他にもあるだろう。
私もこの中の複数のことを思った。

特に①や②、⑤あたりの現実に「民主主義は死んだ」と過激なことを仰ってる方も目にする。そしてそれは「投票率が上がれば非自民、非改憲勢力の議席が伸びる」と仰っていた方ともある程度重なるようにも感じる(あくまで主観だが)

しかし、投票率が上がったのだが、現実はそんなに単純ではなかった。改憲勢力の維新が議席を伸ばしたが、立民と共産は議席を減らした。一方でれいわ新選組も議席を増やしたし、社民党も政党として存続したが、N国党もガーシー議員が30万票を集め、参政党も社民党よりもたくさんの票を集めた。

先述の方々の思うような現実は待っていなかった。ただ、その発想に懐疑的だった私にとっても、特に小規模政党の奮闘は意外な結果だった。

これは民主主義の敗北なのだろうか。

いや、歴史をひもとけば民主主義とはこのようなシステムなのではないだろうか。民は「正しい」結果ばかりを生み出すのではない。だから自称「インテリ」は衆愚と馬鹿にする。
しかし、多くの人(とは言え有権者の半分強)が自分の立場を表明し、反映された結果が今回の選挙結果である。すなわちこれは「民主主義の現実」であり「敗北」を謳う人たちは単純に現実を直視できていないのではないか。

特に同業者は自分が現実を直視できていない中で、生徒に向かって「現実逃避するな」「楽な方に逃げるな」等と言うならば、もはやそれは自家撞着であろう。大人はそんなに完璧ではないということを身をもって教えているとも言えるが。(こんなことを言ったら、また嫌われそうだが)

なんにせよ、今回の選挙結果はこの社会の分断が大きく進んでいることを示しているのだと思う。

◇他人の死を悼むこと

今回の自民党の圧勝劇に、安倍元総理への襲撃を挙げている人も居る。
だいたいはそれを「政治と無関係なことで同情票が流れた」としている。

もちろんその要素はあるだろう。人間は感情に流される。ひょっとしたら比例で投票先を迷っていた無党派層が「自民党」と書いたかもしれない。小さな一票が積み重なれば立民や共産党の議席を奪うことにつながるだろう。

しかし、本当にそれだけだろうか。あの事件の前から与党優勢で維新を除く野党劣勢、という前評判だった。
むしろ個人的には立民も共産党もそこまで大きく減らなかったように思える。

そして彼の死を巡っては、一人の人の死を悼むこともせず、(無理やりにでも)悪人のイメージをつけようとしている人が散見される。

もちろん、長く権力の座にあり、その中で様々な疑惑が持たれていて、それを司法が裁いていないと感じている人が居ることも分かるし、そもそもある人物をみんながみんな悼むべきとは思わない。

しかし、あれだけ国民の前に立って国を引っ張った人だ。その死を悲しむ人も多く、事件現場の大和西大寺駅前は献花をする人で連日大変な混雑だったという。その死を悲しむ人も多い。
その死を悼む人に寄り添う、少なくとも49日ぐらいまではそうあってもいいように思える。相手は死者だ。評価を下すのはそのあとでも十分に間に合うのではないだろうか。

◇そして自分も分断された側に居る

私自身の安倍元総理への評価は避ける。しかし、彼を悪として捉える立場にはないことを表明しておく。と、すると私自身も分断された片側に居るのだ。アベガーと叫ぶ人とは違う岸に私はいる。

みんながみんな自分と同じ立場でなくてもよい。嫌いな人は嫌いでいいじゃないか。でも、悲しむ人も悲しんでいいじゃないか。それを嘲笑したり馬鹿にしなくてもいいじゃないか。

他者の立場を想像する、その力こそが知性と考える私は、自分と立場が違う人間が居ることは常に心に留め置いておこうと思う。

ふと、思ったこと。

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